「決断主義」なるものの再検討(5)

◎追記

思いのほか長文になってしまったので、
読み易いように二種類の小見出しを使い、
小題を目次風に記しておく。


◎前書――「傷口に劇薬を。」
◎現代における精神の様相
 ●「Anti-intellectualism」
 ●「教養」の困難さ
 ●「文化」と「様式」
◎「倫理」の意味と本質
 ●「制度言語」と倫理
 ●同調圧力と倫理
 ●共同体と倫理
◎現代の精神の病症
 ●コップの中の嵐と安楽への逃避
 ●あれもこれも
 ●馬鹿は死ななきゃ治らない
◎筆のすさび――「箸」と「筆」


◎前書――「傷口に劇薬を。」

この続き物の論考もこれで終りにしようと思う。
番号を振っているもののほか、
その前の2本のエントリから内容的に続いていると言えるので、
これで7本目のエントリとなる。
まとめ的に概略を記しても良かったが、
7本通しで読んでいるのは少数であろうから、
まとめと言うよりも補遺的な内容を記したい。
もちろん七本とも問題意識や認識自体には変わりは無く、
単に論じている対象が異なるだけに過ぎない。


事象の上っ面だけを眺めていても仕方が無い。
仮面を被っていようが素顔というのはある。
尻尾の無い蛇などは存在しない。
頭だけを見つめてその先にあるものを見ないなど、
そんなもの見たとは言えないであろう。
歴史性、伝統、文化、そうしたものというのは、
個々において見出しうるものではない。
我々は個々の断片の如きものではなく、
「連関」や「堆積」、「流れ」といったものを、
歴史や思想に見出すべきなのである。


ところで、「何を言っているのか分からない」
というようなコメントを頂いているが、
誤解を恐れずに言えば理解する必要性はまったく無い。
「理解」とは他者を自己の内に包摂する。
この種の同化は必ず反撥としての異化を伴う。
他者があるいは自己自身がそれを拒絶する。
考えること、思うことというのは、
必ずしも「理解」には向かわないのである。
精神や思想というものは内発性に根差した営為である以上、
(――前のエントリで引用した荷風の言葉にあるように)
知識の欲求なきところに受け入れたところで何の意味も無い。
思想の端緒にはまず直観的な問題意識があり、
問題を引き起こすものを思索し、混乱の本質を掴もうとする。
それは単純な疑問や好奇心より発せられたものに過ぎない。
自分にとって何が重要で、何が重要でないのか、
思索するもの自身が自ら問いかけねばならないだろう。


先走った問題意識や解決策は所詮一時的な気休めに過ぎない。
空想に空想が重なりやがて問題そのものが閑却されて、
混乱の上に混乱が重なるといった事態に陥る。
解決し得ない問題、沈黙を選ばざる得ない命題、
そういうものが存在するに至ったとき、
自らの内に受け止めざるを得ないだろう。
己の及ばぬところに至ること、
解き得ない問題に突き当たること、
つまりは分かることと分からないこと、
そうしたことこそがその人の本質なのである。
そういう意味で個人主義の根本的な錯誤は
理解し得ない部分を認めなかった点にあったと言えよう。
そうした錯誤を代償に人間の認識を限界にまで押し広げ、
数々の発見を齎した、そういう意味では評価しうるだろう。
もっとも、その世界の無限の広がりの内に、
主体性も体系も雲散霧消してしまったのではあるが。


世の中には傷口に包帯を巻くように、
優しく手を差し伸べてくれる人が居るようであるから*1
そうした救いの手すら掴もうとしない者に対して、
我輩はその傷口に劇薬を塗りたくることにした。
「やさしさ」というのは「理解」ではないし、
「理解」することに「やさしさ」は伴われない。
したがって、これより先の一切の記述は、
薬にも処方箋にもならないものだ。
不安の解消にはならぬだろうし、
生き辛さが和らぐといったこともない。
さらには教えられることすらもない。
各人がそれぞれ避けるなり、撥ね返すなり、
受け止めるなり、考えるなりしかない。
結局、「理解」はそれぞれにおいてなされなければならず、
それを他人や集団に委ねてはならないからだ。
己の影を辿っていけば自ずと自らの足に達する。
そうして我らは自分が止まっているのか、
前に進んでいるのか、後退しているのかを知るだろう。


◎現代における精神の様相

●「Anti-intellectualism」

「右傾化」だの「保守化」だの
そういう安直で不愉快な言葉が未だに用いられているが、
少なくとも我輩の知る限り80年代から言われ続けている。
思えば「改革」だとかそういう威勢の良い言葉も
80年代から延々繰り返されてきた。
むしろそういう明確な対立軸の不在や、
精神的に未熟な者たちが技術の進展によって
知的世界に広く参与してきたことが
根本的な原因なのではないだろうか。


つまりはホイジンガオルテガが危惧し、
警鐘を鳴らした20世紀前半の欧州における
「大衆」たちの「小児病」的「精神」に類似しているのではないか。
たとえば、「決断主義」などというものは、
かつてのファシズムの陳腐極まりない「英雄主義」が、
ただ外面や意匠を変えたのに過ぎない。
その古色蒼然たる様相にもかかわらず、
あたかも新しいもののように歩き回っているのは、
それこそまるでゾンビや亡霊のようにすら思える。
決断主義」なる言葉を用いた批評家にせよ、
その名を冠せられし作品群の登場人物にせよ、
その批評家の言葉に踊らされ、
あるいは自ら踊り狂う者たちの幼稚さは、
その外見の仰々しさに反して実に凡庸なものだ。


  神よ、変えることのできるものについて、
  それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
  変えることのできないものについては、
  それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
  そして、変えることのできるものと、
  変えることのできないものとを、
  識別する知恵を与えたまえ。*2


神学者ニーバーの詩はよく引用されるが、
「保守」と「変革」が錯乱している現状において、
我々は変えるべき事柄について考えるよりは、
我々は“何を変えよう”とし、
そして“何を変えるべきでない”としたのか、
あるいは何を変えようとして“変えられなかった”のか、
それについて今一度顧みるべきであろう。
我々が何を目指して現在に至ったかを知らねば、
これから起こり得る事を理解する事も出来ないであろうから。


そもそもキリスト教徒でもない身で
こういう言葉だけありがたく受け取るのは
我が国の思想態度を端的に示している。
つまり、「呪(まじな)い」なのである。
あるいは「言霊」でもよかろうか。
ニーバーの祈りは我々の無関心をよそにこう続く。


  いっときに、一日だけを生き
  いっときに、一瞬だけを喜ぶ。
  苦しみも平和へ続く道として受け入れ
  エスの如く、この罪深い世界をあるがままに理解して後悔せず
  主の意志に身をゆだねれば、
  すべてをあるべき姿にしてくれると信じて
  そして、現世では適度の幸福を
  来世では、主と共に至高の幸福を感じることができるように。
  アーメン


