国家とその擁護のための予備的諸考察(2)

●モラルなき時代


オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』は大衆社会論の嚆矢とか、自然的貴族の議論ばかりが注目されがちである。甚だしきは彼の「自然的貴族」と「大衆人」の対比から、大衆人への一方的断罪という字面をなぞっただけの解釈すら為される。「運命というものはすべて、その根底においてはドラスティックであり悲劇的である。時代の危機を自分の手でしっかりと把み、その脈打つのを感じたことのない人は、運命の核心に到達したことのない人である。彼はその病み衰えた頬をなでたとしかいえない」という一文はある種の皮肉のようにすら感じられる。確かにオルテガの筆鋒は大衆に対して厳しいのであるが、彼にとって「大衆の反逆は、生命力と可能性の信じがたいほどの増加を意味する」ものでもあった。問題は、この大衆人が過去のモラルに対して敬意を払わず、しかもそれを超克する新たなモラルを形成する能力を有していなかったことにある。



ここでいうモラルとは、倫理的な意味合い、特に“全体性”という意味で用いている。つまり、狭義における倫理においては、個々の規範を包括するものである(――道徳は個人の良心と集団の倫理によってなる)。全体性は、信仰においては神であり、生活においては文化であり、政治においては国体として現われる。こうした謂いが知的においてはホーリズム的、政治的においては全体主義的であることを否定はしない。「自由」の“原理化”にはなお留保すべきであると考えているからである。殊に「選択の自由」において、それは成功者の自由でしかありえない。成功を事後的に正当化するに過ぎないそれは、端から失敗者を疎外しているか、或は失敗に対する担保を有していない(――だが、同時に「平等」なるものも結局はこの「自由」に対する消極的な修正主義的見解に過ぎない)。昨今話題になった赤木智弘氏の「希望は戦争。」という言葉に表れているのは、単純な意味での「戦争」ではないのだ。勿論、発言した当人はそうした背景を意識して述べたものではないだろうが、ロックなどの言説における所謂「戦争状態」であると理解した方がよい。「戦争状態」とはただ単に干戈を交えるという意味ではなくて、社会において相互保全や信頼が成り立たない事である。ここではもはやシステムは機能せず、原子化した個々がただぶつかり合う。権力は規範性を失い、ただ力として振舞われる。


●モラルなき歴史


モラル(全体性)が存在しないということは、要するに我々が、我々の思想や営為が断片化しているということである。思うに、それは今日の現状とて変わりは無い。果たして今の日本に、或は諸外国に、全体性を持ったモラルなど存在するだろうか。我々は実に気楽な調子で「現代」とやらを語り、「世代」とやらを論じる。然るに、果たして我々に「現代」と言うほどの同時性があろうか。「世代」と言うほどに何かを共有しているだろうか。「現代美術」を称している児戯に、枕詞以外に一体如何なる共通性があろうか。現状のグローバリズムなる概念への理解もまた奇妙である。ソ連の崩壊は確かにマルクス主義の発展的な歴史観を打ち砕いたかもしれない。しかし、それは同時に自由主義(ホイッグ)的な進歩史観の夢想すらも破壊するものではなかったか。我々は「歴史の終わり」(F・フクヤマ)に到達したのではない。歴史の目標(目的)が見失われた時、それは「『歴史の終わり』そのものの終わり」(J・ボードリヤール)を意味したのであって、我々が真に失ったのは「歴史性」という全体像なのである。(――歴史的意義のあるものとして)湾岸戦争はなかった」というボードリヤールの言には、ある種の茶化しを超えて真理が存すると言えよう。



