国家とその擁護のための予備的諸考察(3)

●前書

本論及び三編の考察は、先の二編に比べると抽象的な考察ではなく、具体的な事柄や言説に色々と言及するために、最初にどういったことに触れるのかまとめておく。本論「統合と主権」ではヨーロッパにおける中央集権化の歴史を概説し、近代国家が齎した利点を指摘する。つまり、国家なくして市民社会は近代的足り得ないことである。「主権と契約」では所謂“契約説”の論者について概説する。一括りにされやすいホッブズ、ロック、ルソーらの思想の違いを説明しつつ、その問題点について大雑把に述べておきたい。加えて“契約説”の根幹概念である“主権”において、ホッブズから今日に至るまで、論理の飛躍点があることを指摘おきたい。つまり、“人民主権”と“国民主権”の違い、“国家形成の契機”と“統治権力の正当化”の違い、それらの論理的整合性の問題などである。これらの問題から、“契約説”を超えるフィクションが必要であると考えているのだが、残念ながら我輩の構想力の及ぶところではない。付帯して内田樹氏の憲法解釈及び制定史理解、不戦条約等の国際法理解が間違っていることを指摘しておく。「国家と社会」では、ロック以来の“信託”乃至“信頼”概念を軸に主権国家と自力救済権について述べる。そして、社会や共同体もまた我々に危害を加えうるということ、国家は尊重されるべき存在であることを強調する。付随して内田氏と宮台真司氏の安倍政権批判は妥当ではないこと、またそうした見解の根本にあるであろう、両氏の日本政治外交史理解の間違いを指摘しておく。



この三編全体で『思想地図』の共同討議における国家観や「ナショナリズム」と「アウシュヴィッツ」解釈を巡る東浩紀氏の所説への反駁とし、氏と『極東ブログ』の終風翁(――HNや雅号に添える言葉は色々と悩んできたのだが、子の場合、翁でよいと思うようになった。すでに芭蕉より長生きされておられるのだし、失礼には当たらぬだろう)との議論に加えて、それに付随して複数のブログが提出した論点について、問題点とそれに対する見解を記したい。東氏にしても、終風翁にしても、見識があり敬意を払うべき方ではあるが、見解を異にする点が少なくない。なお、今回の主たる批判対象である三氏にしても、まったく評価していないわけではない。それぞれ、非常に優れた仕事を残されているところもある。しかしながら、まことに遺憾なことに、今回批判している点に関しては、概説書を一冊さっと目を通すだけでも避けられたような、聊か粗忽な言説が眼につくのである。それが残念に思われると同時に、彼らに反感を覚える所以となっている。冀わくば本論が彼らへの諫鼓たらんことを、顧みて自らの戒めとせんことを。


●歴史的文脈における「市民社会」(地域共同体)


ある種の欧化主義者が、「市民社会」という特殊ヨーロッパ的なものを礼賛したために、「市民社会」というものの歴史的な理解に奇妙なねじれを齎している。「市民社会」というのは西欧に見られる特殊な社会形態の一つに過ぎず、また、ヨーロッパの全てが市民社会であった訳ではない。さらに言えば、「市民社会」を近代的なものと看做すことが多いが、実際には中世都市に端を発しており、むしろ前近代的な面においてこそ、その特徴が存する。だからこそ、ヘーゲル市民社会の超克(Modernization)としての民族共同体(Nation State)、即ち「国民国家(Modern State)」を彼の思想において目指したのであった。フランスに対する“後進国”ドイツの現状を憂え、さらにはイエナにおいてナポレオンを目撃した彼にとって、市民社会は超克されるべき対象なのである。そして、近代国家の下にあって「市民社会」は、はじめて“近代的”足り得たのだった。つまり、今日の我々が考えるようなヨーロッパの市民社会というのは、前近代の都市共同体が近代化され、再編成されたものなのであって、そこには分厚い歴史的な堆積層が存在するのである。



