「ゼロ年代の想像力」に寄せて

今日の著作家は長い間研究してきたテーマについて書こうとペンをとる際に、次のようなことを念頭に置いておくべきである。つまり、そうした問題について一度も考えたことのない普通の読者がたとえ彼の著作を読むにしても、それは彼から何か学ぼうとするために読むのではなく、その反対に、その読者が詰め込んでいる凡俗な知識と食い違うところを見つけたら、著者を断罪しようとして読むのであると。……現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。……全ての人と同じでない者、全ての人と同じように考えない者は、締め出される危険にさらされているのだ。……以上が、残酷な姿を隠さずに描いた現代の恐るべき事実である。


オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫


先日、さして大した意図もなく
ゼロ年代の想像力」という言葉を用いたところ、
この侘しきブログにキーワードから
飛んで来た方が思いのほか多く、
昨今のはてな界隈の風潮というものを直に感じた。
そこで、所謂「ゼロ年代の想像力」などの論考を巡って
言葉遊びを繰り広げられている人々に向けて、
一筆書いてみようと思い立った。


複雑な現象を部分的に切り開いて見せようが、
あるいは全体を特定せずに提供したところで、
ものの連関は見えてこない。
我輩は本稿で歴史や先達に導かれつつ、
敢えてあまり関連付けられて
語られてこなかったものについて語りたい。
まとまりに欠いているのはそのためであるが、
その辺はご容赦頂きたい。

●歴史的事実としての「決断主義

まずもって、「決断主義」とは何か。
どうにも宇野常寛氏自身が曖昧なまま用いたためか、
決断主義」という言葉ばかりが独り歩きしている。
ハイデガーとの関連を指摘していた人が居たが、
厳密に言えばナチスの御用学者をやっていた
カール・シュミット公法学者)によるものだ。
まず、辞書的な定義を引いておこう。


法秩序・政治秩序の究極の源泉、
また、その時々の政治的決定は、
政治の世界の当事者すなわち主権的権威者の
決断的意志に存するものであり、
その際、倫理的規範・法的規範による
正当化を何ら必要としないとする考え方


つまりは、法治主義や規範主義に対する反逆の思想であり、
日本の統帥権天皇制の思想に近いものがある。
より端的に言えば、二・二六事件五・一五事件における
青年将校たちの心情といったところであろうか。
思想ではなく“心情”という語を用いたのは、
誤解を恐れずに言えば中身が無いからである。
調書などを見ても、彼らは現在の政府を倒した後、
如何なる新体制を作るか、具体的方策は有していない。
彼らには与えられた条件の下で如何に結果を出すかという、
実際的な精神を欠いていたのである。
だからこそ、彼らは大義名分にすがりついたのであり、
また、それしか彼らには残らなかったのだ。

●心情としての「決断主義

「新しい」とか、「革新」であるとか、
そういった未来を語る言葉をそのまま信じてしまうほど、
素朴な思想的態度は存在しない。
それは作家の自伝や私小説
字句通り真に受けるようなものだ。
自己に照らして考えてみればいい。
自己がただ自己であるだけで成り立っている
というような妄想を抱いている人は少ないだろう。
同様に、彼を見るときは彼の背後までを、
書かれたものであれば紙背を見通さなければならない。


未来を語っている者が本当に未来を語っているとは限らない。
殊、日本においてそれは単に過去を批判し、
否定していただけであった。
裏返された過去物語にとって、
未来は代替のきく意匠に過ぎない。
それ故にこの種の錯誤は無反省に繰り返されてきたのである。


若い人はご存じないであろうが、
60年代に「三無事件」という
旧日本軍将校によるクーデター未遂事件があった。
彼等は安保騒動や左翼進歩主義共産主義の進展を恐れて、
容共的な閣僚や政治家を粛清しようとしたのだが、
彼らが掲げた三無というのは、
ほとんど当時の左翼の主張と大して差の無い、
言うなれば極めて無政府主義的なものであったが、
具体的にそれをどう実現するかという点でまったく無内容であった。