一体我々の内の何人が彼の祈りの切実さを理解できようか。


切込隊長BLOG(ブログ)〜不滅の俺様キングダム〜』
山本一郎氏が『巨船ベラス・レトラス』の
優れた書評を書いておられた。*3
『巨船ベラス・レトラス』自体を読んでいないので、
ここで詳らかに立ち入らない。
魏武の詩にある「烈士暮年 壮心不巳」の如く、
作者筒井康隆氏の志というのは変わっていないだろう
と楽観的に(ある意味では悲観的に)見ているからだ。
ここでは小題にあるように山本氏も軽く触れておられる
「Anti-intellectualism」について述べたい。

  筒井氏が業界の成熟と共にあったことに対する考察の一切は
  「哲学」に類するものであると思う。
  1952年のアメリカ大統領選挙みたいなものだ。
  「知性」と「俗物」の対立の上で反知性主義が沸き起こる中で
  置き去りにされたものは知性を支える知識や教養とは
  そもどのようなものであったのかという規定である。
  筒井康隆氏がやろうとしていることは、
  自身を小説に出陣させることではなく、
  より体系的な知識や教養を構築するための哲学を
  適切な形で表現することのようであって、
  そうしようと思ってできないのか、
  できるけど何か面倒があってやらないのか
  よう分からん状況になっている。


ここでいう1952年のアメリカ大統領選挙の概観*4というのは、
1932年以降、野に甘んじてきた共和党が、
民主党政権の行き詰まりに乗じて、
政権を奪取しようとしていた状況下の出来事だ。
共和党はミスター・リパブリカンとよばれた
最も共和党候補らしいロバート・タフト上院議員*5ではなく、
アメリカ的な立身苦学出世の典型であり、
平均的アメリカ人を代表し「アイク」の名で愛された
ドワイト・アイゼンハワー陸軍元帥を指名した。
一方で民主党は知的な、それこそ
知識人が政権に多数参与したニュー・ディール的な*6
アドレイ・スティーブンソン(イリノイ州前知事)指名する。


朝鮮での戦争は38度線を一進一退する膠着状態に陥り、
49年には国民党が台湾に離脱し中国を喪失した。
中欧地域が「東欧」*7として瞬く間に共産圏に飲み込まれ、
自分達の正義を疑わぬ“良心的な”アメリカ国民は、
その原因を、不安の克服を求めていた。
こうした混乱の最中の選挙戦において、
共和党はニュー・ディール以来の
民主党の主流をなすリベラル派と知識人の結び付きを捉えて、
ニュー・ディールの「しのびよる社会主義」から
中国の「喪失」にいたる「諸悪の根源」を知識人に求め、
知識人を「egg‐head」と呼んで嘲笑し、
ティーブンソンをその象徴として攻撃したのである。
この混乱は狂信的反共主義マッカーシズムの素地となり、
またマッカーシズム自体がその一つの頂点として噴出した。
これがアメリカ史における「Anti-intellectualism」の一例である。


「Anti-intellectualism」を訳すのは難しく、
文脈に応じて使い分けるほかなさそうだ。
翻訳語としては「反知性主義
「反主知主義」「反知識人主義」などがあげられる。
主知主義」というのは知性に重点を置く哲学上の一派だが、
知性に重点置こうが置くまいが、
人間は間違えるし、正さねば容易にドグマと化す。
そういう文脈で「反主知主義」を批判しても意味が無いだろう。
以前の論考で引用したニーチェが言うように、
存在を想定するもののそれを証明する術は存在せず、
事物それ自体があらかじめ存在するかのような
迷妄を信じているのに他ならないからだ*8
「全てを破壊する」*9と恐れられたカント以降、
形而上学は死に体も同然であり、
「ものはただそこにある」*10のである。


概念としての「Anti-intellectualism」というのは
定義が難しく捉えどころがはっきりしないが、
現象としてのそれは比較的鮮明であるように思われる。
たとえば、昨今「右傾化」などと呼ばれたりする
ネット上での極端な言説の数々は、
「Anti-intellectualism」と評するのが的確であろう。
というのも、必ずしも左翼ばかりでなく、
右翼の知識人や政治家もバッシングの対象となっているからだ。
池田信夫氏はいわゆる「ネット右翼」が
朝日新聞を攻撃する理由は政治的な保守主義ではなく、
知的エスタブリッシュメントへの反発なのだ*11
と述べておられるが我輩も同意見である。


かつてホイジンガはブルクハルトを批判するにあたって、
  現代の文化史にとっては
  ブルクハルトの偉大さをできるだけ傷つけずに
  また我々が捧げる感謝の念を減らすことなく、
  ブルクハルトから袂を分かつことが
  多くの観点からの課題となっている
と述べている*12
この種の先達への敬意というものが、
昨今の物書きはプロアマを問わず欠けているのではないだろうか。
彼らは叩くために読むか、あるいは、
彼らの卑小な理論を補強するために物を読んでいる。


たとえば『マンガ 嫌韓流』や『マンガ 中国入門』などは、
多くの有名無名の研究者達の地道な研究成果を
断片的に反映しているにもかかわらず、
まとまった参考文献表すら作っていない。
『マンガ 中国入門』はジョージ秋山氏が書いたせいか、
人肉食風俗の話が頻出されるが、
あれの種本は間違いなく京都帝大の教授で
支那*13の大家であられた
桑原隲蔵先生の論文である*14
読めば分かると思うが極々普通の研究論文に過ぎない。
なお、青空文庫で読めるので脚注にリンクを張って置いたが、
漢文の知識がないと少々読みにくいかもしれない。

●「教養」の困難さ

「教養」とはそもそも何であろうか。
言葉の意味というものは往々にして
地域や歴史的背景抜きには語りえぬものである。
例えば、「教養」に当たる西洋語はいくつかある。
英語であれば主に「Education」や「Liberal Arts」、
「Culture」(ドイツ語では「Kultur」)、
ドイツ語の場合は主に「Buildung」がそれに当たる。
言葉の成り立ちから考えると「Culture」は文化で、
Liberal Arts」は自由人に相応しい学問となり、
「Buildung」は人格形成とでも言えるであろうか。
なお、ゲルマン語系の「Culture」(修養・教養・文化)は、
言葉として「Cult」(私淑・崇拝・礼拝)に通じ、
「Cult-Lore」(宗教上の学識・教訓・伝説)に連なる*15
英語の「Fiction」(虚構・想像・仮説)は、
成り立ちから言って「fic<つくる>‐tion<もの>」であり、
おそらく「文化」というものは「Fiction」
――この「つくられたもの」を信じるということにあり、
その精神を定め陶冶するのが「教養」というものなのだろう。