この前近代的(近代国家以前)としての「市民社会(共同体)」的なニュアンスを感じるのが、今回の論争に付帯して叙述しておられる『地を這う難破船』というブログのエントリ「マフィアの論理とナショナリズムの論理(正義の実装)」である。独特の断言を回避する生硬な文体故に、ところどころ我輩には理解しかねる部分があるが、少なくとも「マフィアの論理」というものは、レトリックとして少々不適格であるように思われる。そもそもマフィアというものは、イタリアの近代化の特殊な文脈として理解されるべきであって、一般的な概念として用いるべきではない。「マフィア」は純粋に前近代(封建時代)のものではないし、無論のこと、近代のものでもない。それは近代化によって歪みが生じた、言うなれば、近代化によって変質した前近代性なのである。その歪みが近代社会にとって有害なだけなのであり、その歪み以外は単なるならず者、何時如何なる時代にも存在する法からの逸脱者に過ぎない。おそらくこの「マフィアの論理」なるものが指しているのは、一般に言うところの「自力救済権」のことであろう。たとえば、我が国で言えば「仇討ち」などがそうである。奇異に聞こえるかもしれないが、近代以前の社会の方が(――私人格と公人格が明確に分離されてなかったが故に)むしろ個人主義的な面が存在するのである。それは自力救済権であったり、自治などであったりするわけだけが、それらが個人主義的に見えないのは、外面的な身分制のせいである。これらに関しては次々回時に詳しく述べる。



歴史的文脈から言えば、イタリア北部が古代からの都市国家性を温存し、まさに「都市は人間を自由にする」という空気のもとに共和主義的な市民社会を形成していたのに対し、南部、特にシチリアを支配した外国勢力(ノルマン、カスティリヤ、ブルボン)は、極めて専制的な支配を布いていた。この苛烈な専制支配の後遺症が、今日におけるイタリアの南北問題(――南北経済格差、マフィアやカモッラなどの犯罪組織、忌々しい北部の分裂主義者どもの跋扈)なのだが、すでにルネサンスの時代から、ナポリ王国のような市民的平等が存在しない地域では、共和政体が樹立されることはありえないだろうとN・マキアヴェッリが喝破している。ところで、『君主論』の第二十六章を以って、彼をイタリアのナショナリストと見る向きがあるが、フィレンツェでの就職に拘って他国からの誘いを断り、『フィレンツェ史』などの著作などもある彼の人は、やはり骨の髄までフィレンツェ人であったと見るべきであろう。要するに第二十六章などというものは、ニッコロが就職予定先のメディチ家に対して、けれん味たっぷりの大見得を切って見せただけのことである。



あだしごとはさておきつ。ここでいう市民的平等というのは私人的なそれではなく、公人格における平等である。公人格において自由と平等は背反しない。反アパルトヘイトの闘士ネルソン・マンデラ南ア元大統領は、自治の基本はすべての人が自由に発言し、市民として同等の価値を認めてもらうことだった」と述べているが、これは公人格の自由と平等を的確に表した言葉であるように思われる。つまるところ、政治参加の平等性のことである。「ソーシャル・キャピタル」論の有力な論者ロバート・D・パットナムは市民共同体を小さな親密な前近代的な社会に結び付けるのは誤りで、むしろイタリアにおいて市民度が最も低いのは伝統的な南部の村々に他ならず、伝統的な共同体の住民エートスは理想化されて描かれるべきではないと述べている(参照:『哲学する民主主義』NTT出版)。市民的な州ほど経済的に豊かな状態から出発したわけでもなければ、そうした州が必ずしもより裕福だったということもない。市民的な州は、十一世紀以来確実により市民的でありつづけた。これらの事実は、市民的な積極参加が経済的繁栄の結果にすぎないという考えとは両立しにくいと指摘している。つまるところ、経済的繁栄が市民的自由を齎したのではなく、経済的繁栄はイタリアの北部から中部に至る近代市民社会の伝統に因るところが大きい。それは中世市民社会の良き遺産(――そして、その副産物としての愛すべき「ヘタリア」というお国柄)なのである。