もっと悲惨な事件として人々に記憶されたのが、
70年代の「東アジア反日武装戦線」による
三菱重工業ビル爆破事件」を主とした連続企業爆破テロだ。
わずか三十年ほど前の事件であるのに今日忘れ去られつつあるが、
贖罪思想(いわゆる「自虐史観」)の最も極端な形で噴出したものとして、
今も我々に不吉な影を落としている。
彼らは日本人であるというだけで過去の侵略の罪を負っていると考え、
まったく無関係な無辜の市民を爆殺したのであるが、
その考えたるや実に単純なキリスト教原罪思想であった。
彼らもまた日本人であるという意識が彼らには希薄なのである。
罪深き日本人を裁く彼ら自身が考慮されていないという点で、
決断主義と言うよりも例外主義とでも評した方がよいかもしれない。
彼らが自己を喪失する程度に比例して極端なるものとして噴出する。
この種の自己錯誤を“自己喪失病”とでも呼べようか。


90年代には若い人もご存知であろうが、
例のオウム真理教による一連のテロ事件が起こった。
彼らの思想もまた単純であって、
今の日本のままでは駄目になる、
変えていかねばならない。
世にはこびる悪徳を一掃して、
(我々の)正義を広く布かねばならぬ。
しかしてその結果は皆さんがご存知の通りである。
肝心な事はこれらの事件が
無反省なまま忘れ去られつつあるということと、
これらの事件を引き起こして来たところの要因は
本質的に広く潜在しているということだ*1

●呪(まじな)い語としての「決断主義

歴史から決断主義に話を戻そう。
転叫院のページ』というサイトで、
「『ゼロ年代の想像力』に対する批判者のためのメモ書き」
というエントリがあげられているが、
そのレトリックには少々首を傾げざるを得ない。
特に下記に引用した部分においてである。

自身は「決断主義」を全肯定する者ではない、としながらも、著者の政治的身振りは「決断主義的」ではないか?


「人はそもそも差別的に生きるしかないのだ」的な主張(もちろんそれをストレートには言わないようにしているのは、著者のレトリック能力の高さによるものだが)を政治的に正当化しようとし、また自己のイメージ戦略をパワーゲーム的に操ろうとする著者の身振りは、いかに彼が「自身は「決断主義」を全肯定する者ではない」と担保を取ろうとしたとしても、決断主義的な行動化ではないだろうか?


あなたが決断主義に憤ることそれ自体が、決断主義を正当化してしまう


決断主義的、パワーゲーム的世界観とは、「人は自分の正しさを政治的なパワーゲームによってしか正当化できない」というものである。である以上は、あなたがたが「決断主義が正当化されるのは許せん!」という憤りを公開することこそが、そのような憤りに基づく政治的パワーゲームを行動化しているという点において、決断主義を正当化してしまうのである。


先に辞書的定義を引用したように、
決断主義」というのは正当化を必要としていない。
成功すれば、ちょびひげ総統が生まれ、
失敗すれば、ミュンヘン一揆となるのである。
なるほど、営為としての歴史は理論ではない。
理論を動かし、理論に動かされてきた人間の結果である。
そういう意味において影響を考慮するのは、
ひとつの現実的な態度であるが、
それは説得をしないと自ら言っているようなものだ。
つまり、答えは予め用意されている。
これでは物を考える態度とは言えない。
至極当たり前な事であるが、
「決断」そのものは「結果」でも「行動」でもない。


そもそも、対象が架空のものである以上、
この種の言論は言葉遊びに過ぎない。
それを「パワーゲーム」といった言葉で大仰に虚飾することは、
大多数にとってはどうでもいいことだという常識に欠いている。
この種の理論家は理論が新しいとか、古いとか、
異端であるとか、正統であるとか、
そういう呑気なことは思いついても、
理論などはいくらでも代用が可能だということに気が付かない。
ガリレオ・ガリレイが異端であろうと、
ガリレオにとって「地球はそれでも回っている」のである。

●「おたく」という思考様式

誤解を恐れずに言えば、
「おたく」が思想を語るのは無意味である。
ここで言う「おたく」とはアニメなどのマニアのことではなく、
ある一定の思想様式の持ち主の事を指している*2
つまり、思考様式を分類する際に、
縦の軸を思考の抽象度、横の軸を思考の高次度としたとき、
抽象度が低く、高次度が高い類型のことだ。
学者型と違って情報を並列化して捉えないこの一群は、
畢竟セレクティヴ・インフォーメーションにならざるをえず、
学問的な実証主義に相反するのである。


