渡辺淳一『愛の流刑地』

先月の『ダ・ヴィンチ』の「ヒットの予感」に
アイルケ』を発見。
ナベジュン大先生曰く、

男が感じるエロスの原点を描いたんです。男はね、きちっとした、それなりの躾を受けた女性が自分の愛で崩れていく過程に情をそそられる。男の伝統的なエロスは全世界共通で、雄というものは、そういうものだよ。


だそうである。
アイルケ』こと『愛の流刑地』について
詳しくない方のために、
はてなキーワードから引用すると、

日本経済新聞朝刊に連載されたの恋愛小説。


略称は「愛ルケ」。


小説家村尾菊治(55歳、以前は恋愛小説で鳴らしたが、今はしがないゴーストライター、妻と別居中で1人暮らし)とそのファンの入江冬香(36、7歳、人妻、ほっそりした体つきに、控えめな物腰)との恋愛を描く。朝から電車の中で広げて読むことをはばかられるような、セキララな性愛描写と、一貫性がなくつかみどころのない登場キャラクター、親父のセコさ、妄想炸裂具合が一部で評判を呼んでいる。


2006年度1月末をもって連載を終了した。書籍化と映画化の予定がある


とまあ、こう言うような作品だ。
著者のナベジュン先生こと渡辺淳一氏の最新作で、
97年のベストセラーで、映画やドラマにまでなった
あの『失楽園』の著者である。
ちなみに『アイルケ』は『失楽園』と
それほど大差の無い小説なので、
おそらく「ヒットの予感」は的中するだろう。*1


ナベジュン先生は33年10月24日生まれ、
御年72歳の元気なおじいちゃんだ。
知人のN女史は思春期の男の子を
下半身で動いていると評していたが、
その原動力が収まらないまま
大人になってしまったような
やんちゃな人がナベジュン先生である。
ちなみに医学部卒で医学博士号を持っているインテリだ。


顔つきのユルイ渡邉恒雄ナベツネ)氏のような風貌で、
ナベツネ氏が頭に血が上り過ぎて結晶化してるように、
ナベジュン先生は下半身に血が下がり過ぎているようだ。
前者は悪相の上、性格が頑固で我儘なので人気が無い。
後者は同じく頑固で我儘だが、
容貌がユルくて、どこか憎めないキャラをしている。
分かり易く言えば、ナベツネ氏がブルドッグ
ナベジュン先生はさしずめパグに似ている。
無論、前者の方が凶暴で強くて頑丈。
強いて言うなら、ナベツネ氏は妖怪じみていて、
ナベジュン先生はネズミ男と言った所か。
ちなみに生息地は文壇。
好物はホモ・サピエンスのXX染色体。


どうやら好奇心はそれなりに旺盛らしく、
新しいメディアであるブログを開いていて、
色々な意味で読者を楽しませており、
一部では小説よりも面白いと言う意見も聞く程だ。
事実は小説よりも奇なりを地で行っておられる。


さて、ナベジュン先生はどのような物を書いているのか。
これは到底一言では語り尽くせない。
如何に称すべきか悩むが、
とりあえずここは慎重に語るべきであろう。
さしあたって、知人のK氏の意見を拝借する。

ナベジュン先生は中年の星なんですよ、希望の。
企業戦士達の疲れきった魂の慰撫するものなんです。
憐れな魂を慰めてあげてるわけですね。


と言うような趣旨の発言を
K氏はなさっていたが、
さしずめ中年諸氏の巫覡*2と言った所か。


ナベジュン先生と先生の著作の売れ行きは、
その背景が実に興味深く、
観察の対象として実に面白い。
主たる読者の中年層―団塊以下の世代―であるが
若い世代には意外かもしれないが、
彼らはむしろ「純愛」の世代なのである。
「純愛」の世代であったからこそ、
冬のソナタ』に代表される一連の韓流ブーム
が生じたのである。

女を抱き締めて、キスして、
それで終わるなんてウソだよな。
男は女を脱がせたいんだ。
そこで脱がさない訳が無い。


これはとある方の『冬ソナ』の感想だ。
名前をあげるのはオソロシイので伏せておく。
根も葉もない発言だが、
90年代のブルセラブームや、
女子高生の援助交際なる売春の社会問題化、
ハリウッド映画や日本の映画、ドラマの
セックスシーンの規制の緩和状態を見るに、
あながち見当外れの意見ではないように思われる。