呉智英氏によれば「教養」とは「教育の素養」略であり、
また「Building」の翻訳語であり、
つまりは輸入された西洋的概念であると指摘している*16
近代的パラダイムに規定された「“近代的”教養」は、
その規定に遵って知識の有用性を定める。
たわいもないテレビや漫画に描かれる人間像が、
実のところその近代的枠組みから一歩も逸脱しておらず、
実のところ教養の危機や断絶は存在しない。
それどころか、教養はまさに実現されており、
だからこそ教養人は不要になりつつあるのだ。
ただし、その教養は水ましされた生ぬるい教養なのであり、
大衆社会は言わばプチ教養人が跋扈する社会なのである、
と呉氏は彼特有の皮肉交じりに述べている。
現在ではもはや他に訴求する力を持たないような
矮小な知識で満足した似非教養人が跋扈している。
彼らは意見を述べこそすれ説得しようなどと思っていない。
彼らは彼らの取るに足らない意見を押し通すだけだ。
このような現状において、
80年代末の呉氏のシニックな教養論は
正鵠を得ていたと言えよう。


呉氏は近代的パラダイムに規定され、
有用性を公認された「近代的教養」という謂をしているが、
これは極めて示唆に富んだ直観であるように思う。
というのも、ヨーロッパの精神史を紐解いたとき、
我々が伝統的であると思い込んでいた西洋の教養などが、
必ずしもその時代において主流をなしていなかったからだ。
我輩がここで述べる一つの仮説とは、
ヨーロッパの精神は近代によって想像され、
その古代、中世、近代の流れにおいて、
不可思議な断絶と連関を見ることである。
たとえばラテン語ギリシア語、
あるいは古代ローマの後裔といった部分だ。


ルネサンスレオナルド・ダ・ヴィンチは、
今日では科学の源流であるとか、
万学の人であるとか、教養人の典型と見なされるが、
おそらく当時において彼はそうは見られなかっただろう。
と言うのも、ユマニスム(ヒューマニズム)、
つまり人文学の全盛期に生きていたにも関わらず、
彼はラテン語ギリシア語をほとんど解していなかった。
当時、教養人としての「求められるべき素養」を
レオナルドはほとんど持っていなかったのである。
これは同時代人で官僚であり文人であった、
ニッコロ・マキアヴェッリについても言えることで、
彼はラテン語を解したがギリシア語を解していなかった。
彼は名文家ではあったがとりたて教養があったのではない。
彼がもしギリシア語を解していたならば、
彼の『ディスコルシ』*17は『ローマ史』のリヴィウスではなく、
『戦史』のトゥキディデスを取り上げることが
彼の思想からすると自然であっただろう。


ここで何を言いたいかと言うと、
ヨーロッパはヨーロッパが考えているほど、
古代ローマギリシアの遺産を相続していないという事実である。
ルネサンスの古典主義以前において、
ヨーロッパはまったくのラテン語文化圏であった。
それは最大の教父であったアウグスティヌス(5世紀)が
ギリシア語をまったく解しなかったことからも明らかであろう*18
さらにはルター以前において聖書とは
もっぱらラテン語訳の『ウルガータ』だったのであり、
ギリシア語で書かれた聖書の原典は縁遠いものであった*19
一般にキリスト教聖典の宗教と呼ぶが、
実のところルター以前において聖書は
さほど重要ではなかったのである。


5世紀からルネサンスに至る14世紀に亘る
長い長い空白期間においてギリシアの遺産を
一体誰が守ってきたのか。
それは皮肉なことに今日では主流から外れた
とみなされるビザンツイスラム圏である。
イタリアで華開いた所謂ルネサンスの根本には
スペインのトレドを中心とした「12世紀ルネサンス」なり
欧州の長期間に亘る漸進と蓄積が広く横たわっている。
たとえばその頃に発明された「複式簿記」は
ヴェネチア式などとも言われるが、
ヴェネチア商人たちと交流のあったイスラム商人由来であり、
さらに言えばイスラム商人と交流のあった
インド人にルーツ(元ネタ)を持っている。
同様に支那起源の紙や火薬の類もこのルートを辿る。


物以上に錯綜複雑を極めるのが哲学である。
古代ギリシアの哲学といえば、
我々はソクラテスプラトン
アリストテレスなどを思い浮かべる訳だが、
実のところこれらは当時の主流からは外れている。
古代ローマにおいて主流だったのは、
ゼノンを始祖とするストア派であり、
権力者であり文人であったキケロ
マルクス・アウレリウスアントニウスら、
名立たる頂点の時代の知識人たちは皆その影響下にあった。
プラトンキリスト教神学者
理論補強に引っ張り出されてきたのに過ぎない。
それは「万学の祖」アリストテレスなどにも言える*20


キリスト教とは無関係に見える西洋諸思想は、
元より神学によって再構築(分離‐結合‐構築)
されたものであることを忘れてはならないだろう。
極端な話、西欧における哲学、思想が、
キリスト教神学の影響を脱したのは、
せいぜい20世紀に入ってからであり、
それでも完全にとはいかなかったのである。
たとえば、「科学」であるが、
初期における近代科学の思想には、
明確にキリスト教神学の影響が見受けられる。
「万物に理性が宿る」と見たヘーゲルなどに至っては、
科学法則を「神の意志」と解していたようだ。
他にもニュートン錬金術師であったし、
ガリレオは敬虔にして従順なキリスト教徒であり、
コペルニクスに至ってはカトリックの司祭であった。
つまり、我々が考えているほど科学は異端ではなかったのである。


さらに「哲学史」というジャンルがあるが、
これに至ってはせいぜい200年ほどの歴史しかない。
これを始めたのは先のヘーゲルシェリングなど、
いわゆるドイツ観念論の哲学者たちだ。
彼らは古代から近代に至るまでの哲学を、
近代的パラダイムをもって規定し再構築したのである。
「自由」なり「平等」なりのイデオロギーをもって、
時空を超えた一貫性を創り出した。
そういう意味でヘーゲル以降の哲学史家は、
「百科全書派」的様相を呈しているのである。
だからこそ、その一貫性を見ようと思ったら、
その「流れ」が拾い上げたものだけではなく、
取り零したものについて探求すべきなのだ。
たとえば北イタリアの古代に起源を持つと思われる豊穣信仰が、
中世に異端として排斥される過程を描いた
カルロ・ギンズブルグの『ベナンダンティ』は、
そうした掌より失せたる砂の小さな一粒の発見であろう*21


少々話が脱線してしまった、
一般的な「教養」の話に戻りたい。


ここで「教養」の我輩なりの定義を述べたい。
それは「役に立たないもの」ものである。
近代以前の社会においては、
例えば漢籍が必須であったように、
求められている素養が、
つまり「教養」の中身がはっきりしていたと言える。
現代に翻ってみると、良かれ悪しかれ
そのような求められるはっきりした素養がない。
「教養」は益々社会から乖離して、
曖昧な存在にならざるをえなかった。
だからこそあえて我輩はそれを自分の専門以外の
役に立たない知識、素養であると考える。
商品化できず、有用性も無く、
また消費(使用)する事もできないもの、
つまり、徹頭徹尾役に立たないもの。
だからこそ、ただ自分のためだけにある事が出来る。
これは学問などでも言えることだろう。


