「決断主義」なるものの再検討(3)

夜神月――空虚にして凡庸なる「大衆人」

宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」において
夜神月は「決断主義」的主人公に分類されている。
それでは、彼は何を決断したのであろうか。
「決断」などと評されるからには、
何かしらの目標や動機があってもよさそうなものだが、
彼にはそうしたものがまったくと言っていいほどない。
夜神月はおろかLにすら動機が無いということに着目して、
『無言の日記−五月の庭』というブログが
非常に優れたエントリを書いている。
「動機論」に関しては付け足すことが無いので、
(――と言うよりはそのエントリで気づかされたことも多い)
そちらを参照して欲しい。
参照:http://d.hatena.ne.jp/lepantoh/20060213#1139808928


夜神月はその幼児性は指摘されはしたが、
今もって貴族主義、英雄主義の殉教者として祭られている。
我輩はこのことに断固として異を唱える。
彼こそは傲岸にして恥を知らぬ「大衆人」、
自分の小さな殻に閉じこもり、
 一片の尊敬の念ももち合わせぬ
 ゴキブリのような連中*1の一人なのである。
正直なところ、この人物に対する言葉として
罵倒しか我輩には浮かばないが、
悪口ばかり言っていても始まらないので、
DEATH NOTE』(以下『デスノート』と記す)
全12巻を夜神月の言動を中心に読み解いて行く。

●始まりは「退屈」

  毎日 同じ事の繰り返し…つまらねー
  “この”世は腐ってる……


このモノローグから『デスノート』は始まる。
この時点から錯誤は始まっていると言える。
宇野氏は『セカイ系』を
要するになんでも自分のせいではなく
 世界のせいにする思想です*2
と言っているが、
それならどうして『デスノート』は
セカイ系」に含まれないのだろうか。
リュークにしても夜神月にしても、
退屈なのは彼ら自身なのであって、
それは「この世=世界」故ではない。
彼らは涼宮ハルヒ式に我儘を言っているのに過ぎない。


始まりからし夜神月というのは不可解なのである。
デスノート』をたまたま拾った彼は、
  病んでるな なんで皆
  こういうくだらないのが好きなのかな
  不幸の手紙から全然進歩しちゃいない…
と言いつつ持ち帰って熟読してしまう。
そして、
  悪戯もここまで手が込んでるとまあまあかな…
などと論評して放り出すものの、
彼の内にある密やかな悪と理性の葛藤は
  名前を書くと死ぬか…
  くだらない
と再度自らに言い聞かせるように独白する。


本来、良識ある人間ならば、
ここで立ち止まれたはずである。
呪(まじな)いを笑って祓い除けられたはずだった。
ところが彼はたちまちその魔力に取り憑かれてしまう。
人を殺めるという悪意に心を引かれ、
ついに試してみたいという願望に負けてしまった。
そういう意味で彼の本質は“弱き”人なのである。
彼はただ一人の小悪党を殺めてしまったが、
彼の良心や理性はただその一事の悪で麻痺しだす。
塾の苛めっ子が気弱な少年から金をせびるのを見て、
  殺して見るか?
  こんな奴の一人や二人死んでも誰も何も思わない…
などと思うようになるのである。
この自分のものではない、
偶然与えられたに過ぎない力を持った途端に、
  こうなると どいつも こいつも
  殺した方が世の中の為になる
  奴ばかりに見えてくる
などと彼は実に高慢な言い草をするようになる。

●「虚無」――「否定」の悪への堕落

彼が悪党に成り下がった決定的な瞬間は、
二人目に実験台としてチンピラを殺した時であろう。
彼は二度目の殺人に成功したとき、
決まりだ デスノート 本物だ!!
と驚愕するとともに彼は満ち足りた思いを感じたはずである。
だからこそ、二人目をわざわざ殺した後に、


  人を殺した…


  二人殺した……


  僕が…


  どうする…


  こ…こんな恐ろしいノート…


  ……


こういう実にわざとらしい、
気障な独白をしてみせる。


そして、彼は自身の悪意と悪事を偽りで糊塗する。
  ちがう…
  いつも思っていたことじゃないか
  世の中腐ってる
  腐ってる奴は死んだ方がいい
などと彼は実に苦しい言い訳をする羽目になる。
少々子供じみた反応をすれば、
“そういう世の中に腐っているお前はどうなんだ”
“そんなに退屈ならお前が死ねばいいじゃないか”
という風な物言いが出来ようか。
これは少し言い過ぎた感が無い訳でもない。
しかし、彼は自身が退屈だからだといって、
世の中を変える権利が自らにあると思い込むことのできる
誇大妄想狂の「大衆」であることに違いはない。
彼自身に高貴な義務(Noblesse Oblige)といったものは、
到底見出すことができないのである。