●歴史的文脈から見た「統合」乃至「中央集権」


市民社会」と同じく誤解を受け易い歴史的文脈にヨーロッパ各国に対する中央集権のイメージがある。即ち、フランスやドイツが強い中央政府を有した集権的な体制であり、イギリスが弱い中央政府と分権的な体制を有していたという誤解である。『アングロサクソン年代記』という古文書によるとノルマン・コンクェストの結果、原住のサクソン人貴族は数名を残して悉く殺害されたという。そのため、このノルマン人による征服王朝は当時のヨーロッパの諸国とは比較できないほど強固な王権を有していた。このノルマン王朝の形式上の主君であったフランス王はパリ近郊の大貴族に過ぎなかったし、無数の領邦が散らばり、ほとんど象徴的な意味しかなかったドイツ皇帝などと比べ様が無かったのである。そのために以後のイギリス史というのは、弱小な貴族達の強大な王権に対する挑戦であった。それが「マグナ・カルタ」であり、「模範議会」であり、「大諫奏」であり、「権利の請願」であり、王殺しのピューリタン革命という臨界点の後に、緩やかに「議会の中の王」という着地点を見出して今日に至っているのである。これと逆の運命を辿ったのがフランスであり、ドイツであり、イタリアであった。フランスは王権の絶対化とパリ一極集中の真最中に革命が起こるという混乱が生じた。或はド・トックヴィルにならって、すでに集権は完了しており、革命によって強化されただけと看做す事も出来るかもしれない。革命の最中に起こったヴァンデ戦争は、まさに集権化に抗う共同体と隆盛する国民国家との(――過渡期的な事件としての)戦争であったと言えよう。


●思想史解釈の難しさ――議論の前置きとして

一般に私は歴史に対する見方として、その中における人間の意志の現象としての行為の能動性――それは主体性という言葉で呼ばれることもある――、歴史の進展に対する個人の役割を重視する立場に立つ。科学性を標榜する歴史家はとかく、たとい「必然理論」の唯物史観をとらなくても、事物の結果からそれ以前の経過を判断する傾向があり、歴史の中に存在した複数の可能性、その中における人間の決断とその行動の責任性を見逃すおそれとしない。私は人間を集団的に考察する社会史を軽視するものではないが、しかもなおその中で歴史学が本来課題とした個々の事物、事件の究明とその解釈を重んずる所以もそこにある。


――林健太郎『昭和史と私』文春文庫

思想史的解釈の難しさは、まず書かれたことだけが当時の現実ではない(――書かれなかった現実の存在が捨象される)ということ、名称と実相が一致しない可能性があること、そして、何よりも今日生きる我々自身がそうであるように、必ずしも言動というものは一致しない(――甚だしきはイデオローグやプロパガンティスト、口舌の徒といった人々の位置付けの難しさ)という当たり前の事実に起因する。こうしたことから、思想の文献解釈を巡って大きく二つの立場が現れることになる。つまり、ただ抽象的な思索のみを重視しその普遍性を強調する立場と、歴史性を加味してその特殊性を強調すると立場である。我輩は必ずしも前者を否定するものではない(――哲学や思想そのものであるならば、むしろそうすべきである)が、本論では後者にやや重きを置いて、「ナショナリズム」の歴史について叙述し、アウシュヴィッツとイコールで結び付けることに抗議したい。「ナショナリズム」そのもの解釈を巡っては、東氏と終風翁との間の論争では、あまり突っ込んだ見解が示されなかった(――単なる軽いツッコミに東氏が過剰に反応したことが大きな要因だが)ため、『過ぎ去らない過去』というブログの「ナショナリズムとアウシュヴィッツ、あるいは国民統合の歴史」というエントリに対する反駁を中心に据える。



