宮台真司氏の所説の疑問:補遺

宮台真司説にせよ、丸山真男説にせよ、
「亜インテリ論」は妥当かと問われれば、
我輩は“否”と答えざるを得ない。
そもそもインテリゲンツィア、知識階級と呼ばれるものすら、
抽象過ぎてその実体性は疑わしいものである。
宮台氏の「田吾作」発言に至っては
単なる罵倒語としてしか理解出来ない。
農業人口が一割を切っている今日では、
農民や百姓すら死語に近かろう。

インテリゲンツィアはいまだかつて階級ではなかったし、もともと階級にはなりないものである。かれらはその成員を社会の全ての階級から寄せ集めてきた中間層であったし、現在も依然として中間層である。過去の時代には、インテリゲンツィアは、貴族やブルジョワジーのあいだから、部分的には農民のあいだから、そしてごくわづかの程度においてのみ、労働者のあいだから募集している。が、いかなるぐあいにもその成員を集めてこようと、またかれらがいかなる性質を有していようと、いづれにせよインテリゲンツィアは中間層であって、階級ではありえない。


実に皮肉っぽい調子のインテリ論であるが、
これを書いたのはかのスターリンである。
フルシチョフによる批判が露見するまで
聖人君子の如く崇め奉られ、
あげく廃仏毀釈の如く見捨てられ軽蔑された男であるが、
今日なおロシア人の間では人気が高い。
加えて――これはロシアの指導者に共通する事だが、
良かれ悪しかれ熱心な勉強家であった。
我が国の政治家も志士のような文人政治家でなくても良いから、
せめて読書くらいはして欲しいものである。


先に「志士」という表現を用いたが、
明治の初期において、
インテリゲンツィアに対応する語は
「志士」であると考えられていた。
と言うのも、明治初期の学生において、
将来の理想は専攻如何にかかわらず、
天下の治者たることであり、
それは「書生、書生と軽蔑するな、今の参議は皆書生」
といううたわれ文句にもよくあらわれている。


元書生と言われた若き維新の志士たち*1
黒船来航から維新までの僅か15年間に台頭した人々であり、
彼らにおいては何より実経験から得るところが多く、
規則的な教育を享受する者は少なかった。
インテリとしては嫡流ではない実に雑多な人々である*2
彼らはエリート意識こそ強かったが、
彼らにおいてはエリートとインテリの区分はまだ見られなかった。
彼らは時に著述家(啓蒙家)であり、政治家であり、軍人であった。
これは過渡期故の現象であったと言えよう。

竹内氏による記述の洗練を踏まえていえば、文化資本を独占する知的階層の頂点は、どこの国でもリベラルです。なぜなら、反リベラルの立場をとると自動的に、政治資本や経済資本を持つ者への権力シフトを来すからです。だから、知的階層の頂点は、リベラルであることで自らの権力源泉を増やそうとします。だからこそ、ウダツの上がらぬ知的階層の底辺は、横にズレて政治権力や経済権力と手を結ぼうとするというわけです。


(中略)


さきほど、丸山真男の亜インテリの概念を紹介しました。「知識や教養を持つのに、社会や文化の批判という使命を果たさずに既存体制維持に協力する、知的には二流以下の階層」という意味です。アカデミック・ハイラーキーの頂点になりたいのになれない人びとの前には、ミドルマンになる道と、亜インテリになる道とが開かれています。日本は亜インテリだらけで、ミドルマンがきわめてすくない。それが日本のメディアの機能不全をもたらしています。


この宮台真司氏の意見は対象を単純化し過ぎている上に
亜インテリ(≒ミドルマン)と大衆の役割を軽視し、
リベラルに代表される知識人を買い被っている様に思われる。
明治の近代化にしても、
昭和の翼賛体制及び復興にしても、
日本の推進の動力源を担ったのは、
常にミドルクラスの実学インテリ(≒亜インテリ)たちである。
田に水を引く水車の建設者は
確かに一部のエリートたちによって行われたが、
その水車を回す足となったのは実学インテリたちであった。
彼ら無くして日本の近代化はありえなかったし、
良かれ悪しかれ戦争遂行も不可能であったろう。
彼らをプラスに評価すれば草の根のモダニストと言えるだろうし、
マイナスに評価すれば草の根のファシストとも言える。


こうした人々は大衆と選良との間にあって、
一種の緩衝材として機能していたが、
業種が多様化し、人々の繋がりが希薄化する今日に於いて
彼らを実際に見、実感する事は難しい。
ノーベル化学賞を受賞したサラリーマン
田中耕一*3氏はその最後の光芒であったように思う。
正確に言えば、明治の教育設計者達の理想が達成された、
と言う意味においてである。


逆説的であるが、理論や思想はそれが一般化すればするほどに、
それ自体は目立たなくなるものなのである。
理論が現実と乖離しているからこそ理論家は声高に己の思想を叫び、
理論が現実において実現しつつある時、理論家は満足の内に沈黙を保つ。
それ故に生きている思想を見ようと思ったら、
我々は書かれた物ではなく人間の生活を見なければならない。
思想家以外の人間に於いて思想とは、
生活という形で表されるからである。


知識人の歴史を振り返ってみた時、
今日的姿を取ったのは極めて近年の事である。
それまでの過去に於いて、
エリートは同時にインテリであったし、
インテリは同時にパワー・エリートであった。
今日のインテリを特徴付けているのは、
知的であるかや知的誠実さなどではなく、
単に職業に於ける専門化が進んだ事による。
インテリだけが何も特別な地位にある訳ではない。
それは今日の雇われ社長や群臣の一人に過ぎぬ官僚など、
各種実業のパワー・エリートにすら言えよう。
つまり、多様化と同時に数が多過ぎるのである*4


