国家とその擁護のための予備的諸考察(1)

●思想と空間


そもそも「思想」とは一体何であろうか。我々がもし懐疑主義を取るのであれば、思想とは何であるかについて、まず考え始めなければならないだろう。我々はよく思想に関して、見取り図の様にリストを作成してみたり、対立軸を設けて分類してみたり、或は『思想地図』とか、『批評空間』といったような空間的な概念を以って把握しようと試みる。なるほど、確かに西洋思想史だけでなく東洋の諸思想においても存在論は重要な位置を占めてきた。しかしながら、それでは宇宙以前に何かしらの空間を認めると言うに等しい(――つまり、生成それ自体が、認識に先行していなければならない)。我々はそこに当て嵌めたり、抜き出したりするだけというわけである。今日の懐疑主義者は、常識、国家、自我、伝統、歴史とあらゆるものを懐疑しているかのように見えるが、何の事はない、彼等は自らを外に置くか、ただ単に外在するものを斥けているのに過ぎない。彼等は自らの背中を支えているものに頬かぶりを決め込むか、自らの足下に無自覚であるかのどちらかでしかありえない。思索が運動(操作)である以上は、起点と目標が必要だからである。そして、それ故にこそ、あらゆる概念や原理は、仮定の上ですら背反する要素を孕まざるをえないのだ。



思想は現在から未来を語らなければならない。ここでいう未来とは時間的志向性のことではなく、既存のものを内包し、超克して行こうとする運動体的な意志のことである。思索とは精神と思想(――それは“考えられたこと”である)との間で繰り交わされる運動であり、それはある特殊な地点から普遍的な高みへと上って行くことだ。なるほど、我々は概念が語る事物そのものについて何も知りえない。我々の知識の本質は事物ではなく連関(関係と運動)であり、法則(神の見えざる意志と遍く理性)ではなく予期(仮定と確率)である。しかしながら、事物の実在性が斥けられたからと言って、その存在が否定されたとは言えない。外在するものはただそこに存在している(――つまり、認識者にとって、生成それ自体が存在していることになる)。我々は我々自身の中に内在しているのではない。我々は自身すら我々でないものに投げ掛けられることによって現されるのである。今日、エゴイズムが「表現の自由」なり、何なり、「自由主義」の仮面を被って闊歩しているのであるが、そもそも“自我の覚醒”とは、“観る自己”であると同時に、“観られる自己”への自覚であったはずだ。主体的な存在としては観る自分であり、客体的な存在としては観られる自分なのである。両者はまったく不可分の関係であり、言うなれば、それは自らをも対象化する思想なのである。我々は異なるものとの間を通して、普遍的なものへ運動する。思索者は特殊な私から、普遍的な私を目指す。そういう意味において、エゴイズムは思索の停滞以外の何物でもない。生きていく事とは、己以外に己を見出すことであり、純粋なエゴイストはついに己を知りえない。「私」という存在は遍在する。意識はそれを束ねる紐の如きものに過ぎない。


●「存在」と「存在すること」


存在は「もの」に、実存とは「存在すること」に向けられている。我々が精神(――思索が運動であるために、それは如何なる意味においても静止していると仮定されるべきである)を起点にしてものを考えるように、「存在すること」に対して「存在そのもの」は先行している。我々が「物事」を語るというのは、実際には事実そのものではなくて、事実について解釈を講じているのである。存在とは驚異的なものであると同時に、まったく不条理なものでもある。それはいつも我々に先んじているのにも関わらず、我々は平行することも、追い抜くことも出来ない。だからこそ、カントは「ものはただそこに在る」のだと、哲学から形而上学を放逐してしまった。アリストテレスの時代からハイデッガーに至るまで、一次的な形而上学が成立しえたことはただの一度もない。我々が形而上学だとか、存在論などと称しているものは、全て実存か、二次的な形而上学に過ぎないのである。一次的な形而上学が不可能であるからこそ、逆説的に我々は神学を欲するのであり、哲学に神学紛いの要素が混入する。「知らんがために、わたくしは信ずる」という、今日の我々からすれば転倒しているかのように見えるアンセルムスの信仰告白は、理性はおろか信仰そのものの不可能性も示している(――アンセルムスは神が存在することを証明するのではなく、神が存在しないという命題の否定を証明した)。理性を優先させたカントにせよ、信仰を優先させたアンセルムスにせよ、一次的な存在が先行せざるをえないという点で何ら相違ないからだ。