先日、恋愛は思想である、
と某所にて発言したところ、
若い女の子にお叱りを受けてしまった。
ついでに幸福な家庭や結婚も無い、
結婚直後に始まるのは主導権争いだよ、
と諭すように発言したら、
余計に怒られてしまった。


プリプリ怒りながら彼女は、
「恋愛は(主導権争いとか)そういうのじゃないんです!」
と言い、あまつさえ、
「貴方は人を愛した事が無いのですか?」
とまで言われてしまった。
まるで小生が残酷な冷血漢のようだ。
酷い言われ様である。
血が通い、情を持った同じ人間なのに。


閑話休題(あだしごとはさておき)。
恋愛の一形態、「純愛」には何が必要か。
思うにそれは理想であろう。
恋人達が理想を追い求める姿が純粋なのだ。
だが、これは同時に胡散臭い。
それ故の先の『冬ソナ』の感想である。


性愛や色、情欲をオブラートで包み、
なおかつ性欲を満たす代わりに
恋人同士が理想を追求し
一体感を覚える事で恍惚感をもたらす。
これが「純愛」ひいては「恋愛」
と呼ばれる思想の骨子であろう。


評論家呉智英の評論に
「愛の神話」*3と言う小論がある。
「愛、この12世紀の発明」
というC・セニョーボスの言葉を孫引きして、
愛の神話を解体を企てた中々面白い小論だ。


参照元を読んでいないので詳細は知らないが、
おそらく12世紀ルネサンスの産物であろう。
中世のドイツにはミンネザングという
文学も隆盛を極めていた。
ミンネとは騎士が身分の高い女へ抱く、
“達成されない”愛の事だ。
今日的に言うと「愛」と言うより、
むしろ「献身」と言う事になろう。


これは憶測なのだが、
今日の恋愛の大本はおそらく18,19世紀の
啓蒙と理性の時代に形作られた物であろう。
ドイツ観念論者のフィヒテ
「尊敬ということがなければ、真の恋愛は成立しない。」
と言う言葉にも表れているように、
恋愛とは平等の思想が無ければ成り立たない概念なのである。
さらに、恋愛には近代的自我の確立が欠かせず、
その確立した「近代的個人」が平等でなければならないのだ。


近代的自我とはデカルト以降の自我観で、
同時的、単一的、連続的な自我の事だ。
昨日の自分と今日の自分や
現実の自分と夢の自分が違うと言った事は、
別段、中世以前の精神には珍しい事ではなかった。
平安時代の他人が思うから
自分の夢に現れるんだと言った夢の解釈など、
現代人から見れば妄想じみた物が跋扈していたのである。
恋愛の関係性には当事者の持続性が不可欠なので、
近代的自我は恋愛の必要条件と言える。
また、この時間的空間的に単一的な自我の思想が、
おそらく個性と言う思想の源流と見て間違い無いだろう。


さて、確立された個人だけでなく、
恋愛には何故、平等の思想は必要か。
それは先に述べたように、
純愛とはその一体感にその法悦があるのであり、
それには確立された個と個の間に
優劣や差別が無い方が都合が良いのである。
こうした背景から恋愛と言う思想は、
全体主義に対して親和性が高い。


こうして概観してみると、
「恋愛」というものが実に歴史的な思想であり、
しかも、我々の思う所の「恋愛」に至っては、
極めて近年(せいぜい18世紀)の概念、思想であり、
近代思想の諸産物の一つに過ぎない事が分かる。
「純愛」思想とは「恋愛」を純粋化しただけの事であり、
「恋愛」と言う思想の特殊な形態な訳ではない。
元より「恋愛」自体が特殊なのである。


さて、理想と言う思想が崩壊したのが現代社会、
ポスト・モダンと呼ばれる時代精神なのだが、
その社会たるや中世にそっくりである。
いみじくも、とある哲学者は現代を
「神無き中世」と評した。
こうした社会では中世の倫理性とも、
近代の理想からも逸脱した社会なので、
人々は欲望に走り、おおむね己の願望に正直だ。


知人が昨今の少女漫画を見て、
セックスシーンの無いマンガが無い、
と慨嘆していたが、
それも仕方が無いように思われる。
恋愛の思想と言う残滓に乗っかって、
男女の色や情を描くから、
結局至る所はそこしか無いのだ。
理想という足枷が無くなると、
悲しむべき事にやる事が無くなるのである。


