あんパンなんていらない。(Ver.Unteazated)

別館の方で宮台真司氏が赤木論文に寄せた
コメントをあまりに凡庸過ぎると評した所、
このようなトラックバックを頂いた。
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20071113/p1
ここで展開されている論争や立場への不信感が、
『Something Orange』というブログの
アイデンティティなんていらない。」
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20071116/p1
というエントリの内容に通じるものがあるように思えたので、
後者のエントリを軸に論理や倫理、
個人や集団の問題について論じたい。

実存主義と社会的承認

コメント欄にも指摘があったが、
海燕氏の「アイデンティティ」は
定義が少々曖昧過ぎる。
社会科学や人文科学において
キーとなる概念の定義付けは重要である。
何故なら論理の前提や根本を成すからだ。
定義が曖昧だとどうしても
その理論の想定や仮定も曖昧になりがちであるし、
かつその理論の適用の易さは定義の強さに比例する。
そもそも議論が最も起こりやすい点が、
この基礎的な定義付けの段階である。


定義の曖昧さもさることながら、
その適用される範囲もまた問題である。
思うに、海燕氏は本稿において、個人と集団、
その関係性の峻別が出来ていないのではないか。
つまり、個人対集団のほかに、
個人対個人、集団対集団もあり、
帰属意識」について述べられている割に、
むしろ個人対個人の記述に偏っている嫌いがある。
言い換えれば、アイデンティティの下に、
自我論と社会的承認が混交されてしまっている。


ただ、海燕氏の意見の内容自体はそれほど突飛ではない。
「社会的承認」に関して言えば、
自意識が自分を失って、
 他者こそ本当の自分だと考える一種の疎外
などとヘーゲルが述べているし、
自我論の方は実存主義の自己決定原理であり、
(端的に言えば、「オレはオレだ」という思想)
前世紀における主流の思潮であった。
問題は両者が混じった結果、
集団に対するほど自我に対する懐疑が深くない事だ。


海燕氏の意図を読み解くに、
アイデンティティなんていらない
と言った時に放棄されているのは、
社会的承認としてのそれなのであろう。
誤解を恐れずに換言すれば、
「オレはオレで、それだけでいいじゃないか」
という事になろうが、
ここで定義付けの弱さが特に露呈する。
社会に存在証明を求めないにしても、
デカルト以来の古めかしき言葉、
「我思うゆえに我あり」が立ち現れて来る。
つまり、社会によらなくとも、
自分が自分をアイデンティファイしている以上、
アイデンティティ」は放棄されてなどいない。


アイデンティティ」というのは
近代的自我以降に現れたものである。
近代的自我、すなわち、
同一性と連続性と主体性のある自我の事である。
これが確立されたのは実はそう古い事ではない。
「我思う故に我あり」と言ったデカルト以降、
少しずつ強化されていった観念であり、
実のところそれは必ずしも自明でもない。
近代哲学においてもD・ヒュームなどは、
自我の同一性を一切認めず、
そうした存在は虚構であると断ずる。
彼によれば知覚と記憶と想像の結果として、
自我の同一性が“想定”され、
我々はそれを“信じて”生きているのに過ぎない。


所謂『想像の共同体』以降、
国家や民族の自明性というのは確かに揺らいでいる。
そうしたものは確かに曖昧で、
蜃気楼の様に実体の無いものに見える。
だが、そうした議論は往々にして、
事物を研究する際に設定する理論や仮説を、
 具体的事実そのものと誤認する」という
K・ポパーが方法論的本質主義と呼んだものに陥り易い。
さらに言えば、実体論的には証明できなくとも、
我々は現にそれが機能している事を目の当たりにしている。
それは「私」という存在にすら言える事だろう。


自我への信仰が膾炙された現代において、
必ずしもアイデンティファイは
内部からではなく外部からの要請による場合がある。
たとえば、彼の人の存在が昨日と明日とで違うのでは、
契約などを交わしたりする事が出来ない。
「私」が「私」であると意識していない時も、
「私」が「私」であると認識されてしまう。
この段階において、もはや、
内部から要請されたアイデンティファイと
外部から要請されたアイデンティファイとを
はっきり区別する事は難しい。
「私」とは必ずしも「私」のみよって
成り立っている訳では無いのである。

●「もの」と「こと」の方法論試論

存在するものを想定することは、思考し推論しうるために必要である。論理学は恒常不変のものにあてはまる公式のみを取り扱うからである。このゆえに、こうした想定は実在性を証明する力をまだもってはいない。すなわち、「存在するもの」は私たちの光学に属する。存在するものとしての「自我」(――生成や発展によって触れられることがない)。主観、実体、「理性」などという虚構された世界は必要である――、すなわち、秩序付け、単純化し、偽造し、人為的に分離する権力が私たちの内にはあるのである。「真理」とは、多種多様の感覚を支配しようとの意志に他ならない、――かくして諸現象は一定の範疇にもとづいて配列される。そのさい私たちは事物の「それ自体」を信ずるところから出発する(私たちは諸現象を現実的なものとみなす)。定式化されがたいものとしての、「偽」としての、「自己矛盾する」ものとしての生成の世界の性格。認識と生成とは互いに排除しあう。その結果認識は何か別のものとならなければならない。すなわち、認識しうるものたらしめようとする一つの意志が先行していなければならない、一種の生成自身が存在するものという迷妄をつくりあげなければならないのである。