今日の科学はこの種の一次的、二次的な問題に関心をほとんど持たない。科学は事実の体系を持たないし、それは方法であって何がしかの中身を擁するわけではない。実のところそれはあらゆる学問の中で最も多くの仮定を持っている。一般に「法則」として理解されている知識というのは、この仮定の体系なのである。科学者とその他の質問者が対立するのは、答えの中身ではなく、この体系を有するか、否かの問題に過ぎない。科学というのは“知識のホムンクルス”なのである。“仮定のフラスコ”なしでは生きていけないのだ。たとえば、我々は未だ「進化」という現象そのものを目撃していない。それでは何故この進化説が多くの支持を集めるか。それは生物の多様性や変遷をよく説明しうる「思想」だからである。同様に我々は今や地球が丸いということを自明の事実として見ている。しかし、我々が現実に見ることが出来るのは、たとえ宇宙からの写真であれ動画であっても、それは“丸い”ではなくて“円い”地球である。地上にあっては円ですらなく、ただ凹凸のある平面に過ぎない。要するに科学とは「眼」ではないのである。それは我々に遠くを見たり、近くを見たりすることができる「眼鏡」を与えてくれる学問なのである。したがって、それが示すのは事実ではありえず、予期の可能性に過ぎない。だからこそ、万物の根源を究めんとするかのように見えるこの学問は、実際のところ二次的な理論研究よりも、三次(もの‐こと‐こと)的な事柄の探求に熱心なのである。道具や技術に近い性質を持つそれは、もとより補助的な意味合いが強い。つまるところ、それが究めんとするのは「もの」それ自体に関してではなくて、「もの」の見方それ自体を研ぎ澄まさんとしているのである。



元来、「知識」とは分別の事であった。知識を豊かだとか量的概念で捉える事はまさに知識がないといえる。知識とは質的な概念であり、それは有か無かのいずれでしかないからだ。諸君らの部屋の中にカバが居ないという命題は、ウィトゲンシュタインが言うように成り立たないかもしれない(――形而上学は“在ること”のみを対象としてきた)。しかし、我らの眼前にある馬と鹿自体の存在が担保されようがされまいが、感覚器官の伝えるところに従って、我々はそれが別の生き物である事を容易に認識出来るであろう。何かを区別する力は個々の概念を認識する力に先立つ。我々は実在性そのものに対しては証明する術を持っていないのであるから、それを懐疑する事は信ずる事と何ら変わらぬ、先行する信念のようなものに過ぎない。例えば、「我輩」という存在は単に想定し、予期されて現われる「姿」に過ぎない。その「姿」は「事物」そのものではありえないが、慣習的に束ねられ、認識しうる「運動体」ではある。しかし、我輩という存在の中心は常に空虚でしかありえない。我輩が見るのはその空虚な中心を廻る周縁部に過ぎない。だが、それがどうしたのというのだろう。そうした問はただ“問い掛ける”ものであって、“問い掛けられた”ものではありえない。何故なら、そうした問に答えは存在しないのだから。我々がまず検証せねばならないのは、命題に対する答えではなく、命題そのものの妥当性なのである。したがって、元より我々の理性や知性は積極的ではありえない。認識においては生成が先行するという「回帰性」(――我々が認識しているものは存在そのものと関係がない)、さらに個別の事物を慣習的に再構築することに対する反省という「再帰性」(――循環するもの、相互排除するものとして、区別から構成への飛躍)。つまり、理性の性質は創造的ではありえない。それは意志が創造したものを認識するに留まる。理性は創造されたものと捏造されたものの区別が出来ない(――すべては“在るもの”として認識される)。


●思想と時間


我々は如何なる意味でも静止している精神(――故に精神において「発展」などというものは存在しない)から発せられる思索や思想といった営為に、幾何学的な空間を持ち込んだり、時間の観念を持ち込もうとする。そうした試みは、持ち込もうとする概念や観念を足場に思索をすることを可能にはするが、思想そのものにそうした観念を合成しえたことはただの一度もない。たとえば、「歴史哲学」というものはヘーゲル以前に、すでにカントの「普遍史」(――それは世俗化した救済史である)にその端緒が見られるが、歴史に理性は貫徹されるなどというのは、あまりに無謀な想定であった。そもそもそうした考え方は、歴史に正しいものが存在すると考えるようなものである。歴史とは人の営みと意志を汲み取り受け継いで行くものなのであって、そこにロマンや正義、ましてや救済などありはしない。歴史は言うなれば横方向(――これはあくまで付加逆な時間の流れの意味のみであって、横の広がりがあるわけではない)に流れるものであって、何らかの階層を見出すことはできないのである。