しかも、個人主義の帰結の一つであるこの類型は、
本質的に差異を目指す傾向にある。
同質的なコミュニケーションを軸に集団を形成するが、
その内容が均一化してくると、
自分の個性を守ろうと分離解散しようとする。
こうしたことは(――我輩は外部で覗いていただけだが)、
ネット上のコミュニティに関与したことのある方ならば、
一度二度は経験したことがあるのではないだろうか。
彼らの主張も論争もそれ自体ではなく、
彼自身を守ろうとするのが目的であろう以上、
彼らとの議論は徹頭徹尾無意味なのである。
説得するつもりのない連中の戯言に
耳を傾ける必要がどこにあろうか。

●気分と物に憑依する日本の思想

日本の、特に知的な人々の
新しいもの好きは今に始まったことではないが、
その水準は年々低下し、幼稚化しているようである。
幼稚化は蓄積されないが故に起こる。
今日、文化と呼ばれるものすらも、
消費されてすぐに消えていく。
あるのは過去の残滓だけであり、
その切り貼り、断片だけである。
だからこそ、過去から遠ざかるほどに、
幼稚化は加速し続けるのだ。


日日ノ日キ』というブログでは、
件の論考がこのように評されている。

私が宇野氏のテキストが魅力的と感じたのは、他で指摘される先鋭的な視点というところではなく、キャラに憑依し、言葉を紡ぐ姿勢である。私はこのテキストは「評論」的なものが読者に対して影響力を及ぼさないという諦念を前提に書かれていることに着目したい。彼の指し示す評論とは読者に影響を及ぼそうと放つものだ。そこには良い影響も悪い影響も及ぼす「覚悟」があると、まさにこのテキストで言う「決断主義」を行う主人公らの行動とぴたり重なるのではないか。というところが実にスリリングでオモシロイのである。破綻覚悟で書いてるのが勇気あるなあと思います。断言する覚悟があるのはカッコイイからな!


2007-05-31■[文化]今すぐチェキ!『ゼロ年代の想像力〜「失われた10年」の向こう側』が死ぬほどオモシロイ!より引用


「カッコイイ」と言ってしまうのは、
それが気分(心情)の問題でしかない
と言ってしまっているのと同じことである。
そこに観念や思想はもちろん、
批評精神などといったものは存在しない。
より重要なのは、架空の人物や物語に憑依しなければ、
思想を語ることが困難なほど時代精神が希薄化し、
思想性が弱化した時代という事実の方であろう。


心情としての「決断主義」や「カッコイイ」という反応に
端的に表れているように、
日本において観念は気分に過ぎず、
言説はたちまち物と化して、
それを眼鏡に物を見ようとしだす。
かつてのマルクス主義者たちを思い起こして欲しい*3
彼らはマルクスの思想(観念)に賭けたのではない、
現実に存在したソ連という見える事実に賭けたのである。
また、そうであったからこそ、
彼らは彼らの見たい現実しか見えなかったのだ。
日本において西洋的な観念論は存在せず、
観念論と唯物論は単なる意匠の違いに過ぎないのである。


こうした思想的態度は復古的な右翼にも見られる。
卑近な例であげれば、
最近の産経新聞の正論欄は
連日のように道徳論が書かれているが、
その内容たるや過去の存在した「徳」を
処世訓風に断章取義して羅列しただけである。
内容それ自体に意味は全くと言っていいほど無いが、
そういうものが多数発表されるという事実は重要である。
そうした状況においてより問われるべきは、
現代において倫理(道徳)は可能か、ということだ。
その厳然たる困難という事実に背を向けていては、
始まるものも始まらないであろう。

●倫理(宗教)化する文学

哲学は自己自身が本質的に未確定なものであることを知っており、善良な神の小鳥としての自由な運命を喜んで受け入れ、誰に対しても自分のことを気にかけてくれるよう頼んだりもしなければ、自分を売り込んだり、弁護したりもしないのである。哲学がもし誰かの役に立ったとすれば、哲学はそれを素直な人間愛から喜びはする。しかし哲学は他人の役に立つために存在しているのではなく、またそれを目指して期待してもいない。哲学は自己自身の存在を疑うところから始まり、その生命は自己自身と戦い、自己の生命をすり減らす度合いにかかっているのであれば、どうして哲学が自分のことを真剣にとりあげてくれるよう要求することがあろうか。


オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫


広い意味での文学、哲学や思想、小説や詩、
アニメや映画なども入れたって構わないが、
そうしたものは元より救済など範疇の外にある。
救いを与えるのは宗教の仕事である。
にもかかわらず、奇怪な現代人は、
文学に救済を求めるという迷妄に取り憑かれている。
「救済」とは永生を教えることによって、
生の意義を保証し、死に意味を与えるものである。
それが宗教の教えるところの人生の意義というものだが、
畢竟、我々は生と死に関して論じようものなら、
思想は宗教じみたものにならざるをえない。