F・ニーチェ 『権力への意志』 理想社


「白馬非馬」という公孫竜の有名な言葉がある。
これは「こと」と「もの」の悪質な混在であり、
差し詰め古代中国版ソフィストと言ったところか。


  白とは色の概念であり、
  馬とは動物の概念である。
  であるからこの二つが結びついた
  白馬と言う概念は馬と言う概念とは異なる*1


これはつまり、「白」と「馬」は
それぞれ「もの」(概念)であるが、
「白馬」と言った時、「白」は「もの」でなく、
「馬」という「もの」に対する判断、
つまり、「こと」になっているのである。


普遍的な「もの」と特殊な「こと」との間で、
我々は思考の運動を為す。
そこにおける多様性とは手段や目的、
ましてや理想などではなく、
正に現実そのものに他ならない。
即ち現実という存在する「もの」の解釈が
多様性という「こと」なのである。
「もの」それ自体は実証不可能であっても、
現実に対して理念は「こと」の領域に止まる。


ところが気の早い不可知論者は
「もの」と「こと」を峻別しないままに判断してしまっている。
理念その「もの」においても
個々の現実に当てはめる際には
手段という「こと」の領域に収まるのであって、
その合理性を問う事は可能であるし、
「こと」同士の比較もまた可能である。
不可知論は「もの」に対しては単純にあてはまるが、
「こと」に関してはその個別において妥当性を問いうる。
不可知論においてすら「こと」の判断における
検証や反省を逃れる事は出来ない。


中立性と多様性がしばしば混在されるのは、
この「もの」と「こと」が絡み合うからだ。
現実その「もの」から解釈を直接引くのは困難であり、
あらかじめ何かしらの理念や
問題意識(直観)に沿って行われる。
したがって合理性は「こと」に対する
「こと」に対して問われる。
この実際の個別判断である所の
二次的な「こと」に対するのが中立性であり、
理念としての一次的な「こと」に対する
並存や寛容が多様性なのである。


ニーチェが『権力への意志』において喝破した様に
「学問とは数学と解釈」であり、
「事実なるものはなく解釈のみ」ではある。
しかし、事実そのものではない解釈であっても
明晰性を持たせる事は可能であり、
その努力を怠るのは単なる知的怠慢に過ぎない。
我輩が「もと」と「こと」で
三段階に分ける方法論を掲示したのは、
ある種の批判がその判断自体に対してではなく、
その判断の方法や立場に向けられる、
あるいはそういう風に看做される事が多いからだ。


そうした議論において
「もの」に対する「想定」に過ぎない
方法や直感といった立場(足場)は、
往々にして絶対的になりやすい。
だからと言って、我々は想定なしに
いかなる存在も認識する事は叶わない。
それ故に何かしらの立場を取る事自体は
是非の対象にすべきではないのだろう。
しかし、個別具体的な判断や、その行為、
影響は合理的に比較する事が可能なのであるから、
その比較判断する姿勢は堅持されなければならない。
議論の有効性に関しても
個別に当てはめる際にはその合理性は問いうる。
裏を返せば概念そのものの是非を問うのは難しい。
要するに右翼だからどうこう、
左翼だからどうのこうの言っても仕方が無いのである。


かつて松本健一氏は、
右翼思想に内在的にアプローチしているが、
ミイラとりがミイラになる危険があるのではないか
とある評論家に言われたそうだ。
それに対して松本氏はそうした批判者は
他者の言論や精神をマルクス主義など外にある
他の思想によって別の思想を批判する外在的批評を旨としている、
だから批判者はすこしも傷をおわないのだと言い返しておられる。
言葉や対象は違うが福田恒存氏は
進歩主義に端的に表れていた
外在的批評の気軽さを「自己抹殺病」と呼び、
それはあらゆることがらから、
 自分自身の存在そのものからさへ、
 自分を抜き取ってものを考へるばかりでなく、
 さうしてはじめて公正なる判断に到達しえた
 といふ安心感をえる風習
と評しておられた。
要するに無関係性と中立性は異なるのである。

●今日における倫理の困難さ

問題は今やヨーロッパにモラルが存在しないということである。それは、大衆人が新しく登場したモラルを尊重し、旧来のモラルを軽視しているというのではなく、大衆人の生の中心的な願望がいかなるモラルにも束縛されずに生きることにあるということなのである。諸君は若者たちが「新しいモラル」を口にする時はそのいかなる言葉も絶対に信じてはならない。わたしは、今日このヨーロッパ大陸のいずこにも、一つのモラルの外観を示している新しいエトスをもった集団は存在しないと断言する。人々が「新しい」モラルを口にする時、それは一つの不道徳行為を犯しているのに他ならないのであり、彼らは、密輸入のための最も容易な方法を探しているのである。


オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫


倫理とはその本質から言って、
集団から個人への一方的命令であって論理ではない。
したがって、個人から個人へ発したり、
合理的に論ずる事は困難を極める。
倫理は私においてはそれに従い、
他に対してはそれを問い掛けるという形を取る。
ところが今日跋扈しておるのは、
倫理的脅迫とでも呼ぶべきものであり、
そのようなものはもはや倫理とは言い難い。
それは倫理というよりは単に権利の主張であり、
オルテガの言う、権利はあっても
義務があるなど考えもしない「大衆」の姿を髣髴とさせる。


この種の人間はもはや正当化も説得力も欲しないだろう。
ちょびひげ伍長よろしく彼は
ただ断固として己の意見を強制させるだけだ。
決断主義なる不愉快な言葉が一時局地的に流行ったが、
何の事は無い、単に野蛮と呼べばよい。
一切の説得もせず抗議も受け付けぬ輩の戯言に、
世人はどうしてかくも微温的に付き合っていられるのか。
情状酌量、動機を理解する事が
寛容だと思い込んでいる節があるようだが、
心情などそれこそあってないようなものだ。
行為や結果のみで判断するに如くは無いではないか。


たとえば、今回の発端となったブログにしてもそうだが、
甘やかされなかった事を逆恨みしているだけではないか。
あくまでもそれは個人の領域の事なのであって、
そこにアイデンティティやらなんやら持ち込んでも、
ややこしくさせるだけだ。
後付の言い訳などそれがどうしたという話に過ぎない。
社会的規範に関して云々しながら、
個人の後ろめたさや良心を盾にして
その規範から逃れようとするなど言語道断であろう。


さらに不愉快な事に今回の件に関して古澤克大氏は
いつもの「非モテ」ネタとして昇華しておられるが、
我輩は氏に強く「常識に還れ」と言いたい。

F-1レースはあるレギュレーションに沿ったフォーミュラーカーを用いて、進路妨害等をしないといった規定を遵守しながらよりよい成績を残すべく闘うレースである。しかし、そもそもレースに参加できない、ないしレースに参加しても敗北が決定しているプレイヤーにとってはこのようなルールに従う義理はない。つまりそもそもそのルールで勝てないと判断されるプレイヤーにとっては戦車で殴りこんでも一向に不利益はない。


中略


現実としては19世紀末から20世紀前半の労働者は様々な争議を起こし、資本主義のルールをねじ曲げてその利益を勝ちとっていった。この著者に言わせればこのような行動に対しても「戦ってる人間の邪魔をするな。」と言えるのだろうか。この19世紀末から20世紀前半の労働運動と同様に、我々非モテが既存のルールをねじ曲げ勝者からパイを奪いとることは悪ではない。これを悪と断罪するのは現行のルールで利益を得ている者である。しかし、その言葉は悪を示しているのではなく、自らにとって害になるということを示しているに過ぎない。つまり、これは闘争状態を示しているに過ぎず、我々は一点の道徳的瑕疵もなければ、自らの利益に基づき行動することを実力以外を以って害される理由もない。


引用:http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20071112/1194859019


「F-1に戦車」などというナンセンスな譬え話を用いておられるが、
そもそもルールなきところに勝負など成り立たないではないか。
たとえば、ボクシングでルールがなくなってしまえば、
それは単なる殺し合いに過ぎない。
こういった古澤氏の思想は危険であると同時に
酷く慢心しきったお坊ちゃん的な発想である。
規則は確かに我々が他人を害するの律してはいるが、
同時に他人から害される事も律している。
その規律が無くなった時、
どうして自己が害されないと言い切れる。
こうしたルールそのものを壊そうとした時、
ジェノサイドとホロコーストは我らの前に顕現するであろう。
その矛先が誰に向くかなど誰にも分かりはしない。
誰だって加害者になりうるし、被害者になりうる。
ホームレスをただ汚いという理由だけで、
火炙りにしようとした高校生が居たが、
発端となった意見や古澤氏の意見はそれに近い。
自分にとって醜いもの、不都合なものを、
ねこぎ取り除こうとする心性である。
世人はそれを「全体主義」と呼ぶ。


非モテの闘争、決断主義恋愛至上主義の打倒、
差別を無くせ、出産の事を書く事の是非云々、
こういう小賢しい屁理屈と固定観念が跋扈して、
昨今は常識と現実に対する想像力が失われている。
現実を変えようなどと思ってはいけないのだ。
我々は常に現実に従って生きてきたのである。
「常識」とは現実に教わる態度に他ならない。
ボクシングがそのルールによってボクシング足るように、
我々もまた曖昧な可能性などではなく、
我々を制約し、制限するものに生かされている。
そうした制約をマイナスとみなして、
それをゼロに近づけていけばプラスと思うのは間違いだ。
単にマイナスがゼロになっただけの事である。
これは幸福と不幸についても言える事ではないだろうか。
全ての不幸を無くそうと躍起になるばかりに、
自分がすでに持っていた幸福までも
見失ってしまっているのではないか。
そういう危惧を我輩などは抱くのである。

*1:ウィキペディア「公孫竜」から引用