ところで、理想主義の思想や原理そのものの現実性を問うことに、意義はあまりない。問題は理想主義者が現実においてどのようなアクターとして在るのかにある。現実主義者であっても“主義”である以上は、現実そのものではありえない。同様に理想主義だからといって、現実と何ら接点なくして考え出されるような思想などありはしない。どのような思想であれ、現実との接点なくして我々に認識されえない。我々が思想の中身だと思っているものは、実際には思想と現実とが接した時に現れる“反映”に過ぎないのである。この“反映”という意味においてのみ言葉は躍動し、思想は思索者や机上を離れすらする。実際の思想的営為において、「正統」だとか、「異端」であるとかいった文献的解釈は、ほとんど意味を成さない。なぜなら、静止するのは我々の精神であって、思想や言葉というものは静止しないからである。歴史的、思想的誤解もその限りにおいて我々を前進させるであろう。ガリレオが異端であろうとなかろうと、「それでも地球は回っている」のであって、ガリレオが異端であるか、否かは、大して意味を持たないのである。時に、保守を自任する人々によって、共産主義が如何に現実離れしていたかを強調する論説に出くわすのであるが、実にくだらないことだ。より問われるべきは、ソ連倒壊を予言したとか、この手の与太話ではなく、何故このような体制が実に七十年以上もの間存続できたのかということにあろう。これこそが大問題なのである。そうした現実離れした考え方や圧制、暴政を強調すればするほどに、何故この様な体制が持続できたのかという問が大きな意味を持ち、かつそれに答えるのを甚だ困難にしている。



オルテガ「国家は一つの事物ではなく、運動である」と言った。「国家はすべての運動がそうであるように、起点と目標をもっている」。ところが、目標を見失えば、起点への信頼も当然薄れてしまう。ただ、現在に至る無数の分岐点のみが、ただ時間のみにおいて付加逆な流れに拡がって行く。国家の統一性は所与の統一を絶えず超克するという目標に掛かっている。仮初にも「より以上のものへと向かうこの衝動が衰退すれば、国家は自動的に死滅してしまうのであり、物理的に基礎が固められていたかに見える既存の統一性――人種、言語、自然の境界による統一性――ももはやなんの役にも立たない。つまり国家は分裂し、分散し、アトム化してしまうのである」。今日における道州制などの分権論などがそれの良い例であろう。進歩なき“現在”において歴史は常に退歩の可能性を秘めている。中欧の都プラハが東欧の霧へと消えた」(ミラン・クンデラ)ように、歴史上退歩は枚挙無く繰り返されて来たのである。我々が生きる時代はそれが退歩であるかさえ、その時点では明らかではない。だが、一寸先が分からないからこそ生きることは楽しいのであり、同時に不安でもあるのだろう。


●モラルなき知識


このような時代において、ある種の情熱が溢れた理念(範型)の時代から、歴史学が冷めた実証主義へと還って行くことは必然であろう。たとえそれは「獣が残した毛の痕跡をたどり、けもの道を見つける狩人」(カルロ・ギンズブルグ)のようなささやかなものであったとしても、それは我々に新しい視座を提供してくれるだろう。昨今であれば、井上寿一先生が『日中戦争下の日本』(講談社選書メチエ)で、従来大きな意味を与えられて来なかった史料を渉猟して、日中戦争下の民衆の姿を鮮やかに描き出してみたと思えば、逆にランケ以来の王道とも言うべき政治、外交史において、小林道彦先生が『桂太郎』(ミネルヴァ日本評伝選)で、「ニコポン宰相」と蔑まれて来た従来の桂太郎を大きく変えるような、斬新な桂像を描き出している(――遺憾ながら、ウィキペディアの「桂太郎」の項目は、従来然とした実に古臭いものである)。歴史学においては細部に亘る研究が、既存の実証主義という大きな枠組みに寄与しえるのである。一方、社会学は最早学問として立ち直れないのではないだろうか。連譜字社会学(「××社会学」のような)の氾濫からはじまって、今や無数の個別的事例研究に過ぎないものが、あたかも一つの学問体系の如く振舞っている。ここでは、もはや大きな枠組みとしての社会学は、ほとんど顧みられていない。何故なら、モデル(規範)なき時代にモデル(類型)を求めることは、端的に言ってアナクロニズムである。現に東大の情報学環の人々は社会学者を自称してはいるが、やっていることと言ったら、その多くは哲学の真似事に過ぎない。京大の大澤真幸氏もその著作にはなお見るべき点があるとはいえ、自我論やら国家論やらと、社会学とは随分縁遠いものである。ポスト・コロニアルなどに至っては所詮転倒した歴史哲学に過ぎまい。