我々が在る事、為す事について考えれば、
無慈悲なまでに無意味なので不安に襲われるのだが、
人間など意味や目的も無く生まれてくるのであって、
生きる事に意味や目的などはありはしない。
だからこそ、生きていくには自分で目的を立て、
それに向かって絶えず選択していかなければならない。
それこそが自由と呼ばれる状態なのであり、
それゆえに自由な状態は不安な状態でもある。
「個人」の裏側に「孤独」が潜んでいるように、
「自由」と背中合わせにあるのは「不安」なのだ。
その不安の中で生きていくには、
絶えず自ら選択し、目的を立て、意味付けし、
疑問を持ったりする訳なのだが、
そうしたものは自分の内より生じさせていくしかない。
自己の内を埋め、かといって外に流れ出ることの無いもの、
空虚さから人間を救ってくれるもの、
それこそが我輩の考える「教養」なのである。


しかし、この種の高尚さの無い「教養」というのは、
極論すれば「趣味」と大差が無いのではないか。
自らに用いることすらできないという点で、
「趣味」と区別することも出来るだろうが、
所詮、その程度の違いに過ぎない。
つまり、我が国において知識人とは、
所詮趣味人の延長にあるものに過ぎないのではないか。
仮に大衆がそれを高尚と評したときでさえ、
それは必ずしも褒め言葉を意味しない。
時にそれは自分達に無関係という意味で
実のところ無視しているのである。
専門分化した学問の姿を「蛸壺化」している
と評したのは丸山真男であるが、
今日「おたく」だろうが何だろうが、
断片的で統合する体系などはなく、
散漫な集合体に成り下がっている。


所詮我が国の知識人の思想などは
意匠が豪奢であろうが、なかろうが、
それを弄んでいることには変わらず、
知的スノビズムに堕さざるを得なかった。
かつての俗流マルキストを思い起こせばいい。
彼らにはマルクスその人の思想などはなく
あったのはその影響だけである。
マルクスその人の孤独な戦い(思索)を無視して、
その結果だけを抜き取ってしまう。
彼らはマルクスの息遣いを感じ取ることもしないし、
マルクスその人が持っていた緊張感も持ち合わせてはいない。
マルクスその人は居ても居なくてもよい。
あるのは道具としてのマルクス主義だけである。
つまり、マルクス主義自体が物化、あるいは
マルクス主義用語で言えば物神化したと言えようか。
要するに彼らは知的フェティシストなのである。

●「文化」と「様式」

95年、96年のベストセラーに『トンデモ本の世界』という本がある。
UFOやオカルト、ユダヤの陰謀といった
トンデモない本ばかり次々と紹介している本だ。
実に楽しく読める。
が、ここに出ている本を実際に読んでみると、
単なるくだらない本の場合が多い。
本当におもしろいのは「トンデモ本」ではなく、
それを紹介する人間の視点なのだ。


「何がどうおもしろいのか、語ること」
の重要性がここにある。  


オタク文化の頂点に立つのは教養ある鑑賞者であり、
厳しい批評家であり、パトロンである存在だ。
それは作品に美を発見する「粋の眼」と、
職人の技巧を評価できる「匠の眼」と、
作品の社会的位置を把握する「通の眼」を持っている、
究極の「粋人」でなくてはならない。


オタク学入門』 岡田斗司夫


オタキング」こと岡田斗司夫氏は
「オタク」は日本文化の正当継承者であり、
オタク文化」の頂点は鑑賞者であると絶叫する。
彼の発言は一面では偏見や抑圧の打破という
啓蒙家や煽動家としての側面を持つから、
誇張であるという批判も生じるであろう。
ここで彼の言う「オタク文化」の素晴らしさ云々を
肯定的にも否定的にもとやかく述べる積もりは無い。
それが無条件に素晴らしいものだとは我輩自身思わない。
だからと言って、貶めるつもりもまったくない。
そもそも文化ほど評価が難しいものはないからだ。


まず、「文化」とは何か。
それについて述べなければならない。
これはあらゆる文化論の前提として必要である。
なぜならこの定義が無ければ、
各論としての文化が、総論として、
一体何を意味するのか理解出来ないからだ。
観念の全体という枠組みを示さなければ、
個別の観念はただぶつかり合うだけである。
つまり、ある特定の何かを示したところで、
全体の何かを証明出来ない、
あるいは証明したとは言えないという事だ。
それは見取り図のようなものであり、
もちろん全体そのものではない。
しかし、把握を一層容易にするという点では、
見る対象と見えざる対象とを明示する必要がある。
全体とはその両方を包括するものだ。

T・S・エリオットは「文化の定義のための覚書」の中で、
『文化とは、たんに幾種かの人間活動の総計ではなく、
ひとつの生き方である』という簡明な定義を下している。
これは目にみえる形のあるものや、
われわれ自身の外部に対象化しうるものを
文化とよぶことはできないというほどの意味である。


文化財」という言葉がこのことを一番はっきり示している。
それは「財」であり、形のあるものだ。
だから、技術や芸のないものには、
わざわざ「無形文化財」と名づけた側にはそういう意識は全くない。
無形文化財」も有形の一変種とみなされているにすぎない。
つまり、それも保護すべき業績であり、客観的な対象であり、
私たちの外部にあって、私たちが観察・観賞できるものである。


T・S・エリオットは、さらに
『文化とはわれわれが意識的にそれを
目的とすることのできない唯一のものである』
という別の定義も下しているが、
これは文化という概念の本質を言い当てた言葉だ。
文化とは、その中にくらしているものには
必ずしも意識化されていないが、
社会生活全般にしみわたっている
「生き方」の様式のようなものである。
社会や国家が、有機体としての統一をたもっているときの、
一定の生の様式である。
とすれば、文化とはあらかじめ計量したり
目的化したりできないものであって、
標識や見取図をかかげて文化が目標化されたときは、
もはや文化が存在しないときである。


『反近代の思想』所収の福田恒存の解説より


先の岡田氏の意見が「眼」という比喩に
端的に表れているように外在的である。
一方、エリオットと福田の意見は
極めて内在的な文化論で、
この種の考え方を全体論(ホーリズム)という。
念の為に記すが優劣を問うているのではなく、
見方の違いを指摘しているのに過ぎない。
良い点を得ようと思ったら、
その悪い点も受け入れざるを得ないのである。
時としてその悪い点が、その見方の限界こそが、
逆説的にその見方を特徴付けてすらいる。