哲学などの思想はもはやその時代的な使命を終えたのではないだろうか。と言うのも、カント、ヘーゲルに代表されるような近代西洋思想の根底にあるのは、“近代社会を如何に生きるか”という主題であったからだ。彼らの歴史哲学や普遍史への試みというのは、キリスト教的な救済史への対抗ないしその代替物であった。すでに前世紀初頭のオルテガですら、過ぎ去ったものとして「近代」を評価している。「近代文化への信仰は悲しくも淋しい信仰であった。明日もその全本質において今日と同じことであることを知ることであり、進歩というものは、すでに自分の足下にある一本道を永遠に歩み続けるということにのみあるのだということを知ることであった。こうした道は、むしろ、どこまでいっても出口のない永遠に続く牢獄のようなものである」。現在はもはや「近代」ではない。哲学は時代の先導者、未来の予言者たることが困難になってしまった。いや、そもそも時代を先導するものなどありはしなかった。神も、理性も、我々自身の歴史を導いてはくれない。しかし、オルテガの弁を再び借りれば、「今日われわれは、明日何が起こるか分からない時代に生きている。そして、そのことにわれわれはひそかな喜びを感じる。なぜならば、予測しえないということ、つねにあらゆる可能性に向かって開かれているということこそ、真正な生のあり方であり、生の真の頂点というか充実だからである」。まさに「夢もなければ、怖れもない」(イザベラ・デステ)。


●期待と諦念


我輩が、東浩紀氏や宮台真司氏、宇野常寛氏らによる批評に反発を覚えるのは、彼らが個々の作品を個々の作品において掘り下げていくのではなく、余人には理解し難い珍妙な理論を作り出し、そこから同時代の諸作品を選別した上で語り、それを批評などと称している事だ。東氏であれば先にフランス流の現代思想とやらがあり、宮台氏であれば「再帰的」だとか社会学的用語があり、宇野氏であれば「ゼロ年代」とかいう時代的なキーワードが常に先行している。受容する側の読者もまた、彼らの言説のキーワード的な部分ばかりを摂取し、彼らの具体的な思索の足跡を辿ろうとしない。こんなことが批評だとか、思索などと言えるのか。自分の頭で考えず、外在的な素材と戯れているだけではないか。「われ(かれ)の物語」でも、「われわれ(かれら)の物語」ですらなく、批評する個人の物語に諸作品を従属させるような行為に、堪え難い不快感を覚えるのである。彼らはホーリストではないが、同時に個人主義者でもありえない。この奇妙なキメラ達を前に強い反発を抱きながら、明確に表す言葉を持てない。或は、彼らに対して抱いているのは反発ではなくて、違和感というか戸惑いなのかもしれない。



以前書いたエントリに「ぼくがハルヒ決断主義にハマったのは、つまりぼくがいい加減な人間だからなんだろう?」というブックマーク・コメントが寄せられていた。勿論、我輩が言わんとしたのはそうではない。『涼宮ハルヒの憂鬱』やその主人公に共感を覚えることがいけないのではなく、それを外在的な「決断主義」という言葉で納得してしまうことに、異議を唱えているのである。思想などというものは別段高尚なものでも何でもないのだから、自分で考えたことにどうして優劣があろうか。共感であるならば、なおさら自己の問題として考えるべきであろう。肯うことも、否むことも、彼自身の意志であり、精神の問題なのだから。時として「物語」が読者たる我々を拒絶することがあるし、「読者」が「物語」を拒絶することも当然にあろう。



我々は不用意に「現代」なるものを語る。しかして一体、そもそも「現代」とは何であるのか。「現在」を貫く何がしかもの(――理論であれ、概念であれ、思想であれ、文化であれ、宗教であれ)を我々はなお想定しうるであろうか。歴史においてある種の特殊性が優越性と履き違えられ易いように、単なる性質に過ぎない問題が、理由や目的と看做されてしまう。それでは意識に先行する何かがあると言っているようなものである。しかも、そうした全体像は常に個人主義に、自由主義に、全く反するのである。だからこそ、今日悉く一切の物が断片と化し、消費する物は豊かになれど、生活は益々部分化されてしまう。それでも、我々が営みとして何かを語ろうとする事は、果たして可能なのだろうか。