『交響詩篇エウレカセブン』
今更だが、『エウレカ』についての断章。
どうも『ガンダム』の主要キャラと
かぶるように思えてくる。
我が妄想は下記の通り。
・デューイ=シャア
・ダイアン=ララァ
・タルホ=チェーンorベルトーチカ
・ドミニク=ハサウェイ
・アドロック=ジオン・ズム・ダイクン(シャアパパ)
正確に言えば、キャラがかぶると言うよりは、
立ち位置の問題だ。
それに本作は富野由悠季ほどの毒は無い(と思う)。
初期の『ガンダム』において顕著なのは、
登場するキャラたちが徹頭徹尾、
父親、母親、親である事を拒絶している。
この点が『エウレカ』と大きく異なる。
例えば、『Ζ』において、
カミーユ少年は母を亡くし、父を亡くす。
しかし、シャアもブライトもアムロも、
彼の父にはならない。
同じように『逆襲のシャア』における
シャアやアムロは
クェスの父親(役)である事を拒む。
ブライトの息子のハサウェイも
父との関係が険悪となってしまっている。
『逆襲のシャア』では、
シャアがララァに母性(母親)を
求めていた事が明らかになるが、
『エウレカ』におけるホランドは
母親を犠牲にして生まれ、
その事に傷ついた?デューイは、
父親を自ら殺す。
親の愛情を契機とする対立は、
聖書以来の構図とも言える。
主要キャラではないが、
チャールズとレイは、
『ガンダム』におけるランバ・ラル夫妻と
主人公の少年の成長を促進するものとして似ている。
(あの前後がお話として一番面白かったかも)
サーガ(神話)になると言う事は、
ある種の冗長性を避けられないのだが、
長編(シリーズ)化し、
煩雑化が避けられなかった『ガンダム』と比べると、
『エウレカ』はむしろまとまりが良いように思える。
レントンは終始少年であるし、
ホランドは大人になり、父になった。
そして、デューイは枯渇した愛情を求めて、
破滅へと駆け抜けていく。
ところで、『エヴァンゲリオン』とも似ているように思える。
特にスカブ・コーラル*1(コーラリアンだっけ?)は、
ゼーレの人類補完計画のドロドロスープに似ている。
人類補完計画……不完全な群体生物から
完全な単体生物へと人工進化させるだったかな?
(自己否定→全体肯定)
かなりイカレタ思想だけど、
そもそもタイトルからして『福音』だし、
90年代の時代精神を代表する
カルトアニメですな、『エヴァ』は。
親である事を拒絶する『ガンダム』(シリーズorサーガ)、
個(自己)である事すら拒絶してしまった『エヴァ』*2、
それを綺麗な形でまとめ、
そして超克しようとしているのが、
『エウレカ』なのではないかと、
なんとなく、それとなく、
もっともらしいようなふりをして、
考えてみた。
つまり、異端である少女、
エウレカをあるままに受けとめる少年レントン、
世界である少女、エウレカを少年に託し、
己は父となるホランド。
自己を否定(あるいは拒絶)した
全体(コーラリアン)と戦うデューイ。
自己否定の否定。
後半がだれてしまって、
(特に最終回前後及び最終回)
少々残念な作品になってしまったが、
それほど悪い作品ではない。
だれた部分を作り直すか、
50話を3,40話程度に圧縮した方が
良い作品になったと思う。
不可解なのは、後半だれていた割に、
最終回を端折って話運びをしていた事だ。
一時間も尺があったのに、
エピローグがほとんど無かった。
脚本や構成が前半部では良い仕事をしていただけに、
後半部のグダグダは非常に残念だ。