たとえば岡田氏の「オタクは死んだ」という発言*22
あれは彼自身に対する絶望の叫び(ポーズに過ぎないが)でもある。
それは今一度出口の無い地獄へ舞い戻ろうする
庵野秀明氏についても言えることであるが、
駆け抜けた果てに自分の周りに誰もおらず、
周囲を見渡せば廃墟であったという
一種の敗北感や虚無感が漂っている。
彼らの西洋の「自己完成」と中核を除いた個人主義が、
数々の優れたあるいは先駆的な作品を
作り出してきたのは事実ではある。
しかし、初期の『オネアミスの翼』からいって、
彼らの「おたくの自画像」*23は受け入られはしなかった。


庵野氏はそうした流れを一度リセットしようとして失敗し、
岡田氏に至っては古色蒼然とした修養主義を注入して、
「おたくの教養」を活性化させようとし、
そして、挫折したのである。
より正確に言えば、「挫折」すら疑わしい。
「挫折」は試みが定着していたからこそ起こるのであって、
その試みすら定着していなかったのであれば、
それはむしろ「剥落」とでも言うべきであろう。
この論考で何度か述べているように、
日本に個人主義は根付かなかったのであり、
畢竟個人を基調とする思想の多くは
鍍金のようなものに過ぎない。
塗るのは簡単だが剥がれるのもまた容易である。


岡田氏の「オタクは死んだ」以前に
伊藤剛氏が「“オタク”が終わったあとに」という論考の中で、
「生き方」や自己に対する認識としての“オタク”は
「終わった」という興味深い指摘をしている。
ここで氏の言う“オタク”とは一般に使われているような
「オタク」「おたく」からは限定した意味のものである。
その“オタク”に社会的な有効性があるかのように感じられていた、
ある種の”幻想”が「終わった」のだと氏は喝破した。
要は虚構が現実より先走った挙句に定着し損ねたということだ。
秋葉原などをその「虚構の生活化」と見れないことはないが、
やはりディズニー・ランドなどに比べると弱いであろう。


岡田氏は「サブカル」を仮想敵に掲げて
“オタク”を理想化した訳だが、
この種の方法は岡田氏に限らずしばしば見受けられる。
我輩が批判する宇野常寛氏もそうなのだが、
彼らは虚像に吼える虚像という傾向が大変強い。
「サブ・カルチャー」と呼ぶにせよ、
「カウンター・カルチャー」と呼ぶにせよ、
それに対応するような「メイン・カルチャー」が、
我が国に何があったと言うのだろうか。
無関心をメイン・ストリームと見做せないことはないが、
尚更空に吼えるという実像が浮き彫りになるだけだ。


明治の昔からそうなのである。
端的に言って「様式」(スタイル)がない。
様式という共有しうるもの中にあって、
はじめて個々の「意匠」(デザイン)は生きるのである。
「同化」と「差異化」は一つの機能なのであって、
それ単体で存しうることはできない。
伝統などへの「反逆」というものも成立しうるのは、
実はその反逆の対象が生きている時のみだ。
文化においては様式が、思想においては現実があって、
はじめて意味を持つのである。


ところが、「後進国」である日本においては、
方法はすでに結果を伴っているが故に、
それは「現実」と混同されやすい。
さらに悪いことに「現実」は常に相対的であるにも関わらず、
「方法」と癒着した「現実」は絶対的になりがちだ。
たとえば、「決断主義」と現実のパワー・ゲームは、
区別して考察されなければならない。
つまり、方法(論)と方法が導く現実の解釈は、
確定は出来ないが区別することは出来るし、
また比定する姿勢は堅持しなければならないということだ。
意識的にせよ、無意識的にせよ、
この種の混交には自覚的であらねばならない。
そうでなければ、どんなに正確な将来予測が出来ても、
「現在」の自分の状況が分からなくなるからだ。
前書で述べた「影」を定めることというのはそういうことだ。


アウシュヴィッツ以降すべての文化は、
 当の文化への切実な批判を含めて、ごみ屑だ*24
テオドール・アドルノと嘯いた。
それは彼自身の発言や著作物も含めての意味において正しい。
フロイトの焼き直しラカン*25
ハイデガー(あるいはカント)の二番煎じに過ぎぬデリダ
マルクスフロイトの野合の子たちフランクフルト学派
高き輝ける時代の下の廃墟で使古された襤褸を纏い、
古層の泥水を啜り残飯を漁って現代人は暮らしているのだ。
井蛙には空の青さが己の惨めさの根源に見えるに違いない。
眼前にあるというのに手が届かない、
まったく我々は自身の卑小さを思い知らされる。
時代の高さ――つまりは我々に与えられた「可能性」が、
もはや我々一人一人には手に余るようになっているのである。
そして、膨らみ続ける「可能性としての自由」から
「逃走」を試みる者たちがこれからも現れて来よう。
「おたく」にせよ、新興宗教にせよ、あるいはサークルですらも、
倫理的であろうとするならばその逃げ場所と化すであろう。
それが良いのか、悪いのか、判断に苦しむところではある。
何と言っても人は独りでは生きてゆけぬのであるから。


◎「倫理」の意味と本質

●「制度言語」と倫理

「ポスト〈セカイ系〉としての『ギートステイト』と、
 ライトノベル作家の文体についての疑問(改訂版)」*26
というエントリで用いられていた「制度言語」というのは、
Basil Bernsteinの「言語コード*27のことを
言っているのかと思っていたが、
その後の展開を見るにそうではなかったようだ*28
思うに、それは「制度」(System)と表すよりも、
「形式」(Form)とでもした方がしっくりくるのではないか。
おそらくはより硬い印象を与えるための比喩なのだろうが、
修辞的には「形式」あるいは「型」の方が相応しいだろう。


「様式」にせよ「形式」にせよ、
共有しえてはじめて「様式」と呼べるのであって、
個々人が勝手に「様式」を唱えることは出来ない。
個々人のそれは良く言って「意匠」であり、
悪く言えば「癖」程度のものに過ぎない。
日本においては「様式美」という言葉に表れているように、
様式が出発点ではなく到達点となり、
それは完成されたものとして受け入れられる。


おそらくはそのせいだろう。
各「様式」が各時代で完結しており、
我々は連続したものとして見ることができない。
だからこそ「様式」と「世代」は容易に混同され、
一つの作品に「様式」が凝縮されているように捉えられる。
いわゆる「セカイ系」においては、
「福音」と名付けられたカルト・アニメをもって
始まり、そして終わったのであると。
とかくこの種の審美的態度は
自己撞着、自己欺瞞、論理破綻に陥りやすい。
元々あるのは「美」に対するものだけなのだから、
真偽(論理)も善悪(倫理)の判断は有効と成り難い。
ゴルディオスの結び目を断つが如くとはいかないのだ。


「様式」(形式)とは必ずしも硬いものではない。
我が国においては「茶化し」が様式化される。
たとえば、江戸時代の貝原益軒といった儒学者が、
生真面目なものを書くと戯作者たちが
即座にポルノのパロディを書いて茶化している。
我らが「美しい国」日本ではカラスは「孝孝」と啼き、
ネズミは「忠忠」と嘯いて真剣な「儒」を茶化すのである。
そういうお国柄なので、現代のコミック・マーケットが
欲望の放埓とある種の情趣と茶化しに彩られているのに、
我輩はさして驚きを覚えない。
我輩の尊敬する荷風散人に至っては、
日本人は世界一の助平民族なのだと豪語なされておられる。
然もありなん。


