「決断主義」なるものの再検討(4)

本当は『コードギアス 反逆のルルーシュ』を
ハムレット』を引き合いに批評の遡上にあげるつもりだったのだが、
まだ完結していない作品を論じるのは気が引けるので、
少しだけ触れてお茶を濁したい。
まず、『コードギアス』の作り手たちが
デスノート』を意識していたのは間違いないだろう。
彼らは「ゼロ」という皮肉一杯のオマージュを我々に突き付けた訳だ。
ルルーシュ、彼自身は「無」である。
何故なら彼は彼自身に還元して行動したりはしないからだ。
運命を切り拓くものとは運命に飛び込んでいくものだ。
だからこそ、彼は時として痛々しいまでに矛盾に満ちた行動をする。
そして、その矛盾が第一部の終りの悲劇を齎した。
彼はさほど強くないが震えを必死に押さえ、
歯を食いしばって耐える姿は弱さの中にある強さと言えよう。
そして、彼にはC.C.(シーツー)の抱擁を
素直に受け入れる程度には心根の優しい少年である。
何より、ルルーシュにしてもC.C.にしても表情が豊かだ。
決断主義」だ、「ポストセカイ系」だのと言ってないで、
こういうところを素直に楽しんだらどうだろうか、
我輩は周囲を見渡しつつそう思う。

●「もの」と「こと」

「白馬非馬」という公孫竜の有名な言葉がある。
これは「こと」と「もの」の悪質な混在であり、
差し詰め古代支那ソフィストと言ったところか。


  白とは色の概念であり、
  馬とは動物の概念である。
  であるからこの二つが結びついた
  白馬と言う概念は馬と言う概念とは異なる*1


これはつまり、「白」と「馬」は
それぞれ「もの」(概念)であるが、
「白馬」と言った時、「白」は「もの」でなく、
「馬」という「もの」に対する判断、
つまり、「こと」になっているのである。


同じ様に批評、つまりは自己解釈は、
「もの」から「こと」を得ている。
そして、その「こと」は「もの」を模倣しているのである。
蛇足に付言すれば、議論が噛み合わない事が多いのは、
この「もの」と「こと」が混在してしまっているからだ。
思想ではなく知性が論争するように、
「もの」は争われない。
衝突しているのは常に「こと」である。
我々が語る言葉は我々を離れない。
否、より正確に言えば、
分離‐結合‐構成を繰り返しているのだ。
そして、「こと」とは「わたし」である。

●運動体としての「私」

『文藝』のインタビューで古川日出男氏が
かっこいい生き方とは?」との問いに
依存しないこと」と答えていた。
古代ギリシアの哲学者たち、
たとえばアリストテレスなどを読めば分かるが、
彼らは「自由」を「自足」の意味で考えていたようだ。
なるほど、さすれば古川氏のかっこいい生き方というのは、
「自由」な生き方なのかもしれない。


依存しないことは重要である。
恋愛は楽しいことだと思うが、
依存すれば即ち単なる「いちゃつき」に堕する。
友人や家族に対してもそうだろう。
依存してしまえばそれは単なる「甘え」に過ぎない。
以前、人間とは実体ではなく運動体なのだ、
というようなことを言ったが、
それは「停止」すると依存や埋没してしまうからだ。
我々は絶えず動き回り、
結合-分離-構成を繰り返す。
たとえば思索においては、
「もの」と「こと」の間で繰り返すのである。

●ものの見方とものの見方

トートロジーな小題だが、
「もの」を見るときの見方と、
「もの」にある見方について、である。
我々はしばしば両者を混同する。
殊、批評家と呼ばれる人々は、時として
意識的にそれを混交させて我々に掲示してくる。
落語家はもっともらしい嘘を付き、
客が「へぇー」と感心するのを見て、
「落語の言うことを信じちゃいけないよ」と落ちを付ける。
が、批評家にそういう「落ち」はない。
だから我々は何を読むにしても、
ただ字句を追っていればよいというものではない。


ある時代の偉大な作家たちが
一時代の精神を代表し、一局面を切り拓く。
そういう一面があることを否定している訳ではない。
それが断片に過ぎないということを言っているのだ。
実に当たり前なことではないか。
全てを知悉するなどといったことが、
如何なる人間に可能であろうか。
また、全てを知り尽くしてしまった果てに
一体何ものが我々に残ると言うのであろう。
一時代、一文化を理解する、
そのようなことはほとんど不可能に近い。
何故ならそうしたものが常に知性の働きによって
創られているとは限らないからだ。
感覚的に息衝いているものを理解するには
理性や論理では不十分なのである。