社会は項をめくるようには変化しないので、
どのような社会も時代も、
前時代の残滓を保っている。
それが時として大きな潮流として、
一時期に伏流水の如く現れる事がある。
それが「冬ソナ」であり、
「純愛」ブームの深層なのだろう。


中年層は自分がかつて青春時代を送った近代に、
アナクロニズム的な憧憬を抱き続け、
近代の処女性を失っていない韓国に
その代替物を求めたのである。
一方若い世代であるが、
これはイマイチ不可解である。
中年層のそれが復古思想的性格を有しているの対して、
若年層には元よりそういった思想は崩壊していた訳で、
元よりそう言った物に馴染みが無い。
これは一種の反動思想と見るべきではないだろうか。


センチメントの季節』に描かれた少女達や
自分の価値を知るためにデリヘル嬢になった
中村うさぎ女史のような
鋭敏な感覚を持った人々達を見ていると、
ある種の倦怠感、疲労感、無力感が
支配的であるように思われる。
センチメントの季節』の著者
榎本ナリコがあとがきにおいて、
これで勃つのは良いけど抜かないで、
と言った趣旨の発言をしていたが、
これは恋愛思想の残滓と見るべきであろう。
つまり、彼女は情欲以外の何かを
諦め切れていないのだ。
嘆かわしい事だが、
男は抜こうと思えば何を見ても抜けるだろう。


男とは度し難い程に情けない生き物だが、
女とは憐れみを覚えるほどに悲しい存在だ。
さだまさしのヒット曲に「関白宣言」という歌がある。
妻への要望が延々綴られるのだが、
最後は俺より先に死ぬな、
俺より一日でも長く生きて看取ってくれと言う。
続編の「関白失脚」も相当情けない歌だが、
この歌ほど男の情けなさを歌っているものはないだろう。
男は孤独な生き物だが、孤独に耐えられない生き物でもある。
ついでに独りだと堕落しやすい。
女の方が孤独に強く、
独り逞しく生きていけるように思えるのだが、
「負け犬」なる単語は独身の女を指すらしい。
これは男への媚以外の何物でもない、と小生は思う。


現代の民衆は知識人が思う以上に
知的な人々である。
2ch、ブログ、サイト、ネットレビュアー、
彼らは忌憚無く述べるが故に、
時としてプロ以上の真実を抉り出す。
そうした民度知的水準)が高い時代にあって、
情念のみの恋愛では恋人達が荒んでしまうのである。
誰しもが個を確立させ自分の事しか考えなくなると、
人と人の間の溝が深くなって、
社会がギクシャクするようになる。
恋愛とて同じ事である。
しかも、なまじ知性を備えている故に、
観念的な方向に持って行きたがる。
その果てが『セカチュー』だったりするのだから、
これはこれで『アイルケ』と同じく陳腐で喜劇的な側面がある。


理想などと言った物が崩れ去った今、
それは廃墟に上に成り立っているのであり、
純愛ブームもおそらくは長続きしないであろう。
そして、理想と言う全体が崩壊している事から、
彼女彼らが求めているのは、
理想の追求としての「純愛」ではなく、
自分だけを見て欲しいと言った個、部分の尊重、
つまりはエゴイズムの側面を持っているの過ぎない。
一見、美しく綺麗な純愛物の裏には、
そうした憐れむべき獣性が秘められている。


さて、若年層の「純愛ブーム」も不可解であったが、
もっと不可解なアポリア
それがナベジュン大先生である。
彼は明らかに近代に生きた人物であり、
純愛に理解を示しても良いものであるが、
ご存知の通り、性交無き純愛を否定なさっている。
これはどうしたものか。
実はナベジュン先生は
近代の不適格者だったのではないだろうか。
先生は不適格であったがために、
「近代」終焉の淘汰の波に浚われずにすんだのでないか。
しかし、そうすると読者は何を
ナベジュン大先生に見出しているのだろう。
現代人の知性にとってはアナクロニズム
近代人にとっては落伍者であるこの人物に。
結局の所、良く分からない。
 

*1:失楽園』は300万部のベストセラー

*2:巫覡「ふげき」。巫は女、覡は男のシャーマンの意

*3:『バカにつける薬』双葉文庫 所収