「昭和」ブーム

先日、知人のブログで、
ALWAYS 三丁目の夕日』(小学館文庫)という
{以下『ALWAYS』と略}
映画のノベライズが触れられていた。
氏によると(氏は書店員)、
氏がたまたまレジに立っていたときに、
『ALWAYS』が短い時間に立て続けに2冊売れ、
その本を買ったのは2人とも、
高校生(男の子と女の子)だったそうだ。
そして、このような懐旧的な本を
高校生が買っていく事に
高校生もノルタルジーを感じるのだろうかと、
氏は驚きを持たれたようだ。


昨今、「昭和」がブームになっているらしい。
先日のNHKでも、
「昭和ブーム」の特集が組まれていた。
件の『ALWAYS』以外に、
ほぼ同時代を舞台にした『カーテン・コール』という
映画館の幕間芸人を主人公にした映画が紹介された。


これらの舞台となっている時代に少年時代を過ごした人々、
つまりは、団塊世代だが、
彼らの懐旧によるものと、
そして、若い世代がこれらの古い文化に
新鮮さを感じていることが、
このブームの裏側にあるらしい。
映画だけでなく、
茶店や駄菓子屋、果ては居酒屋まで、
昭和30,40年代を再現したものが現れている。
また、書籍の分野では、
昭和を振り返るものが売れているそうだ。


書籍の分野では、確かに懐旧に属する人々、
つまりは実際に経験した50代以降の人々が、
ブームの主軸となっていると考えられるが、
一方で、映画などのエンターテイメントの部分では、
実は若い世代が中心なのではないかと、私は考えている。
若い世代の支持の背景には、
確かに自分が知らない時代に対する、
純粋な好奇心からくる新鮮さがあるのは確かだろう。
しかし、それだけではない。
彼らもまたノスタルジーを感じているのだ。
これらは、懐かしさゆえではなく、
ある種の羨望、憧憬に近いものである。
私はこれを仮に「未体験のノスタルジー」と呼びたい。
つまり、古い世代のノスタルジーが、
かつて“あった”ものに向けられているのに対して、
若い世代のノスタルジーは、
喪失された、今はもう“ない”ものに対して
向けられているのである。


この心性は実際に体験した者達から見れば、
かなり異様である。
彼らは実際には、未体験であるばかりか、
そこへ戻ることができないことも知っている。
彼らと「昭和」という時代の関係は、
パラドキシカルであり、
また悲劇的ですらある。
にもかかわらず、彼らの憧憬は強い。
これはどうしてか?
これは彼らの生まれた時代状況に原因があるのではないか。
80年代以降の生まれというのは、
近代(Modern Age)を知らないのである。
彼らが物心ついた90年代というのは、
日本の近代が終焉し、
ポスト・モダンに入った時期であった。


ちょうど、明治から昭和の御世が近代とも言える。
さて、いきなり「ポスト・モダン」という言葉を掲げても、
概念説明をしなければ、用を成さない。
さて、「ポスト・モダン」とは何なのか?
ある人は、それを「不安の時代」と呼び、
別の人は、「退屈の時代」と呼び、
またある人は、「自由の時代」と呼ぶ。
つまり、この時代に生まれた人々は、
自由なかわりに、退屈と不安に対し
絶えず孤独な戦いを強いられるのである。


一方で、近代という時代は、
人々の間に理想があり、
価値観が共有可能で、
多くの人は帰順するものがあった。
こういった社会においては、
おおよそ自由は無い。
個人は社会から絶えず圧迫を受け続ける。
80年代の学級崩壊の様相は、
圧迫に耐え切れなくなった者達の悲鳴である。


一方で、ポスト・モダンは確かに自由である反面、
常に自ら選択し、決定しなければならない。
価値観は多様でまとまりなく、
社会は選択とリスクに満ちている。
そして、あらゆる価値観から解放された結果、
自分が帰順するルーツのようなものを一切持たない。
根っこが無い草は絶えず浮かび流される。
そのため、自己の存在に悩んだり、
自分がわからなくなったりする。
かつては、認識の範囲を広め、
世界を広くするための旅行が、
今では、自分を探すために行われる。


90年代以後の学級崩壊は、
解放からくる放縦とアナーキー
あるいは自我(人格)形成の失敗からきている。
その様相は前代より遥かに悲惨である。
ポスト・モダンの子供達は、
帰順するものが無く、
価値観の基準も無ければ、
一切の方向性を喪失してしまっている。
あらゆるものから解放された結果、
あらゆるものに自ら立ち向かわなければならなくなった。


そういった者達にとって、
「昭和」という時代には、
単線的ではあるが、方向性があり、
生活環境の変化という具体的な「進歩」があり、
共通の価値観という「理想」が存在しているように見える。
彼らの郷愁は、彼らが生まれたときに
もうすでに喪失されてしまったものに向けられている。
この事は情趣的であると同時に哀しいものだ。
なぜなら、彼らがそれを経験することは無いのだから。
永遠に処女性を失わないノスタルジーは、
空想に留まり続けるしかないのだから。