この論文は読み様によっては
リベラルは常に体制から自立し批判している、
と言う風に読めるが、
それは実態から非常に乖離している。
20世紀初頭以降、先進諸国では、
インテリすらもが体制に動員され、
また、そうであるが故にその職能的特徴が強調される。
ニューディール体制におけるリベラル知識人、
ナチズム、ファシズムにおける一部の知識人、
近衛体制における自由主義者を中心とした昭和研究会など、
むしろ積極的に体制を運営する側に回った知識人が多いのである。
ポルトガルなどに至っては大学教授であったサラザール
軍部独裁に協力し、最終的には独裁者にまで上り詰めている。


さらに「知的階層」と言った時、
リベラルであれ何であれ
果たして権力から自由で居られるであろうか。
残念ながらそれは肯定し難い。
何故なら、そもそもその「知的階層」を作り出した、
あるいは知的世界の秩序を構築したのが、
かつての権力者達であったからだ。
帝国大学を設立し、それを頂点とする教育システムを作ったのは、
森有礼井上毅など当時の権力者である。
今日なおそのピラミッドを崩せずにいるのは、
私学の怠慢と在野精神の貧困さに起因すると言わざるを得ない。
今日のサラリーマン教授よりもたとえ知識や情報は乏しくとも、
開学当初の私学設立者の方が「自由」の何たるかを理解していただろう。


かつて福沢諭吉は同時代の学者を批判して
その学は「官許」であると述べている。
この皮肉が表すようにアカデミズムが必ずしも
体制批判の役割を担っていたわけではなく、
むしろ体制と不可分の状態にあった。
学園の自治にしても、自由にしても、
それは与えられた権利に過ぎない。
それ故にアカデミズム批判は
何も蓑田胸喜のような右派だけでなく、
左派でも竹内好吉本隆明などアカデミズムの
激烈な批判者が現われてくるのである。
それが最も先鋭化した全共闘は、
この体制と密着したアカデミズム(特にその象徴しての東大)
を暴露したという意味では評価しうるだろう。


時に評価という言葉について、
人々はそれを賛意や礼賛と勘違いしている嫌いがあるが、
評価とは単に物事の一側面に光を照らすものでしかない。
我々が知り、あるいは見るのは、
事物の極々一面の事に過ぎないのである。
大抵は甘いも酸っぱいも嘗め尽くしてしまう前に、
この味は何であるとか判断を下してしまう。
此の種の判断において最も忌むべきは、
“良い”“悪い”の裁定(judgement)だ。
と言うのも人に思考停止を強いるからである。


今回の宮台氏の論文で我輩が最も反発したのは、
氏が明らかに読者に踏絵を迫っている事だ。
本来、知的営為とは試みであるはずだ。
知的営為のような虚業においては、
実業に於けるような一回性を背負わなくて済む。
そうであるが故に条件付けなど施すべきではないのだ。
知的営為に於いてそれ自体に意味など無いし、
また、根拠なども全く無いのである。


今日、左派に対してだけでなく、
右派の知識人に対しても人々が冷たい視線を送っているのは、
まったく致し方無い事だと言わざるを得まい。
彼らはもはや如何なる権威をも認めず、服従を拒否する。
誤解を恐れずに言えば、
宮台氏が言うようなミドルマンと亜インテリの違いなど、
真正のインテリとやらに対する忠誠と反逆の違いに過ぎまい。
そういう態度は長い目で見れば必ずや手痛いしっぺ返しを食らうだろう。


我々が前世紀に学んだ痛恨事は、
思想を固定化する試みは必ず破綻するという事だ。
冷戦の勝利をイデオロギー闘争の終焉と見て、
自由主義を移植しようとした試みがどうなったか、
共産主義が歴史の必然であると見た体制の実態がどうであったか、
我々はもっと思い至るべきなのではないか。
自明なるものなど何も無いというマニフェスト自体が、
自明なるものなど“何一つとして無い”という事に反するのである。
にもかかわらず、どうして斯くも無邪気に人は
論理を駆使する事が出来るのだろうか。
無謬性への信仰無くして確信などは存在しない。
今日の知的営為はまことに難儀な事である。


それにしてもこの種の問題において、
「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」
と言う歴史家アクトンの言葉は俗耳に入り易いが、
それと同程度に権力の欠如もまた危険と言わねばなるまい。
何故なら両様に無責任を拡大するであろうから。
サヴォナローラカルヴァンの神聖政治然り、
クロムウェル清教徒支配然り、
レーニンスターリンプロレタリアート独裁然り。
東洋においてすら王莽の儒教政治など、
権力(俗権)否定の逆説的圧制を見る事が出来るが、
権力の真空は充満と同程度に危険なのである。
襤褸を纏った聖人の政治は豪奢王の政治より時に苛烈なのであって、
我々はソドムとゴモラを焼き尽くしたのがその地の悪党ではなく、
神聖なるものの御業である事を忘れてはならない。
我々は邪悪なるものをおそれるのと同様に神聖なるものをおそれている。


まったくもって度し難い事に
人間と言う生き物は
悪(権力)に染まる事も出来ず、
神聖(愛智、信仰)である事も出来ないのだ。
かつてニッコロ・マキアヴェッリが嘆いたように、
人間は、百パーセント善人であることもできず、
かといって百パーセント悪人であることもできない。
だからこそ、しばしば中途半端なことをしてしまい、
破滅につながることになるのだ。

*1:年長者の西郷隆盛ですら四十歳と非常に若い

*2:例えば、伊藤博文などは士族ですらない

*3:学歴は東北大学の工学士に過ぎない

*4:オルテガの言うところの「大衆人」の台頭