サルトルなどの実存主義文学は、
キリスト教的な)救いなど無い、
と力強く立ち上がったのであるが、
人間は運命の主人公に成り得なかったという点で、
サルトルは挫折したのである。
個人が自律体であるとか、主体であるとかいった、
この途方も無い目論みはいわゆる
日本の「セカイ系」の諸作品において
装いを新たに(神秘主義を注入して)蘇ったのであった。

●「終わりなき日常」と「歴史の終わり」

「終わりなき日常」というのは宮台真司の言葉であるが、
この元ネタになったのはおそらく、
フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」であろう。
フクヤマの元ネタはコジェーブであり、
 コジェーブはヘーゲル哲学の解釈者に過ぎない)
さらに突っ込んで言えば、
歴史の終わりそのものが終わった」という
ジャン・ボードリヤールの言説に行き着く。


歴史の終わり=歴史の目的がもはや見いだされなくなったとき、
 終わり=目的の相関物である期限もまた見失われる。
 そこでパニックに陥った人々は、期限を再発見し、
 それによって終わり=目的を再発見しようと絶望的にあがく


この絶望的なあがきが「終わりなき日常を生きよ」であり、
昨今の風潮の本質の大部分であろう。
決断主義」であろうが、
セカイ系」であろうが、
その次の何かとやらであろうが、
この絶望的なあがきという根っこに変わりない。
ようやく我々は虚無主義に教わるのではなく、
本当の意味での「虚無」を自ら知ったのである。
そして、知った時にはそれがすでに
ままならぬものとして現れて来たのだ。


宗教が衰退し、生と死の教義が失われてしまった今、
残ったのは時間性の制約を受ける「現存在」(ハイデガー)と、
虚無に嘔吐した「実存」(サルトル)だけだ。
自由はもはや生き方ではなく、生の目的、
あるいは生そのものとなる。
そして、「生」は時間的制約(死)によって
その生き生きとした「力」を失ってしまう。
逆説的ではあるが、「死」を忌避する限り、
「生」というのはその輝きを失っていくのである。
同様に不自由という支えを失った自由というのは、
虚無を宿さざるを得なくなる。
何故か。
外的な権威を一切認めない自由主義は、
自ずから由るのではなく、
何ものからにも由らないということを教え込むからだ。


この自由の秘めてきた虚無を解き放ったのが、
「進歩」という観念の崩壊である。
歴史が進むべき道(進歩=目的)を見失ったとき、
同時に過去の有していた意味も失ってしまったのだ。
進歩という観念を取り払って歴史を見てみよう*4
人間の社会はその根本、本質において
有史以来何一つとして変わってなどいないのではないか。
ファラオの王国と民主主義の共和国に優劣など無い。
シカばかりを食べていたライオンが
シマウマを食べるようになった、
その程度の違いしか無いのではないかと我輩は思っている。


政治学などアリストテレス以来
何一つとして進歩などしていないではないか。
政治学の最大の命題とは何かというと、
それは人は何故支配されるかという権力の問題である。
教壇に立つ教師の言う事を生徒は何故従順と聞くのか、
こんな単純な命題を二千年以上も問い続けているのだ。
マルクスは権力を悪とし国家を破壊する事で、
この問題に立ち向かったが結果は無残なものだった。
しかも、現実に現われた社会主義体制はみな国家社会主義であった。
すなわちレーニンスターリニズム及びナチズム。
自由が貫徹されようとする時、
人々は逆説的に不自由を求めだすのである。


思想史において矛盾や誤りを
見つける事はそう難しくない。
しかし、そういう単純な懐疑論は、
哲学を古代ギリシアの時代にまで遡らせる。
アイロニーソフィストソクラテスは、
何所まで行っても実体の掴めぬ者だったではないか。
相対は常に行き着く所なき水平世界に迷い込む。
ところが現代の俄か不可知論者の多くは
この事に無自覚であるか、
あるいは自覚的な、つまりはソフィストだ。
彼らは問題の解としてではなく
逃避の手段として不可知論を用いる。
逆説的では在るが問いは永遠に解かれぬ故に尊く、
解は矛盾に満ちているが故に意味を持つ。