本筋から少々逸れるので、先に指摘おくが、「物騒な話題の雑感」で終風翁の指摘しておられる「聖絶」という概念は面白くはあるのだが、しかし、それでは、神がアウシュヴィッツを創り給うたのであり、そこにあるすべては神に帰せられると言うのに等しいのではないか。大量虐殺が古代からあるのを指摘するのならば、「聖絶」という神掛かった概念で捉えるよりは、組織化と技術革新が大量虐殺を容易にしたことについて指摘する方が、まだしも妥当な解釈であるように思われる。また、おフランス思想というのは、単純にいうと田舎の思想で、ドイツの引け目のなかにいたわけで、基本的にはこれもマルクス主義の亜流みたいなものだったのだろう」という指摘も、ナショナリズム理解への連関としては、留意が必要であるように思われる。何故なら、ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインといった実務家から、「馬上の世界精神」を仰ぎ見たヘーゲルなどの思想家に至るまで、先進国フランスに対する後進国ドイツという危機意識によって突き動かされていたからだ。思想の分野にしても、ルソーを筆頭にフランスの啓蒙主義者たちは、ドイツの文人たちに強い影響を与えている。



少々極論になってしまうが、いち早く近代化を達成したイギリスがたいした思想を編み出さなかった(――E・バークはアイルランド出身、啓蒙学派は名前通りスコットランド。繁栄するイングランドでは、ジョンソン博士が中心になって文芸遊びに熱中しておられた)ように、思想などというものはむしろ後進性のあらわれに過ぎないのではないか。よく言えば、時代の先駆者、覚醒者、危機感をいち早く察知する明敏な知性と言ったところだが、実際どこまでそれを評価しうるか、我輩はかなり難しいと思う。殊に、我が国においては、尚更現実に対して“虚構が先走る”のである。たとえば、『冬枯れの街』というブログの執筆子が、何でもかんでもナショナリズムに結び付けて論じる大澤真幸氏のことを「ただの若者には興味がありません。この中に脱社会的存在、動物化ネトウヨ、アイロニカルな没入した若者がいたら…」という具合に、涼宮ハルヒのパロディで茶化しておられる。少々やりすぎの感もないわけではないが、かなり的を射た皮肉と言えるのではないか。或は北田暁大氏が2ちゃんねらーのことをアイロニズムの消尽の果てに生ずる、ロマン的意匠を施された、確信犯的ナショナリズム以上の『厄介な(そして危険な)政治的投企』」と評しているのに対し、古田博司氏がそんなものはただ「茶化し(ティーゼーション)」と言えばいいのであって、「(そうした批判は)彼ら(2ちゃんねらー)の『ナショナリズム』を西洋思想の言説から云々するばかりなのであり、それでは彼らの『ナショナリズム』を左翼的な枠で日本に植えつけてやるようなものではないか」と指摘しておられる(参照:『新しい神の国ちくま新書)。こうした過剰な読みとか、意味付け、あるいは思想性の付与というのは、かえってある種の歪みを生じさせてしまうのではないか。赤木智弘氏の「希望は戦争。」といった言説なども、丹念に原文を読み解いていけば、至極単純なことが書かれているのであって、プロの批評家が自分の頭で考えずに、そういう「希望は戦争。」とかいうフレーズに釣られてはいけないと思うのである。赤木氏は心とか実存の問題ではなく、ただ単に「生活」について訴えているのであって、物質的、功利主義的に解決する問題が、どうして思想的でありうるのだろうか。或はそうした問題をどうして斯くも観念的に捉えるのであろうか。赤木氏の訴えを肯うか否むかの判断は別として、少なくとも件の論文に始まる論争において、歪んでいたのは氏ではないと我輩は思うのである。この点、本章の冒頭でも引用した林健太郎がかつて発した警告は、今日でも通用しうるのではないだろうか。少々長いが本章の結びとして仮託したい。


自由主義の強調が戦後の日本においてとくに必要とされるのは十分の理由がある。それは一口にいって、日本では明治維新によって社会の近代化を開始して以来一世紀近くを経ているにもかかわらず、その基礎をなすべき近代精神の確立がはなはだ不十分だということにある。このことが現代日本の社会に独特の歪みを与えているのであるが、この歪みというのは現実と精神の間のギャップから生じているのであって、これまでしばしばいわれたような現実の歴史過程そのものの中にあるのではない。明治維新は不徹底な革命であったとか、この革命における民衆の要求が資本家、地主によって抑えられたためにその後の歴史が誤った過程を辿ったとかいうようなことがよくいわれたが、それは正しい歴史の見方ではない。かえってそのような歴史の考え方自身に認識の歪みと立ちおくれが存在するのである。皮肉なことに現代日本の社会において一番おくれているのは民衆や実業家あるいは政治家ではなく、みずからもっとも進歩的なりと称している一部の知識人である。しかもそれらの知識人がオピニオン・リーダーとして相当の勢力を持っているところに、現代日本の最大の問題が存するのである。