思うに、彼らやポスト・モダンの思想家というのは、我らの時代のシニク(犬儒派)だったのではあるまいか。シニクは「何も創造しなかったし、何も成しはしなかった。彼らの役割は破壊であった。というよりも破壊の試みであったというべきであろう。なぜならば、その目的さえも達成しえなかったからである。文明の寄食者である犬儒主義者は、文明はけっしてなくならないだろうという確信があればこそ、文明を否定することによって生きているのだ」(オルテガ)。彼らは隠された権力を暴き出し、国家や共同体は想像の産物に過ぎず、伝統は捏造されたものであり、自我や個人さえも懐疑の眼差しを向ける。しかし、現実に我らは我らとして(――或る程度自己同一性を維持した存在として)生きているし、権力は厳に存在し、国家とて健在である。某国などに至っては、自国のビルが二棟ほど倒された腹いせに、二つばかし国を滅ぼすほどに活発だ。なるほど確かに、彼らの思想は彼らが自称する通り、そうした知識(――それは事実や情報ではなくて“判断”である)に「反省」を促しはする。だが、それでは、彼ら自身は一体どうなのか。彼らが内省的であると言えるのか、我輩は大変疑問に思う。何事も起点と目的を必要とする。さすれば彼らの思索的運動は、同じところをただ延々と回っているだけに過ぎないのではないか。


●モラルなき信仰


信仰の問題を語ることは難しい。それは往々にして「党派(宗派)」の問題になりがちであり、人間というものは、自分が本当に大切に思っていることに関しては、中々寛容になれないものである。この種の党派対立そのものをなくしてしまうことは難しい。かつての全体主義者がそうしたように、異なる党派を全て潰してしまって、強制的に一個のものに統合してしまえば、確かに党派の問題はなくなるかもしれない。しかし、それでは歴史的に漸次獲得されてきた自由を放棄せよと言うのに等しい。個人の自由を考慮せぬことで、公的な自由を確保するというわけである。しかしながら、自由の下での政治とは、純粋な意味での統合ではありえない。統合の原理には常に排除が付き纏うからである。したがって、統合の原理を既存の如何なる事実、即ち人種や民族、文化、宗教、或は自然的境界に求めることは誤りである。純粋であり、同質的なものであるそれらの要素は、たちまち分裂の要素に変わるであろう。起源は政治的統合の原理足りえない。統合の原理は常に目標にこそ担われてきたのである。こうした「政治」の漸進性(――絶えず、前へ前へと突き進む意志)において、同じく統合的、集合的な性格を持つ宗教(教会)と区別しうる。



宗教とは単純化すれば「生と死」に関する教説のことである。意志なく生まれ、否応なく死なねばならぬ人間にとって、「生‐死」は一繋がりの連関であり、両者はまったくの不可分の関係でしかありえない。政治の流れが頭上を飛ぶ無数の矢の如きものであるとするならば、宗教における流れは川の如きものである。宗教はこの流れの先にある「死」を意味づけることで、遡って「生」の意味を保証する。だからこそ、宗教的「生」において、「死」なくして「生」足りえず、逆もまた然りである。ところが、現代人は過剰なまでに死を恐れる。そうであるからこそ逆説的に、「生」の意味もまた希薄化していく。“死の自由”を失ったがために、生はたとい自由であっても、何のための自由なのかを見失ってしまった。当然の帰結であろう。生そのものに目的性や完結性などありはしない。だからこそ、前世紀において実存主義は颯爽と現れ、そして、完膚なきまでに敗北したのである。今日に至っては自由のための自由といった奇妙なことすらもしばしば起こる。政教分離とは、元来の言葉「The separation of church and state」が意味する通り、「教会」と「国家」を分離するものであったが、世俗的な自由が宗教的な自由に代わることは、ついに出来なかったのである。世俗的原理は諸個人に「個人の自由」を与えたが、人々の信仰から全体性を失わせた。「個」という特殊性が自由によってあらわされているのならば、それは「世界」の普遍性を剥奪した結果に過ぎない。自由の獲得によって、人々は世界との繋がりを断ち切ってしまったのである。今や人々は外在的に取り扱うこと(――世人はこれを“批評”だとか、“批判”などと称している)しか出来ず、無能な彼等は何の内在的な主張も持たず、また何を創造すべきかも知らない。