さて、「制度言語」改め「形式言語」についてであるが、
誤解を恐れずに簡略に言ってしまえば、
それは「合言葉」や「阿吽の呼吸」というようなものになる。
抽象的に言えば、用いられる単語の共有や、
語彙の意味の共通性ということになろうか。
たとえば、「おたく」と聞いて、
「おたく」「オタク」「Otaku」と受け取るかの違いや、
スポーツと言えば野球、サッカー、相撲、プロレスなど、
どういうものが即座に浮かぶかの違いについてである。
その擦れ違いが少なく、共通性が高さを以って、
その集団の倫理とするのである。
たとえば「ネタ」や「ベタ」、「ぬるい」などは
論理というよりその種の倫理的な判断によって下されている。
そして、そうした判断の多くはナンセンスだ。
元より審美的性質であるものを
倫理的に見ようとするが故の錯誤である。

同調圧力と倫理

  人間が最も激しく冀求するものは
  その生ける完全性であり、生ける連帯性であって、
  己が《魂》の孤立した救いというがごときものでは決してない。


  私の個人主義とは所詮一場の迷夢に終わる。
  私は大いなる全体の一部であって、
  そこから逃れることなど絶対にできないのだ。
  だが、その結合を否定し、断ち切り、
  そして断片となることはできる。
  が、そのとき私の存在はまったく惨めなものと化し去るのだ。


D・H・ロレンス『黙示録論』


以前の論考で自明の倫理はなお健在であり、
サバイバル感云々を述べている連中は
「常識に還れ」というような趣旨の事を書いたが、
同調圧力としての倫理は弱まっている。
これは確かに事実であろう。
前者が「何々すべからず」を課すものならば、
後者は「何々すべし」といったものを課す。
あるいは場に応じた振る舞いを求める、
「場の精神」とでも言ってもよいだろうか。
そして、人々はそれを懐かしいと思っているが、
それを希求するとどうしてもアナクロニズムに陥らざるをえない。
「共同態の黙契」が崩れたからこそ人は「自由」になり、
倫理的容貌を捨て去ったが故に「匿名」の存在となる。
それが今日の自由な社会の「個人」というやつである。


ポスト全共闘世代くらいまでしか通用しないと思うが、
かつて「歌声喫茶」というものがあった。
ジャズ喫茶の合唱版とでも思っていただければよい。
これが最近復活したらしくニュースでも取り上げていた。
いい歳こいた男女が恍惚とした表情を浮かべて歌い、
TV局の人間が連れて来ていた若衆が顔を引きつらせる。
――多少演出がいきすぎてはいるが、
今時の青年層には異常な光景に見えて不思議は無い。
もっとも、ああいうのを楽しめる連中には、
若い子たちが一人でカラオケしてたり、
あるいは他人が歌っているのに、
それを聞かずにみんなてんでんばらばら
飲んだり食ったりしゃべったり、
ああいう統一感の無い行動が我慢なら無いらしい。


彼らは「個人主義」を高らかに標榜していたが、
彼らほどそれが単なる気分の問題でしかない
ということを見せ付けた連中は居ない。
まったく「団塊」とは言い得て妙かな。
彼らの本質は「量」なのであって、
良かれ悪しかれ彼らに「質」はない。
彼らが「個人」足りえたことは
ただの一度も、刹那の間にもないのである。
我々の生得的な価値観の問題もあろう。
我々にとって「数」はまず「量」であって、
「序数」の世界ではないからだ。
今にして思えば「進歩」という幻想も、
「質」の問題ではなく「量」の問題であった。
そういう実感からの乖離が
彼らを益々観念的にしていったのだろう。


我々は個人主義を自立した個人になるために教わる。
が、元より個人主義は自立した個人の生き方なのであって、
個人は教えられて後に現れてくるようなものではない。
はじめから個人は世界に放り出されている。
そこで立ち上がってきた思想が個人主義なのである。
個人であるからこそ孤独なのであり、
この孤独を避けて個人足りえることは出来ない。
それは心寂しい生き方なのであり、
それをぐっと耐えることが個人主義というものなのである。
元よりそれは他人が褒めるようなものですらない。
独りぼっちの戦いなのである。
そして、この孤独な戦いに敗れた者たちは、
集団への帰還を試み、倫理を生き方として掲げるであろう。

●共同体と倫理

  吾々は総じて結びつきというものに堪えられないのだ。
  これこそ吾々の病弊でなくしてなんであろう。
  吾々は覊絆を断ち切り、
  孤立しなければならぬ羽目にある。
  そういうことを吾々は自由と称し、
  独自性と呼んできた。
  だが、それはある点を越えれば
  ――その一点に吾々はすでに達しているのだ――
  ついに自殺となる。
  ひょっとしたら吾々は自殺の道を選んでしまったのかもしれぬ。
  それもよかろう。
  アポカリプスもまた自殺を選んだ、
  そしてそれにひきつづく自尊の歌を。


D・H・ロレンス『黙示録論』


今日における倫理と共同体とは、
コミュニケーションの同質性に裏打ちされた、
コミュニティと言ってもいいだろうか。
元よりトピック(話題)というのは、
トポス(場所)に連なるのであり、
トピックの共有することの出来るトポスを求めることが、
今日のユートピアなり倫理的願望なりの様相となっている。
この種の集団志向が個人愛と区別することが困難なのは、
それが自己と他者の同質性に動機を持っているからである。
そして、同質的であるからこそその種の集団は
常に個人以下の存在に過ぎない。
集団が均質化して個人(個性)を圧迫しだすと、
今度は自己の同質性を守るべく離脱を志すようになる。


斯くして今日無数の「おたく」が誕生しては滅んでいく。
市民社会を志向しようと村(社会)への回帰を望もうと、
「おたく」という集団倫理でさえも、
その共同体にまつわる本質に差異は存在しない。
あるのは意匠や外見の違いであり、
根底にある本質は「自由からの逃走」に過ぎない。
彼らが求めているのは自己実現なのではなく、
自己をかなぐり捨てた「我々」という一体感であり、
そこに通底する価値観への信仰なのである。
そう、彼らは殉教者なのだ。
先鋭化した倫理の武具を身に纏い、
時に自らをも傷付けながら社会に異議を唱える。
しかし、そのようなものはもはや徹頭徹尾ナンセンスであり、
時代錯誤以外の何ものでもない。
それは現代に「新しい中世」を構築しようとするようなものだ。