哲学とて状況に変わりは無い。
20世紀の数学者にして思想家ホワイトヘッド
プラトン以降の哲学者は全てプラトンの解釈に過ぎない
とまで嘯いている。
哲学の最も由緒正しき命題、
「私とは何か」という「存在」の問題は
一向に解決を見い出せないままだ。
結局のところ、解など無いのだ。
事実なるものは無く、あるのは解釈だけだ
と喝破したニーチェは正しかったのである*5
古のブッダも皮肉一杯に述べているではないか、
悟りなどは存在しない。
此岸はおろか彼岸をも思わなくなった時に
真の悟りがあると。

●現代における思想という営為の困難さ

どうにも悲観的な説明ばかりになって、
ここまで読まれた奇特な方は、
疲労感を覚えているのではなかろうか。
知性は疲れるが、生きる意欲は疲れない。
人生は不満と退屈の繰り返しだ
ショーペンハウアーは冷ややかに嘯いたが、
実際考える事は疲れる上に意味があるとは限らない。
だからこそ我々はこの不毛な思想の廃墟の上で、
あがき、疲れ、絶望するのだが、
「救い」だとか、安易な解答などは存在しないのであるから、
この独りぼっちの孤独な戦いを続けていくしかないのである。
我々になお倫理的である力が宿るとしたら、
これをおいてほかはあるまい。


読書は認識であり、批評は理解である。
批評の本質はそのものを語る事ではなく、
そのものについて語る事だ。
批評という営みは二次創作に近い。
あるいは翻訳と評しても良いかも知れない。
物語とは語られる物と語る物がある。
語られる物としての作品があり、
我々が読むというのは物を語る事だ。
同様に語られる物としての小説(作品)があり、
語る物としての批評が存在している。
そして、批評を読むとは語られた事を読むわけだ。


内容は何であれ本を読むというのは、
ただ書かれたのものを読むのではなく、
考えられたものを如何に考えられたかを
読み取らなければならない。
ギリシア人の著作を読むときには
我々はギリシア人のように振舞わなければならない。
我々は対話をしているのだ。
時間を超え、空間を超えて。
そのために私たちは視点を動かさねばならない。
いわゆる「神の視線」などというものは妄想に過ぎない。
外を見渡しつつ、内を視通す眼など想像すら出来まい。
我々は何時如何なる時もそれそのものにはなれないのである。
我々は自分自身に対してすら振りをし、まねをして、
演技することによってあらわしているのだ。
同様に、登場人物に憑依するというのは、
それについて読むときに行われるのである。
これが想像力であり、感性というものなのであって、
それには古いも新しいもあるまい。
そして、普遍性を強調しすぎるあまり、
特殊性を考慮しないのは軽慮である。
結局のところ、我々は特殊性からし
普遍性に至る事が出来ないのであるから。


我々はどうして斯くも文学に倫理を求めるのであろうか。
批評とはただ視点を示すだけであるのに、
どうして良いだとか、悪いだとか、
そういう倫理的な言葉が跋扈するのであろうか。
それは「自由」の教えるところの世界観が、
社会の成員がめいめいの利己心を発揮して、
その欲望が充足される世界に過ぎないからであろう。
ただ面白いというだけの享楽に不満を感じているのだ。
だが、その不満も辿っていけば美意識によっているだけで、
無ければ無いでどうということはない。
おそらく、現代人の差異はこの辺の意識の違いに起因する。
我々はその軽さに耐えられなくなっている一方で、
同時に重さから隙あらば何処までも逃避しようと企んでいる。
だからこそ、我々はしばしば相反する矛盾を自己に宿し、
自由と倫理の間で絶えず揺れ動いているのだろう。
そして、おそらく、それは今後しばらく続くであろう。

確かなことはただ一つ、
重さ―軽さという対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、
もっとも多義的だということである。


ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

*1:日本の近現代思想史に関しては、『国家の品格』を批判した一連のエントリを参照されたい。近代の錯誤の在り様というのは驚くほど似通っているのである

*2:参照:http://kouidou.blog65.fc2.com/blog-entry-8.html

*3:とはいっても若い人は知らないであろうから、稲垣武氏の『悪魔祓いの戦後史』(文春文庫)を参照されたい

*4:進歩の観念を取り払った素晴らしい進化論系統図がある。http://d.hatena.ne.jp/katsumushi/20070615/p1を参照されたい

*5:『権力への意志』参照