――林健太郎「現代における保守と自由と進歩」筑摩書房

●ドイツにおけるナショナリズムの“困難さ”


『過ぎ去らない過去』というブログの執筆子はライヒ概念を敷衍しつつ、ドイツにおけるナショナリズムの歴史を叙述しておられる。確かに16世紀以降の帝国は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と称していたのだが、今日的な「国民」のイメージに引っ張られ過ぎるきらいがある。何故なら、14世紀のボヘミア王カレル一世が皇帝に即位して以来、当の16世紀の神聖ローマ帝国ハプスブルク家出身の皇帝だったルドルフ二世の治下においても、帝国首都であったのはチェコプラハであったという事実が存するからだ。冷戦以降に生きている我々は、惰性でチェコなどを「東欧」という言葉で捉えるのだが、今日のチェコ人などにとって「東欧」という言葉は、一種のタブーやトラウマとなっている。彼らに言わせればチェコは歴史ある「中欧」の一員なのであって、冷戦期においては、中欧の都プラハが東欧の霧に消えた」(ミラン・クンデラ)と嘆いていたのである(――我輩はニコニコ動画の某春閣下シリーズを涙なしで観ることが出来ない愚民の一人である)。日本の文人漢籍を嗜んだように、三十年戦争に起因する17世紀以降のチェコに対する弾圧があったということもあるが、チェコ文人たちもかつてはドイツ語を嗜んでいた。例えば、20世紀のチェコが生んだ、偉大なポスト・モダンの小説家であるフランツ・カフカは、ドイツ語で作品を書いている。蓋し「ドイツ」という観念は、シナにおける「中国」乃至「中華」という概念に似ているのではないか。それは明確な領域性に欠いており、文化共同体とでも呼ぶべきものに過ぎなかった。



先に結論から申し上げれば、ワイマール共和国が民主主義の不徹底からではなく、一種の行き過ぎから自滅したように、ナショナリズムの派生や暴走として、ナチスアウシュヴィッツがあるのではなく、むしろナショナリズム民族自決や近代国家(Nation State)の拒絶反応として、それらはあるのではないかと我輩は考えている。中央集権化で触れたフランスにしても、フランス人という意識は元々ほとんど存在しなかった。自分たちは征服者ローマの子孫なのか、それとも被征服者ガリアの子孫なのか、はたまた解放者ゲルマンの子孫なのか。革命以前のフランスの文人たちは、こうした議論を延々と繰り広げていたほどである。それが革命を経て、何より革命戦争による外国勢力の侵入が、彼らを結び付けることになった。国内的な求心力というのは、日本の攘夷などのようにやはり対外的なものによるところが多い。歴史家の三谷太一郎先生風に言えば、「忘れえぬ他者」(仮想敵)というやつである。ちなみに今日でも地方の差異というのは残っていて、南部のプロヴァンスや北西部ブルターニュなどは、独自の言葉や文化を保持していることで知られている。加えて、口語と文語の乖離から、彼の国では近代以降も長きに亘って、代筆屋というのが存在していた。要するに国民統合というのは、まったき同質性を意味しない。現実問題としてそのような同質性の強い集団というのは、この世界では極々限られているからだ。だからこそ、国民統合の思想、運動としてのナショナリズムというのは、契機性以上に、むしろその目的性、志向性に重きが置かれるのである。その点、伝統ではなく、憲法=国家への忠誠に重きをなす、ユルゲン・ハーバーマスの「憲法愛国主義」というのは、さほど突飛な発想ではない。