●「自意識過剰」――自己喪失者の典型的病症

自己陶酔(ナルシズム)には凡そ二種類ある。
一つ目は、自己の過大評価、傲慢、高慢。
そして、いま一つが、謙遜、卑下、自虐であろう。
その両者の共通点は、自意識過剰に過ぎないことである。
根拠のない楽観がただの馬鹿の戯言で、
根拠のない悲観はただの無能の証明であるように、
行き過ぎた自尊も、自虐も有害で無意味なだけだ。
そして、昨今は高慢さよりも
自分をけなさずにはいられない、
そういう弱さと自意識過剰が鬱陶しくて敵わない。
そうした自虐は裏返されたナルシズムに過ぎないというのに。


自意識過剰というのは「自己」そのものではない。
剥き出しになった「我」ではあるのだが、
「自己」が弱々しいからこそ、
存在証明をしようとしてしくじる、
それが「自意識過剰」というものである。
夜神月もまた自意識過剰の自己喪失者だ。
彼はリュークに対して
何故 僕を選んだ?」などと言って、
リュークに「うぬぼれるな」と諭される始末である。
リュークに出会う前からしてそうだ。
彼は「問題は精神力」などと言って、
またしてもわざとらしい似非道徳問答を始める。


  たった二人だけでこれだ…


  当たり前だ 命だ…


  軽いはずがない


  耐えられるか?


  やめるか


ここで興味深いのは、
彼が「耐えられるか?」の対に
「やめるか」を選んでいる点である。
「耐えられない自分」という弱さは
想定の外に置かれている。
何故なら「やめた」ところで、
彼自身が犯した二つの殺人の事実は消えない。
彼はその自分の過ちから逃げたかったのである。
彼が問答を重ねる度に良心の声は遠ざかる。
彼は自ら声を発しようと欲しても、
聞こうとはしない人間だからだ。
はっきり言って彼の問答に意味は無い。
彼は退屈なのであり、何も持って居なければ、居場所も無い。
彼はそこから脱せるのなら何でも良かったのだ。
そういう意味で彼の「新世界」には何ら肯定的な意味が存し得ない。
彼はただ現状を否定し、自らを考慮の外に置いただけだった。
道徳的であるということは善を為し得るということであり、
悪を為しえないことが善を為すことではない以上、
ただ悪を為しえないというだけでは不十分なのである。


  僕にならできる…………
  いや…
  僕にしかできないんだ
  やろう!!


こうして彼は帰れない道への歩みを始める。
それは彼自身からも遠ざかる道である。

「キラ」――偽りを生きるもの

若者は何時の時代も無思慮なものだが、
夜神月の無思慮、
良く言えば無邪気さには少々唖然とさせられる。
殺人を繰り返す彼は満足げに
「救世主キラ伝説」というサイトをリュークに見せて言う。
  Killerから来てるらしいのが少し気にいらないが
  僕はもう世界的に「キラ」になってる
これはまったくもって奇異な心理である。
高慢な彼がなったのは「キラ」という
「彼ではないもの」であり、
やがて彼は項を重ねるごとに
「彼ではないもの」として振舞おうとする。
「彼自身」は一体どこへ行ってしまったのだろう。
「退屈だ」と言っていた頃の彼の方が、
まだしも素直な感情の吐露を見ることができたのに。


デスノートに触れた人間は
死神(リューク)が見えるようになると
リュークから告げられた彼は言う。
  下手を打てば…
  キラは…
  自分の家族を殺す事になる
夜神月はここで「僕」という一人称を避けて、
「キラは」を使い、「僕の」ではなく
「自分の」家族を殺す事になると言っている。
彼の弱さと逃避がここでも頭をもたげている。
彼は彼自身が悪を為すということを
認めることが出来ない程に、
彼は意志や覚悟が薄弱なのである。
だからこそ、彼においては
何よりも悪の存在が必要とされるのであり、
また、だからこそ「L」の挑発に意図も簡単に乗ってしまったのだ。
繰り返しになるが、彼は“弱い”のである。
弱いからこそ自分自身の生を強く生きることなく、
「キラ」という偽りの生に容易に身を乗り出してしまう。

●「ゲーム」――小児病者のコロシアム

これより先は「L」と「キラ」の命を賭けた
一種のゲーム(駆け引き)が延々続く訳だが、
その部分には触れようと思わない。
デスノート』はアンチ・ヒーローである点で、
他のジャンプ作品とは異なるのだが、
動機なき戦い、コロシアム状態と力のインフレ、
そういう面では実のところ他の作品群と何ら変わらないからだ。
古代ローマのコロシアムから現代の格闘技まで、
我々には他人が殴り合い殺し合うのを見て、
昂揚感を得られる、そういう野蛮の側面を秘めている。
それが一定のルールと秩序に基づき、
その野蛮さ(逸脱)の自覚がある限りは、
我々は野蛮人ではなく文明人で居られるのである。
何故なら秩序なきところには、
それからの逸脱すらないからだ。