◎現代の精神の病症

コップの中の嵐と安楽への逃避

  人間の地上的権力を打倒して、
  そのかわりに大衆の否定的権力を樹立しようという
  クリスト教共同体の旧い意思が復活したのである。
  この闘いは今日なお惨劇のかぎりを尽して荒れ狂っている。
  ロシアにおいては、地上的権力に対する勝利が完遂され、
  レニンを聖徒の頭とする聖徒政治が実現された。
   たしかにレニンは聖徒である。
  彼のうちには骨の髄まで聖徒の血が流れていた。
  今日、彼が聖徒として崇められていることも、
  まこと故あるかなである。
  しかしながら、人間の雄々しき権力を
  ことごとく殺戮せんと企てる聖徒は
  あたかもひわどりの美しい羽毛を
  片端からもぎとろうと欲した清教徒のごとく、
  悪魔でなくしてなんであろうか。


D・H・ロレンス『黙示録論』


自由は何故不安を齎すのか。
それはおそらく我々にとって
自由がすでに所与のものだからだろう。
与えられた自由は我々に絶えず選択を迫る。
そうした状況において、
「自由からの逃走」が起こるのだと
E・フロムはナチズムを戦前において分析した。
欧米人、特にアングロ・サクソンの思想家に顕著だが、
彼らは選択の結果上手く行くことを幸福と考えているようだ。
自由の下に選択は必然的に行われるが、
その結果は保証されていない。
だからこそ我々はあれこれ悩んで決断し、
不安を一つ一つ解消していくしかないのだろう。


こうした絶え間ない選択、
底なき無数の可能性という自由に恐れをなし、
ある種の人々は不自由を求めるようになるだろう。
20世紀における二つの反自由主義革命、
すなわちコミュニズムファシズムは、
そうした宗教じみた情熱を以って自由を圧殺した。
そうすることで生きるものがあったのである。
百姓が生ける鶏を屠殺するように、
自由や己の倫理に共感せぬものを抹殺せんとした。
これは彼らの「生」に必要だったのだろうか。
ナチスの残虐さは確かに悲惨極まりないものがあったが、
しかし、反ユダヤ主義の風潮は汎ヨーロッパ的なものであった。
スターリンは粛清によって血塗られた帝国を作り出したが、
その力強い指導者としての英雄的な姿は
今日なおロシア人の心をとらえて離さない。
この種の非人間性と異常さの本質とは一体何処にあるのだろうか。


かつての軍国主義
安保騒乱とその成れの果て、
そして方舟からオウムに至るカルト。
今日、あらゆる集団にオウム的なもの、
あるいはファッショ的な要素を見出すことは、
非常に容易であるように思われる。
自由にしても、平和にしても、
それらは元来消極的な概念に過ぎない。
しかし、我々が未だ持つ倫理とは、
そうした消極的なものにのみ拠っている。
確かに今日における倫理的志向を持つ集団は、
過去の断片を寄せ集めたものに過ぎないが、
それでもそれには積極的な価値や意味を有している、
少なくとも我々の多くはそう思い込んでいるようである。
が、多かれ少なかれ自由社会の原理に反するものは
排除されるか、反社会的行動の形をとって噴出する。
がらくたの寄せ集めで出来た倫理は打ち壊され、
またしても廃墟となる。


今日の生活における倫理の困難さが、
かえって芸術やその他の分野において、
その種の倫理的傾向を純化培養させているようである。
先のコミック・マーケットで擾乱を引き起こした
白痴ならず者集団のような極端な形をとらずとも、
そういった倫理への志向は偏在している。
それが反社会的行動にならないか、
という外的事象の違いに過ぎない。
思想問題としての本質は何処にあるのか、
その中核を抜き取らぬ限り
外見を代えて何度でも繰り返すだろう。
こうした嵐がコップの中ですむか、
あるいはコップが壊れて周囲に破片を撒き散らすかは、
陳腐な物言いになるが、「運」にかかっている。
集団を前に個人はいつも無力感に躓く。
これはいかなる時代においても避けうるものではない。
あるいは集団に没入することによって
安楽を得ることができるかもしれない。
が、安楽を貪れば貪るほどに、
我々は自己を失っていくだろう。

●あれもこれも

あれもこれもと求めている内に、
急にいじけてしまう人が少なからず居て困る。
尊敬すべき地位を求め、
自分のやりたいことをやり、
良き友を得、愛する恋人を欲する。
そんなあれもこれも彷徨するように
求めることが上手く行く訳がない。
それは単なる私欲の発露に過ぎないのである。


しかし、自由社会の世界観とは、
所詮各人が各人の利己心を働かせて、
自然になんらかの形の秩序が生まれるのを
期待しているのに過ぎないのだから、
これに反撥する者はすべて反社会的にならざるえない。
倫理的であろうとするが故に反社会的になるというジレンマ、
これは悲劇と呼ぶべきであろうか、
ただ無残であると言うべきであろうか。


生きる価値を、
生きている意味を、
自分の存在意義を問うことが、
これほど困難な時代があったろうか。
無数のかつてないほどの高い可能性に囲まれながら、
そこに自分の求めるものがないとしたら、
人はもはや狂うほかないのではあるまいか。


あれもこれもと希求した挙句、
恋愛を罪と考えたり、自己をその犠牲者であるとして、
負の価値観によって己のアインデンティファイしようとする。
これはもはや狂気の沙汰というほかないのではないか。
自己の内にある他人を殺し、社会を壊し、
自分すらも殺してすらも求める自尊に何の意味があるのだろう。
『黙示録』的破滅願望の先にある自尊心の禍々しさを前に
我輩は語るべき言葉をなくしてしまう。

●馬鹿は死ななきゃ治らない

「縁無き衆生は度し難し」という言葉が仏教にある。
身も蓋もない言い方をすれば、
馬鹿はどうしようもないということだ。
知識人でも市井の知的なブロガーですらも、
馬鹿を救済しようと無理に頑張って、
自分を追い詰めていく人がたまに居る。
人間誰しも妄念なり妄執なりに囚われる。
度にそれを祓い清めるしかないのだが、
馬鹿にはその自覚が無い。
彼らには自分が何に囚われているのか、
そういう自覚すら彼方にある。


そうした善意の対極にあるように見える、
「自己責任」云々などですらも見ていて思うのだが、
馬鹿にそんな責任を全うする能力があるのだろうか。
責任にしても、義務にしても、権利ですらも、
それを扱う能力があってはじめて成立しうるものであるが、
そういうものを馬鹿に期待しうるのであろうか。
期待し得ないからこそ、絶望的で、
度し難いからこそ馬鹿というものなのではないか。
誤解を恐れずに言えば、
自覚の無いものに何を言っても無意味だ。
馬鹿をどうこうするのは政治なり宗教なりの仕事であろう。
前者は罰則で肉を縛りつけ、後者は魂を拘束(保護)する。


