断腸亭主人

永井荷風という人は
反時代、反社会的に生きながら、
その事に自覚的な人なので、
その文章は実のところ、「情」より「理」が勝っている。
「理」の世界から逃避して、
「情」の世界に埋没しなかった人、
それが「近代人」荷風なのだと思う。


この辺が欧化主義者とも、
他の伝統主義者や耽美派文人達と大きく異なる。
彼の目と筆はとても冷めている。
彼は前近代、つまり江戸を耽溺し、
その名残や残骸を求めた。
だが、彼は黒船によって覚まされた
前近代の眠りへと落ち入る事はなかった。
彼は反近代であっても、
反動的でも時代錯誤的でもなかったのである。


荷風の書いている内容は「情」であるが、
彼の書き方は「理」による。
荷風は小説家であり、評論家であり、詩人でもあった。
「情」が無ければ詩など詠む事は出来ないし、
「理」が無ければ何かを評する事など出来なかったであろう。
前近代(伝統)から近代への過渡期に生まれ、
近代に生きた荷風は、
「情」と「理」を兼ね備えた作家であった。


一見、日本的なる物に固執する
荷風より後代の三島由紀夫川端康成なども
書いた内容はともかく、
書き方はやはり「理」による。
彼らと荷風が違うのは、
荷風が「情」に溺れなかった事だ。
一見、三島らの方が「理」に見えるが、
実は荷風の方がかなり醒めている。
荷風と彼らの晩年の違いはここにあるのだろう。


今日では差別、偏見と罵られそうな文章を
荷風は書いている。
だが、「情」に溺れず、「理」に驕らない
荷風の文章はむしろ清々しく思える。
相対主義者の如き欺瞞や偽善は荷風には無い。
そして、彼らには無い視線の鋭さと温かみがある。


ところで、恥ずかしい事に、
山田風太郎をほとんど読んだ事が無い。
だが、風太郎からも荷風的な雰囲気を感じる。
時勢に棹差さず、だが、自身の生きる時代を自覚している
冷静沈着な諦観者の眼差しである。


ただ、この両者は「情」からも、「理」からも、
異端である事を免れ得ない。
ある種の劇物的な雰囲気を醸し出している。
荷風は鴎外や漱石と同席に評されないだろうし、
風太郎も司馬遼太郎江戸川乱歩ほどには愛好されないだろう。


風太郎の小説や随筆はもっと読んでおきたいのだが、
時間と労を惜しんで、機会を貧困にしてしまっている。
荷風もまだまだ読んでない物が多いので、
もっと読まねばなるまい。
未だに西洋的である事と日本的である事に
矛盾を感じ、葛藤を持つ人々が現れる以上、
彼らは細々とも読み継がれるだろう。