印刷されて後生に残されたものから
過去における思想の現実の姿を復元する事は非常に困難である。
何故か。それは「影響」が必ずしも教化、感化を伴わない事と、
理論家が沈黙するのはその説が滅びたからではなく、
その説が現実に生きはじめたからだ。
――つまりは“書かれた事”と“書かれなかった事”の比重について。
これはかつて松田道雄先生が
知識人に関する論考で述べておられた事だ*2
この続きものの拙稿の一つにおいて、
レヴィの『サルトルの世紀』を引いたのは、
そういう謂を仮託するためである*3


先の松田先生の論考では、陸羯南の言を引いて、
理論において必ずしも「名称」と「実相」が
一致しない点について注意を促している。
さらに外部的‐内部的要因、
主体‐客体における現実の違い。
これがこの小題における
二つの「ものの見方」の混乱に繋がっている。
特にここでは後者の方に注意を促したい。


たとえば、「決断主義」という言葉を扱う事に文句は無いが、
そのまま馬鹿正直に真に受けて、
決断主義」という言葉を通して物事を見てどうするのだ。
これは実に当たり前なことなのではないだろうか。
決断主義」という言葉は読者にとって、
外在するものであり、客体に過ぎない。
それは一つの客体視しうる現実である。
しかし、その裏には宇野常寛氏という主体なり、
彼に内在する意識と無意識が隠れているのであって、
そこまで考え抜き、言及しないのは、
甚だしい知的怠慢なのではないか。
つまり、彼が見たもの、彼が語ったものだけを
対象にしていても致し方ないのである。

●文体論にまで至る議論の空しさ

ゼロ年代の想像力」で宇野常寛氏は
セカイ系」と「決断主義」を対比し、
そしてその後の来るものを論じ、
東浩紀氏が『ギートステイト*4において、
リバタリアンコミュニタリアンの文学なるものを論ずれば、
GOD AND GOLEM, Inc. -annex A-』というブログを中心に、
ライトノベルにおける文体論議に花が咲く。
あるいは大いに飛び火して、
想像力はベッドルームと路上から』なるブログでは、
漫画やアニメに与えられた「決断主義」が、
ヒップホップを論ずるに用いられるに至っている。
どうやら宇野氏の論考を「おかず」に、
銘銘が銘銘の「飯」を食っているようだ。
この点、『モノーキー』というブログの
俺らは決断主義なんかどーでも良くて、
 ソレにダシに昔話がしたいだけなんだって
という弁は最も率直であり、
同時に身も蓋もないが、現実であろう。


東氏は『ギートステイト』の文学をリバタリアンとして、
宇野氏の文学をコミュニタリアンとして仮定し、
その差異を論じているが、これには大きな誤りがある。
そもそも問題の本質がそうした志向の内にはないからだ。
つまり、認識において個人を主体に据え続ける限り、
この種の差異とやらは結局同床異夢に終わるだろう。
個人に自律性があるという仮説性を忘れ、
個人の数だけ仮説が生まれ、真理が生まれる。
彼の言う成熟や現実が小さかろうが、
大きかろうが関係がない。
掲示しうるものは無数の仮説と真理の一つに過ぎず、
そのようなものは主観的気休め、独断的錯覚に過ぎない。


大きな物語」が書けなくなったのではなく、
そもそも「全体」というものが最早存在しないのである。
何故なら個を内包する全体というのは外部に要請し得ないからだ。
今日において共同体、社会、世界、言葉は違えど
一様に部分の散漫な集積体に成り下がっているではないか。
結局断片に過ぎぬものを寄せ集めたところで
「全体」にはならぬのである。
そうした事を認めぬ限り、
志向や目標は容易に逃避の場所と化す。
彼らの政治的異常関心(ネオリベ的云々)は、
現実から遊離した者の政治的無関心の裏返しに過ぎない。