白黒をはっきりさせるべきであろう。
我々は他人を救うほど強くはない。
我々はあまりに無力である。
我々は独りで生き、そして独り死ぬのだ。
我々が生きるとは孤独な闘いを独り続けることである。
淋しく、悲しく、空しく、己の不運を嘆くことはあっても、
それを他人や社会のせいにしてはならない。
子は親が自分を理解してくれないと怒り、
親は子が分からぬと嘆き悲しむ。
共有しうるのは理解ではない。
無理解の共有という諦めの境地のみである。
誰のせいでもない悪というものがあるのだ。
そして、生きていく以上はそれを背負わざるをえない。
これは人間の根源的な問題なのである。


機械であれば直すことも出来よう。
だが、人は機械ではない。
如何に機械化されようと、機械のように振舞う努力しても、
我々は機械になることができないのである。
人間の悲劇はここにあるのかもしれない。
機械化し人間性を喪失してなお、
我々は人間以外の何ものでもないのだ。
一体、我々とは何なのだろうか。


◎筆のすさび――「箸」と「筆」

エスはパンよりも尊いものがあると我らに教えるのだが、
教えられて自由を選ぶくらいならパンを選ぶ方が、
むしろ自由なのではないだろうか。
食いたいから食ってるのであって、
食いたくないものを無理やり食わされている、
そんな心持でいる人間は少なかろう。
ブッダだって苦行の果てに無意味さを悟って、
スジャータより牛乳粥を受け取ったではないか。
求むるところに素直にあるべきなのだろう。


しかし、それだけでは放縦に走るだけだから、
「常識」というものが必要になる。
もっとも、それも所詮は単なるドグマに過ぎない。
元より倫理的なものは全てアプリオリなのである。
「語りえぬものに対しては沈黙しなければならない」
と言ったウィトゲンシュタインではなく、
「現代哲学の隠れた王」(H・アレント)と称せられたカント以来、
実のところ近代の哲学者は「倫理」に背を向けている。
強いて言えば、ニーチェがその最期の抵抗者にして、
敗北者であったと言えるかもしれない。


良識や道徳、倫理というのは個に課される制約なり足枷などであって、
元よりそれは他に対して声を大に訴えるものではないのだろう。
ところが今日ここかしこで
倫理的脅迫が横行しているのを我々は見る。
彼らの合言葉は「かの悪しきものを倒せ」であって、
彼ら自身が何かしらの「善」を為すことではない。
弱者というものは何時だってそうである。
己の魂の弱さを感じ、孤独に耐えられず、
口を開けば「かの強きものを倒せ」、
自分達は何も持っていないが故に正しいのであると。


服従したことの無い者は統治することも出来ない」
とはアリストテレスの弁であったろうか。
陰謀論が絶えぬ理由の一つには、
自分が何を支配し、何に支配されているか、
自覚することが出来ないからだろう。
それは一種の神経症のようなものである。
自らの限界を知らぬもの、
自分に何ができないかについて考えないものは、
自分に何ができるかについても知らない。
限界や制約と可能性と能力は表裏一体なのである。
個々人が個々人の限界と現実を知り、
各々が各々なりに自分の道を歩むしかないのだろう。


所詮、「理想」とはその方向性程度の問題でしかない。
「現実主義」ですらも「現実」をありのままに見ようとする
一つの「理想」の形に過ぎないのであって、
言うなれば「理想主義」も「現実主義」も、
現実を見る態度の違いに過ぎないのである。
それは現実を処理する術や方法なのであって、
我々はそれ自体を理想化してはならないのだ。
今日の理想化とは専ら理想に対する理想である。
そして、現実はその方法に対する
態度にすりかえられてしまっている。
斯くして我々は自分の目の間にある現実を見ようとせず、
自分が掲げていた理想すら忘れてしまっている始末だ。
このような状況ではもはや言葉を綴るだけ、
益々精神に混乱を来たすようになるのかもしれない。
そして、我々は語りながら次第に言葉を失って行く……

*1:参照:http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070726/p2

*2:参照及び引用元:http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm

*3:参照:http://kirik.tea-nifty.com/diary/2007/07/post_f652.html

*4:以下、斎藤真『アメリカとは何か』(平凡社ライブラリー)を参照及び引用

*5:反ニュー・ディールのタフト=ハートレー法の法案提出者の一人として有名

*6:いわゆる「ブレーン」――正確には「ブレーン・トラスト」という言葉はニュー・ディール由来で、ルーズヴェルトは恐慌打破のために左翼知識人を総動員したのである。アメリカにおける社会科学が専ら政策科学に偏っているのもこれに因るところが大きい

*7:現代のいわゆる東欧諸国民にとって「東欧」という言葉はトラウマになっている。彼らにしてればそれはヨーロッパからの疎外の象徴なのである

*8:なお、ニーチェのような考え方を「主意主義」という。たとえば「力への意志」論など

*9:プラトンアリストテレス以来の伝統的形而上学を徹底的に破壊したため、「全てを破壊するカント」(ドイツ語での表記は失念してしまった)と呼ばれた。また20世紀のH・アレントは「現代哲学の隠れた王」と呼んだ。現代の哲学者は程度の差はあれ19世紀の魔王たち――カント、ヘーゲルマルクスニーチェの亡霊あるいは残留思念に魘されている

*10:=ものに本質など無い

*11:参照:http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/582474956f34136b8a62bf7789f91bac

*12:参照:J・ホイジンガルネサンスとリアリズム」

*13:京大は支那学、東大は漢学

*14:参照:「支那人の食人肉風習」http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4270_14876.html 及び 「支那人間に於ける食人肉の風習」http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/42810_23981.html

*15:参照:D・H・ロレンス『黙示録論』

*16:参照:呉智英『バカにつける薬』

*17:「論考」の意。いわゆる『リヴィウス論』や『ローマ史論』とよばれている著作

*18:そのためラテン教父とも言われる

*19:したがって各国語訳も原典ではなくラテン語訳をもとにしていた。詳しくは田川建三氏の『書物としての新約聖書』を参照

*20:キケロすらも現存するアリストテレスの著作を読んでいないとされる。要するにアリストテレスは「万学の祖」として現れたのではなく、「万学の祖」として“発見された”のである。なお、キケロは同時代の哲学者の言葉を多く引用しているが専らストア派プラトンに拠っている

*21:参照:古田博司「世界史の終焉と宗教ファシズムの冒険」

*22:参照 http://d.hatena.ne.jp/kasindou/20060524/p1

*23:参照:ササキバラ・ゴウ『教養としての<まんが・アニメ>』

*24:T・アドルノ『否定弁証法

*25:フロイトに帰れ」だそうだ。フロイトは晩年になって自身の思想を訂正せざるえなくなったのだが

*26:参照:http://d.hatena.ne.jp/gginc/20070714/1184372477

*27:社会階層による会話パターンの違いのこと。参照:http://www.lang.osaka-u.ac.jp/~yamasita/newpage224.htm

*28:参照:http://d.hatena.ne.jp/trivial/20070716/1184531064 及び http://d.hatena.ne.jp/gginc/20070716/1184556046