さて、問題はドイツである。ドイツはフランス以上に混迷を極めていた。ドイツのナショナリズム領邦国家だけでなく教会権力とも同時に戦わねばならかった。そもそも、ナチスが台頭した時、ナチの指導者たちがまず直面したのは、地方が中央の言うことをまったく聞かなかったことであったのである。それほど集権と統合というのは難しい。独裁体制が布かれやすい国というのは、むしろ“中央政府が弱い”のである。今日のパキスタンなどがその好例であろう。こうした世俗社会の分裂ばかりでなく、俄かには信じ難いのだが、H・プレスナーの『ドイツロマン主義とナチズム』によれば、「アウグスブルグの和議」以降、“領主”が領国の宗教を選び、個人で選ぶことは出来なかった。なんとこの一種の領国単位での国教会は“第一次世界大戦の敗戦時”まで存続し、その後のワイマール体制の下で解体せられたとはいえ、補填として政府は所得税の“一割相当の教会税”(まさに十分の一税)を代理徴収し、この制度は何と“現在でも続いている”のである(1995年現在)。この聖俗の天地を縦横に走った亀裂を埋めることは、かの偉大なるビスマルクをして不可能たらしめた。北部プロテスタントと南部カトリックポーランドの汽水域としての東プロイセン、さらにはベルリンとウィーンの二者択一。小ドイツ主義以外は選択の余地が無かったにも関わらず、それでもこの奇妙な捩れは今日でも解決されないであろう。一体、ドイツ人の国とは何処までを指すのか。ドイツ国民とは何ものであるのか。元よりこれらの地域では、長らく「帝国」という体制を布いて来たのであって、人為的で強制的な変更を迫る国民国家への道程は、酷く困難なものであった。先のハーバーマスの「憲法愛国主義」という考え方は、こうした特殊ドイツ的な事情を加味せずに理解することは困難である。つまり、国家統合の求心力として契機的同質性を求めると、その不明確な領域性が膨張するか、或は分離へと逆転してしまう。同質性などというものに拘泥すれば、集団は収縮し、やがてむくつけき「我」が露呈する。そして、最後には己をも失うであろう。我は我をもって我たりえないのだから。ハーバーマス東ドイツの吸収合邦に反対したことには、確かに一面では理が存するのである。



前世紀のドイツのこうした状況をさらにややこしい事にしたのが、ネオコン或はリベラル・ホークとでも言うべき、ウィルソン大統領の掲げた「民族自決」と、ベルサイユ条約で禁じられたドイツとオーストリアとの合邦との原則上の“捩れ”である。そういう意味でプロテスタントが多かったナチにあって、ヒトラー自身はカトリック系のオーストリア人であった事実は興味深い。先のプレスナーカトリック下の世俗主義(フランス)とルター主義(ドイツ)下の世俗主義を対比して、後者にナチズムの遠因を求めているのであるが、フランス革命ジャコバンのテロル政治を考慮すれば、必ずしも妥当な見解とは言えない。ただ、日本で好まれるベンヤミンの「政治の美学化」という見方よりも、こうした「政治の神学化」といった見方のほうが妥当である様に思われる。つまり、世俗的かつ反自由と言う意味で普遍的な、政党という名の“教会”が、地上の統治に乗り出したのである。一面においてナチズムは、断片化したドイツ人が散り散りになるのを留めていた。しかし、その実態は前代の思想の寄せ集めに過ぎなかった。彼らのイデオロギーは何より「否定の優先」だったのであって、そうした意味でナチズムは極めて虚無主義的であった。彼らが否定したもの――個人主義自由主義、民主主義、議会主義、資本主義、カトリシズム、マルクス主義、そしてユダヤ人。彼らの特徴はその否定面の強調であり、だからこそ、東西分裂後にナチズムのマルクス主義との対抗という側面が、逆説的にはあるが、強化されて理解されてしまうのである。