ところで「L」もまた行動に根拠動機が見当たらぬが、
彼の場合、描かれなかった部分が多く、
その謎めいた神秘性が彼の人間性に底を与えている。
見えるような底というのは割れているのと大差が無い。
見るたびに深さが変わっているかのような
そういう深みが夜神月には決定的に欠けている。
だから我輩は彼に対して一切共感しえないし、
本作は悲劇でもなければ喜劇でもないと思っている。


デスノート』において主人公の成長はなかったし、
その物語性すらあやしいものである。
我々はその駆け引きの緊張感に熱中したのであって、
夜神月のキャラクターに引かれたわけではあるまい。
また、だからこそ第一部が終わると、
緊張感に疲れたり、あるいは飽きたりして、
読者は少しづつ離れて行ったのだろう。
「展開」に魅せられていたからこそ、
一度開かれてしまえば読み直そうという気にもならず、
無数の流行、ベストセラーがそうであったように、
過ぎ去りしものと容易に化したのである。

●「決断」の背後にあるもの

この続き物の論考で何度も繰り返しているが、
書き手にせよ、読み手にせよ、
彼らの精神の説明を外部的な状況に求めることは、
甚だしい知的怠慢なのであって、
真の問題は主体の心理にある。
近代的自我、個人というものが生み出してきた、
様相にこそ我々は注目すべきなのだ。


自由な社会において、
あるいは19世紀自由主義が必然的に齎したもの、
それは我々が絶えず決断を迫られるということである。
決断しなければ「生」として結実しないのだ。
我々は決断しないことを決断した時すら
決断していると言えるのである。
自由とは無数の可能性があり、
それから我々は選択し決断する状態を言う。
我々は単元的な自由の元で、
多元的な選択をしているのである。


この選択をするのが「私」という主体なのであり、
少々逆説的に聞こえるかもしれないが、
「私」という主体が選択の質を特徴付けるのではなく、
この選択が主体である「私」を性格付けるのである。
この性格の内、選択に迷い中々決断できないことを
我々は「不安」と言い習わしている。
「自由」であるからこそ我々は「不安」に囚われ、
また、そうであるからこそかえって、
我々は不自由なものを求めようとするのである。
しかし、そのような選択、決断はいつだって、
時代に逆行しようとしているのに過ぎないのである。
これが20世紀に起こった諸革命、
つまりファシズムコミュニズムの実相であった。
「反動」と「進歩」と行き先は違うけれども、
「自由からの逃亡」(E・フロム)という根っこは同じなのである。


夜神月の決断における逃避的な性格を指摘してきたが、
逃避という意味では「引きこもり」的な作品群の
主人公と実のところ大差が無い。
それはクライマックスにおける
彼の醜態を見れば分かるのではないか。
あれはおそらく作者が読者を突き放すために、
あそこまで惨めに貶めたのだろうが、
実際、彼の性格上、ああいう破滅以外道は無かったかも知れない。
彼はあくまでも自分の理想にこだわりもしなければ、
己の悪事を良心に照らして反省することも無く、
家族や恋人など愛する者たちのことすら思わず、
ただ死にたくない、と喚き、足掻き、狂う。
彼は結局我が身が可愛かっただけなのだ。
彼の言う善なるものを愛したこともなければ、
彼の脳裏にかすめすらしなかっただろう。
己の運命の外に逸脱することを決断したとき、
運命を避けようとして更なる深みに嵌る。
「引きこもり」たちは自己に立ち返ろうとして迷子になったが、
夜神月は全てから逃れようとして破滅したのである。
果たしてこれを人間性の「進歩」と言えるのだろうか。

●「マクベス」――自己喪失者の起源

夜神月が決断するエゴイストと言うよりも、
彼は自己喪失者なのであることを述べてきた訳だが、
この種の人間の典型や萌芽を
シェイクスピアの『マクベス』に見出すことができる。
副題にあるように我輩は夜神月という人物を
マクベスに比している訳だが、
福田恒存新潮文庫の『マクベス』に寄せた
解題を引用することで
この論考における真意を仮託したい。
「動機論」と同じく少々楽をしたいというのもある。
より正確に言えば、引用だけで事足りるので、
書く方としてはこれ以上の事を付け足すのは苦しいし、
何より書いていて楽しくないのである。

リアは壮大であり、オセローは情熱的であり、ハムレットは高貴である。が、マクベスだけは――ぼくたちは劇中一度もかれの魂の深奥をのぞくこともできなければ、その素朴な表白を耳にすることもできない。かれは始終いらだち、恐れ、せきたてられて、つひに自分自身の姿に立ちかへることをしない。


