『ゴジラ FINAL WARS』

我輩は映画は好きだが、
もっぱらTVとビデオでばかり見ている。
映画館に積極的に通う
気力も無いし、財力も無い。
そういうわけで、
幼少の頃に見ていた『ゴジラ』が
シリーズ最終を迎えた事も最近知った。
正確に言えば、地上波でTV放映されて気が付いた。
これで終りだという事を。


後日、アマゾンやその他のレビューを眺めていると、
どうもこの『ゴジラ』最終章は評判が芳しくなかったらしい。
それで記憶にも残らなかったし、
印象も薄かったのだろう。
どうやら感動のフィナーレを迎えられなかったようだ。
それはこの怪獣が持っていた
テーマ性の喪失と無関係ではあるまい。
信仰を失ってしまえば、
仏像はただの文化財となってしまうように、
ゴジラもまたその畏怖を失う事で、
もろもろのヒーロー群像に埋もれてしまった。
そういうことなのだろう。


しかし、それは必然だったのかもしれない。
良薬も程度を過ぎれば毒となる。
真摯さ、高貴さ、孤高の強さ、
それらは人間の精神に健全さを与えるものだ。
だが、強力な薬が病魔だけではなく、
健全な肉体をも蝕むように、
それは劇薬なのだ。
それを多くの体に受け付けるようにするには、
多くの毒抜きが必要であった。
一方、ゴジラの力は瞋恚の炎そのものなのだ。
近づけばその身を焼かれるだろう。
毒抜きを重ねる事で、
必然的に炎は小さくなり、
力は弱まっていかざるをえない。
この多くのファンにとって
不本意な結果に終わった最後のゴジラは、
必然的な運命であったのだ。
もっとも、ラディカルなファンに言わせれば、
第一作以外は全て駄作なのだそうだ。
シリーズ物ではないが、
数多くのリメイクが作られた『キングコング』もまた、
オリジナルを超える物は出なかったと言われる。


さて、具体的な評へ移ろう。
私は見初めて10分で、
すでに肩の力が抜けていた。
そういう内容だったのだ。
最初から最後まで。
内容のまとまりの無さは、
最後まで我慢強く見ていた人間を
失望させるにあまりあるだろうし、
出演していた俳優のマズイ演技は
誰の目にも明らかだった。
この少々いただけない映画を見終わって、
思わず脱力してしまったが、
見終わって数日立つと、
少し冷静に考えられるようになった。


あの作品はゴジラのあるいは、
日本特撮の死の邂逅、
走馬灯だったのではないかと、
考えるようになった。
先にまとまりが無いと書いたが、
それは主点がどこにあるのかが
分からないことに加えて、
ネタを詰め込みすぎたということもある。
私が気が付いただけでも、
X−MEN』などのアメコミ原作映画、
スターウォーズ』、
日本の戦隊物、
マトリックス』、
アメリカ版『GODZILLA』、
ゴジラ』シリーズの歴代怪獣、
などの影響(あるいはパクリ)が見受けられた。*1


こうして元ネタを見ると
70年代から最近に至るまで、
つまり古い意味での特撮から、
現代のCGの時代まで、
幅広く利用している事に気が付く。
そして、人間主体のシーンの際には、
CGを多用しているわりに、
怪獣のシーンでは、
昔ながらの着ぐるみ特撮を続けている。
古いチョイ役の旧作怪獣達は、
古い映像を利用したCGのようであったが、
ゴジラだと、時には強引なワイアー・アクションを用いてすら、
着ぐるみ特撮をやっている。


こう考えることは出来ないだろうか。
これはゴジラを撮ったのではなく、
日本の特撮のクロニクルを撮ったのではないかと。
死に瀕して走馬灯の思い出にひたるように、
もはや死を避けられない特撮の、
その全盛からそのついえる瞬間まで。
脳裏にこの映画を思い出した時、
嗚呼、僕はゴジラの死を、
特撮の死を目撃したのだ、
と思うようになった。
そう、これは死なのだ、美学無き、
一片の感傷すら含まれない死なのだ。
ただ、無残な死の映像の連なりなのである。
そう思うと、この感動とはおよそ無縁な映画にも、
私は涙を流す事が出来るのだった。

*1:生憎ビデオに録画していなかったので、曖昧な記憶を頼りにしなければならない。しかも、観たのは随分と前の事だ。その辺のミスはご容赦いただきたい。