●党派という病と政党政治の擁護


フランス革命における恐怖政治、ボルシェビキによるロシア革命、そして、ナチスによる保守革命。これらは人類の負の歴史とでも称すべきものだが、これらが我々に教訓を与えているとすれば、それはナショナリズムの危険性ではなく、「党派」が齎す弊害とその根治の困難さである。いずれの革命においても、国家そのものというよりは、国家をある党派が乗っ取り、他の党派を弾圧壊滅させて、一党独裁体制を布いたことにその特徴が存する。フランス革命のように、短期間に各党派が抗争、分裂、粛清、自滅を繰り返したものもあれば、ソ連のように長期間維持したものもある。体制維持のために独裁体制を布き、野党を認めないということは多々ある。古典的共和主義などに至っては「党派」の存在を認めないか、或は考慮に入れすらしなかった(――数少ない例外がN・マキアヴェッリである)。E・バークが『現在の不満と原因に関する省察』(――有名な「政党」の定義が記されている。「政党とは、ある特定の主義、または原則において一致しているいる人々がその主義または原則に基づいて国民的利益を増進させるために、協力し、結合した団体である」)で擁護するまで、政党(Party)という言葉ですら、党派(Faction)と区別されずに用いられていたのである。我々は「民主主義」という概念ばかりに注目を向けがちだが、「政党政治」も自由な社会のために擁護されるべきものであり、それ自体をもっと評価されてしかるべきであろう。フランス革命と同時期のアメリカにおいて、フェデラリスト政権である第二代大統領ジョン・アダムズから、リパブリカンのジェファーソンに、政権が平和裏に移行されたことをもって「1800年の革命」と称していることが、過大な評価とは言い難いのはこのためである。昨今、民主党に対する風当たりが(――自業自得とはいえ)厳しいが、彼らが国民の党たらんとする限り、支持していようがいまいが、それはやはり我々国民の政党なのである。“公的であるということ”とは、それが“我々自身であるということ”を一旦は認める態度に他ならない。



違憲立法審査権アメリカ憲政上確立させたジョン・マーシャル判事が、「マカロック対メリーランド州事件」に際して、「この規定は、来たるべき時を超えて持続し、その結果、人間に関するさまざまな危機に当てはめるべきものとして憲法に盛り込まれている」のだと述べるにはじまり、今世紀のハリー・ブラックマン判事が「ロー対ウェイド事件」における判決文で憲法とはそもそも基本的に異なる見解をもつ人々のためのものであり、ある見解が自然で聞き慣れたものだとか、あるいは斬新で衝撃的でさえあると私たちがたまたま発見することによって、それらを具体化する法律が合衆国憲法に抵触するかというかという問題についての私たちの判断を結論付けるべきではない」と述べるに至るように、国家も、憲法も、飽くなき抗争の歴史から得た人類の叡智であったはずだ。我輩が国家を擁護するのも、党派そのものを根治することが不可能な以上、党派の弊害を是正するには、国家がやはり不可欠であろうと考えるが故である。そもそも、国家が、憲法が、政治が、我々自身の反映でなくして何であるのか。我々を守るものでなくして何であるのか。我々自身の問題でなくして、一体何であると言うのだろうか。国家が不名誉な八つ当たりじみた批判を受け、非道徳の塊であるかのような扱いを被るのは、我輩には堪え難いのである。何故なら、国家や政治が低劣であるのならば、それは我々自身を映す鏡でしかありえない以上、その言葉は我々に還って来るからだ。国家を如何に論じようと、あるいは如何なる思想を編もうとも、我々自身が有限な存在であることは変わらないこと、思想の中にあっても人間であり続けるということを、我々は忘れてはならない。


最後に、党派対立の現実に立ち向かった、アメリカ「連邦憲法の父」J・マディソンの言葉を引用して本論を締めくくりたい。


政府の悪用を抑制するためにそのような手段が必要であるということは、人間の本性を反映するものかもしれない。しかし、政府自体が、人間性の最も偉大な反映でなくして何であろうか。人間が天使であったならば、政府は必要ないだろう。天使が統治するならば、政府に対する外的な統制も内的な統制も必要ないだろう。人が人を統治する政府を構築するに当たって最も難しいのは、まず政府が統治の対象を統制できるようにし、続いて自らを統制するようにしなければならないことである。
――『ザ・フェデラリスト・ペーパーズ』第五十一篇「抑制均衡の理論」