こうした事は文体においても言える。
部分に過ぎぬ「個人」を出発点にすれば、
出口の無い袋小路に迷い込むのは必然なのだ。
「様式」という全体を失えば、
「文体」なり「意匠」なりの部分はますます分化し、
各ジャンルの自律化、純化が進められる。
最近であれば「本格ミステリ論争」なるものの
不毛さを見れば分かるのではないか。
20世紀の芸術(音楽、文学、その他諸々)で、
一体何が我々に残っているというのだろう。
彼らは断片を撒き散らしただけではないか。
彼らにあるのは瞬間瞬間の断層に過ぎないのであって、
それを積み重ねて「歴史」などと呼んでいる。
だからこそ、あるものの限界を見るや、
それはもう終わったものだのと早とちりする。
彼らが共有しているのは「歴史」などではなく、
その「没歴史性」なのである。

●問題と解

文学者の事業は強ひて文壇一般の風潮と一致する事を要せず。元これ営利の商業に非らざればなり。一代の流行西洋を迎ふるの時に当り、文学美術もまた師範を西洋に則れば世人に喜ばるる事火を見るより明かなり。然れども余はさほどに自由を欲せざるになお革命を称え、さほどに幽玄の空想なきに頻に泰西の音楽を説き、さほどに知識の要求を感ぜざるに漫りに西洋哲学の新論を主張し、あるひはまたさほどに生命の活力なきに徒に未来派の美術を迎ふるが如き軽挙を恥づ。いはんや無用なる新用語を作り、文芸の批評を以って宛ら新聞紙の言論が殊更問題を提出して人気を博するが如き機敏をのみ事とするにおいてをや。
われは今自ら進取の気運に遠ざからんとす。幸ひにわが戯作者気質をしていはゆる現代文壇の急進者より排斥嫌悪せらるる事を得ば本懐の至りなり。


「矢立のちび筆」 『荷風随筆集(下)』(岩波文庫)所収


少々嫌味に聞こえる引用かもしれないが、
新しい言葉を作ってはその言葉に好都合な現実を並べ立てて、
そのラッピングされた中身なり、ラッピングした主体に、
意識が向かない現代人には良い薬になるだろう。
宇野氏が撒き散らした用語なりキーワードがなければ、
何かを論ずるに困るといった事があるだろうか。
少なくとも我輩にはなかった。
念の為に指摘しておくが、
我輩は何も「決断主義」や「セカイ系」、
そうしたものを排斥しようとしている訳ではない。
個々の作品を見る際にそうした前提を
外部から持ってくるなと言っているだけの事だ。


この種の議論や概念規定における混乱の原因は、
他人の問題意識が外在化され客体化されて現実となるや、
受け手がそれを「ものの見方」として、最悪、
それが一つの「解」として用いられているからだ。
問題意識や過程を無視して結果しか見ないこの態度にとって、
それを考えた思想家の存在はどうだっていい。
彼らはその思想家の息遣いを感じ取ることもしないし、
その人が持っていた緊張感も持ち合わせてはいない。
つまり、その人は居ても居なくてもよい。
あるのは道具としての「××主義」だけである。
彼らは精神を語ってはいるが、
彼らが見ている精神は物でしかない。


あえて強調して言うが、
言葉を解として直接受け入れてはならない。
それは解ではなく、
受け手の無形の問題意識に言葉を与えてくれるものであり、
良くてもせいぜい示唆を与えるにとどまる。
一度それを解として受け取るや、
思索はその運動を止めてしまい、
問題意識はその活き活きとした力を失う。
最近頓に多いのであるが、
解説書なり、粗筋なりを読んで、
その作品を読んだつもりになっている。
こんな馬鹿馬鹿しいことはない。
そんなものはそれを書いた人間にとっての作品に過ぎないのである。


繰り返しになって少々くどいが、
思想というのは問題意識なり認識なりを掲示するものであって、
何かしらの解答を与えてくれるものではない。
それでも孤独な思索を続けなければならないのは、
新しい情況を迎えた時に備えてである。
そうでなければ何が終わったのかすら、
理解はおろか感知すらできないであろう。
何より、事後に至るまで、
新しいだの古いだのといって着脱を繰り返し、
いざ到来せんとする時に何も持っていないというのでは、
余りに情けない話ではないか。
巌窟王』風に言えば少々気障になるが、
「待て。しかして希望せよ」
それが廃墟の上の思索者への
せめてもの励ましの言葉となろうか。

*1:ウィキペディア「公孫竜」から引用

*2:参照:松田道雄「日本の知識人」『近代日本思想史講座Ⅳ』(筑摩書房)所収

*3:厳密に言えば、竹内洋丸山真男の時代』からの孫引き。原典は高い上に長大過ぎて読む気になれない

*4:参照:http://blog.moura.jp/geetstate/2007/07/post_406f.html