近代的自我と視点(人称)の問題

日本語の特徴に一人称の種類が多いということがある。
西洋語はおおむね一人称が
英語であれば「I」,
ドイツ語であれば「Ich」
という具合に統一されているのだが、
日本語だと、
私、僕、我輩、小生、朕、余、我・・・・・・
などと無数に存在している。
隣のチャイナですら、
「我」が単一の一人称としてある。


こうしたことから、
日本語文法にはそもそも人称代名詞が存在せず、
「わたし」や「あなた」といった言葉は
実際は形容語ないし指示代名詞として
機能しているのではないかと、
聖書学者の田川建三
『書物としての新約聖書』の中で述べている。


明治大正期に一人称小説、
いわゆる私小説が流行るのだが、
この明治期に輸入されてきた近代小説が
自我の確立に寄与したのではないだろうか。
近代小説は主に一人称と三人称で書かれたため、
視点のぶれに気をつかわなければならかった。
つまり、視点が統一性と継続性を持つようになるのである。
また、人称の使い分けによって、
主観と客観の分離が促進される一方で、
日本で一人称の小説に対してよく見られる、
作者と主人公の同一視は、
こういった事情からきているのでないだろうか。