●モラルなき道徳

問題は今やヨーロッパにモラルが存在しないということである。それは、大衆人が新しく登場したモラルを尊重し、旧来のモラルを軽視しているというのではなく、大衆人の生の中心的な願望がいかなるモラルにも束縛されずに生きることにあるということなのである。諸君は若者たちが「新しいモラル」を口にする時はそのいかなる言葉も絶対に信じてはならない。わたしは、今日このヨーロッパ大陸のいずこにも、一つのモラルの外観を示している新しいエトスをもった集団は存在しないと断言する。人々が「新しい」モラルを口にする時、それは一つの不道徳行為を犯しているのに他ならないのであり、彼らは、密輸入のための最も容易な方法を探しているのである。


――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)

オルテガは、反動の仮面を被った大衆人(ファシズム)と、革命の仮面を被った大衆人(サンディカリズム)との対立に隠れていたものを、その破局以前に喝破していた。彼等は断片に過ぎないのである。彼らのモラルはただ前時代の否定を意味するに過ぎず、それは19世紀の自由主義が獲得したものを自ら投げ出し、退歩せんとする否定的意志の発露であった。ニヒリズムは全てに対する否定である以上は、思想足りえず、それは単なる状況と化す。決断しないということすら決断したと看做せるように、何ら規範を有していないことも二次的な規範性を有せざるをえない。ここに付け入ったのが、近代の機械的組織である。アウシュヴィッツという“工場”は、機械的な男ルドルフ・ヘスが操縦し、計算機的な男アイヒマンがそこに軌道を敷いた。彼等はユダヤ人を“殺害”したのではない。彼等はユダヤ人を“処理”する工場をただ“管理”していただけなのである。少なくとも「生死」に関するものは、すべて宗教的なものであり、そうした裏づけになしに「生死」の倫理を保つことは出来ない。ナチスという世俗的擬似宗教は、期せずしてそれを証明したように思われる。しかし、「生」における永続性と完結性とを、同時に実現しようとする無謀な試み(――「宗教」とはそれを可能だと思わせるドグマである)は、今後も続けられるだろう。



人間は神になれないし、その代わりも勤まらない。神性を帯びた独裁者も、最後には死すべきものとして終わる。では、我々は機械になることは出来るか。ある功利主義者は「神は必要か」などという文章をさらっと書いてしまった。かのブログの多くの読者は、それを重要なことと看做さなかったようである。しかし、ルソーのような支離滅裂なことをのたまった全体主義者(乃至は個人主義者)よりも、功利主義者の「陰鬱な科学」(カーライル)の方が、我輩には脅威に感じられるし、何より功利主義に対する有効な反駁が浮かばない。だからこそ、大変に悩ましいのだが、機能に対して原理は“留保”させるという点でなお擁護しうると考えている。しかし、それでは原理そのものはまったくの無意味であり、それすらも機能として収斂してしまうことを否定し切れない。つまり、「原理」擁護のはずが、それをその「効用」で把握する以上、功利主義に嵌り込んでしまう。だが、それでも、なお、やはり、功利主義なるものを「倫理」と呼ぶことには、非常に抵抗を感じる。それは代用品ではあっても、純正品などでは断じてない。それは生きている人間に対してしか用いることが出来ない。なるほど、確かに我らは機械のように振舞うことができるであろう。しかしながら、我々は機械そのものになることができない。我々は機械のように振舞おうとすればするほど、否、機械化され、その振る舞いが機械らしくなればなるほど、その乖離は我々を苦しめるであろう。何故ならば、それでもなお、我らは「人間」以外の何ものでもないからだ。しかし、何よりも吐露すべきは、我らの孤独である。我らの背後には何も存在せず、我らの隣には生ける死者が居ないのだ。世界の広さを知ったというのに、我々はみな独りぼっちになってしまった。