マクベス』が性格劇になりえなかったゆえんがそこにある。そこには事件がある、プロットは確かに存在する。のみならず詩もあり情緒もある。そして心理も――いや、心理というよりは観念がある。にもかかわらず、マクベスは自己のうちに高く掲げるべき個性の真実味をもっていないのである。


力の弱い者は、一つの悪事を行うのにも、これこそは自分の逃れられぬ宿命であり、絶対不可避ものだという自己催眠を掛けなければ、容易に事を運びえぬのである。したがって、絶えず自己の行為を正当化するために、自分こそは自己本来の歴史を歩んでいるのだという事を己れ自身に納得させようとして、宿命の片影を探し求め、これこそは自分の宿命だった、必然だったと信じて、始めて心の落着きが得られるのだ。


マクベスはたしかな個性が忌み嫌った行為の束縛のうちに、狂気のごとくおのれを駆りやる。というふのは、かれのやうな男は、自己の歴史を自己のうちに内在する力によつて書くことができぬままにたえず心の空虚を感じて、その空しさを満すために外部的な行為の連続として運命を頼り、事件の連なりをもつて歴史の頁を埋めようとこころみるのである。


ハムレットの不安が想像力の過剰に起因してゐるとすれば、マクベスのそれは観念と意識との過剰に過ぎぬ。前者の不安はまた同時に想像力によつて救はれる。が、後者の不安を救ひとるものはなにもない。「ハムレット」はいかに危機をうちに蔵してゐようとも断じて失敗作ではない。が、「マクベス」はあきらかに失敗作だ。なぜなら、マクベスこそは想像力の源泉のそのものを涸らす自意識であるからにほかならぬ。


要するに、「マクベス」劇の主題は不安にある。……現実や他人に対する徹底的な不信の念、自分の地位を揺るがすものが周囲に忍び寄って来るという不安、その地位を守ろうとしながら、ますます破局に陥って行くのみならず、むしろ不安に堪えて、来たるべき破局を待つ事の恐ろしさから、進んで破局に突入しようとする自己破壊的な意思、これらはあくまで現代的なものである。マクベスのせりふの一つ一つが、自己破壊への隠れた意思を示している。彼は破壊によってしか安心できない人間なのである。なぜなら、他人対する彼の不信感の根底には徹底的な自己不信があるからだ。


W・シェイクスピア 『マクベス』 (新潮文庫)
訳者福田恒存による解題より
引用者注:空白部分(改行)は中略の意

●始まり無く終わり無ければ即ち「無」

どうだったろうか。
マクベス』には『デスノート』に
通じるものがあったのではないだろうか。
もちろん『デスノート』の著者が『マクベス』や
福田恒存マクベス論を読んだという証拠は無いから、
全ては憶測に過ぎない。
だが、「おたく」という思考様式は
元より「差異」を強調する傾向にあるが、
「差異」だけを見ていても意味が無い、
そういうことを我輩は言いたいのである。
現代の我々は「近代」を根っこにしている以上、
似たような部分はここかしこにある。
そういう共通部分を無視していては、
おそらく差異すらも掴み損ねるだろう。


夜神月ドストエフスキーラスコーリニコフ
(『罪と罰』)に譬えられる事が多いが、
夜神月のミサに対する思いと違ってラスコーリニコフ
ソーニャに対する思いは本物であり、
遥かに人間味を有している。
彼は過ちを犯したがそれを悔いる程度には、
良心が残っていたのである。
知的な人々ほど概してそうなのだが、
ラスコーリニコフばかりに目が行って、
純粋で善良なソーニャに目が行かないというのは、
人間として困ったものだと思う。
夏目漱石の『こゝろ』などでも、
純粋で可愛らしいお嬢さんをよってたかって
不幸にする屑ども(先生とK)に目が行きがちだ。


どうやら自意識過剰な連中というのは
自意識過剰な人物に共感を覚えるらしい。
それはむしろ必然なのかもしれない。
自意識過剰に陥った人間は、
他人はおろか自分すらも信じ切れず、
だからこそ一時の解を求めて他に擦り寄る。
無論、安住などというものはないから、
そこからさらなる不毛へ、破滅へ
と己を追いやっていくだろう。
夜神月もまた死という「無」への運命を逃れようとして、
結局それに振り回された挙句に自滅した。
「無」という始まりのないものから逃れれば、
行き着くところも終わりもなく、
彼自身すら「無」に帰していくしかない。
夜神月もまたマクベスと同じく
頭上には実らぬ王冠、手には不毛の笏
を得た簒奪者に過ぎなかったのである。

*1:象牙の塔に引きこもって自分達のサークル内にしか通用しないような「倫理」を作って遊んでいたケインズら「ブルームズベリー・グループ」に対するD・H・ロレンスの罵倒

*2:参照:http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32a.html