ドラマ化するアニメ

かつて、映画監督の押井守は、
CGの登場により、実写とアニメは
融合して区別できなくなるという持論を展開していた。
彼は映像表現として、
アニメとCGの融合、
レンズの概念をアニメに取り入れるなどの、
実写的要素をアニメに導入した人物である。


彼の作品を見ていると、
「実写」は「リアル(現実)」、
「アニメ」は「フィクション(虚構)」
の言い換えられるように思える。
彼の場合、実写的なアニメや、
「実写」と「アニメ」の融合と言うよりは、
「現実」と「虚構」が融合しているように思える。
つまり、「夢」と「うつつ」が
ごちゃごちゃになった、
不条理な世界が描かれているということだ。


そのせいか、彼の作品を見ていると、
時々、気分が悪くなる。
腹を切らずに、臓腑をかき乱し、
頭を割らずに、脳みそをかき回されるような、
あの不愉快な感覚。
『嘔吐』のロカンタンのような不安感。
私はこれを「夢酔い」とか、
「現実酔い」と呼んでいる。


私がもし重大な犯罪を犯したとき、
マスコミはきっと“ 現実 リアル ”と
“ヴァーチャル”ないし“フィクション”
の区別が出来ていないのだ!
などと絶叫することだろう。
一面において、私はそれを否定しない。
というのも、私には「現実」と「虚構」を区別し、
それを証明する事が出来ないからだ。
我々の知りうる全てはフィクション(仮定)である。


あらゆる哲学者が「倫理」を「論理」で
解き明かすことが出来なかったように、
実際には、“現実”と“虚構”を
明確に区別することが出来る人間などいない。
それは思い込みの為す所業である。
紛らわしいのだが、
私は「現実」と「虚構」が
区別できないと言っているわけではない。
私が言っているのは、
それが仮初のもので、
証明できる代物ではないという事だ。
証明出来ないものをすべて否定してしまえば、
「国家」も「民族」も、
果ては「自我」すら否定されてしまう。
私はそのような不毛な徹底はしない。


多くの人が勘違いしている言葉に
デカルトの「コギト エルゴ スム」という言葉がある。
あれは、我が思うゆえに我があるという事が重要なのではなく、
考える自己自体は疑い得ないという点が重要なのだ。
つまり、デカルト的懐疑とは、
私という最後の踏み場を残して、
あらゆる、しかし、自分以外の、
すべての事物に対して懐疑することである。
これこそが「近代的自我」の始まりであり、
つまるところ、「自我」とは、
自己の確信的思い込みなのである。


押井は極めてラディカルな例ではあるが、
しかし、実際、アニメと実写の垣根は
低くなっているように思われる。
(もっとも、これは交流と言った方がいいかもしれないが)
90年代に入ってから、
如何にもアニメの主題歌といった歌が
あまり使われなくなった。
特に『名探偵コナン』や
機動戦士ガンダムSEED』は、
主題歌にメジャーの新人を採用し、
アニメが売り出しとして利用されていた。


これはあくまで関連商品(CD)の分野ではあるが、
意識的に作品自体に反映しているものも現れ出した。
それが、フジテレビ系列の深夜アニメ枠、
ノイタミナ』である。
これは、あの、フジテレビとは思えない意欲的な試みで、
従来アニメを見ないと思われている
F1層向けの展開を図っていた。


以下、はてなダイアリーの「ノイタミナ」の説明を引用する。

【「ノイタミナ-NOITAMINA-」とは】


アニメが、いつのまにか身近なものではなくなっていませんか?
ジャパニメーション」、「アニメバブル」ともてはやされながらも、
アニメは、子供向けとコアな大人向けの二局化が進み、
一般の視聴者から遠い存在になりつつある。
そんな時代に、フジテレビが示すテレビアニメの新しい方向性、
それが「ノイタミナ NOITAMINA〜dramatic animations〜」。
従来のテレビアニメの常識をくつがえしたいという思いから
「ANIMATION」を逆さに読み「NOITAMINA」と名付けた。
ノイタミナNOITAMINA−」では
「まるで連ドラのようなアニメ」をコンセプトに、
1.誰もが楽しめるもの
2.来週が気になる展開
3.話題性が作れるもの
を毎回お送りする。


引用したコンセプトにもあるように、
明らかに「連ドラ」を意識した
製作が行われ、
主題歌や挿入歌では、
女性に人気があるスガシカオ
スピッツスネオヘアー
ジュディマリYUKI
などが用いられていた。


また、時間帯も、
深夜アニメとしては
比較的早い0030〜0130時の間頃に
放送されており、
時間帯的にもF1層、特に未婚のOLが
ターゲットであると思われる。


放送されたアニメの原作は少女漫画で、
ハチミツとクローバー
Paradise Kiss
獣王星
いずれも、若い女性に人気のある恋愛ものだ。
今週からは『ハチミツとクローバー』の第二期が始まる。


第3シーズンでは趣向を変えて、
怪〜ayakashi〜JAPANESE CLASSIC HORROR
という怪談ものを放送していた。
これは『タイガー&ドラゴン』と落語ブーム、
和装人気の高まり、京極夏彦の人気などの
さしずめ和流とでも言おうか、
それに乗っかったものだと思われる。


初回は「四谷怪談」と実にベタだったが、
なかなか面白かった。
天野喜孝に和を描かせたのが特に良かった。
これは女性をターゲットにしたというより、
大人向けのアニメという感じだ。
常々思うが、日本のファンタジー(非現代もの)や
時代劇はもはや実写よりも
アニメが向いているのではないか。
このアニメを見て、私はその考えを一層強くした。


日本の情緒は本来リアリズムに沿うものではなかった。
にもかかわらず、近代に現れた知識人達は
いたずらにリアリズムを賛美し、
その結果、芥川龍之介泉鏡花
といった偉大な才能は傍流に消え、
近年に至っても、江戸川乱歩山田風太郎といった、
作家が必ずしも真っ当とは言いがたい
評価を受ける結果になっている。


我が国の知識人達は世界に誇れるものを
何一つとして生み出さなかった。
そして、西洋人は、
知識人たちが「大衆」と蔑んだ人々の文化、
浮世絵、歌舞伎、春画
現代であれば、漫画やアニメなどの
オタク文化に美や価値を見出した。
現在の潮流とは、
大衆と乖離した知識人たちへの反流なのである。


かつて、ファンタジー小説やSF,
漫画が「子供」のための読み物であるという
ステレオタイプがあったように、
アニメもまたその例外ではなかった。
それが多くの先達の苦労によって、
そのステレオタイプが打破されたきた。
しかし、そのステレオタイプを意識し、
対抗する事もまた新たなステレオタイプとなる。


このドラマ化するアニメという運動は、
古いステレオタイプの打破であり、
また、新しいステレオタイプの創造の運動なのだ。
私見としては、その運動は、
現在の段階では、融合ではなく、交流の段階であり、
その結果、違和感を感じる事によって、
新たな方向性を得るのではないかと、
私は期待を込めて考えている。


結局のところ、あらゆる表現は、
技法であり手法に過ぎないと帰結されるのではないか。
我々は今まで表現技法に拘泥しすぎた。
私は純文学に生きる人々の禁欲さには、
ある種の高潔さを感じる。
だが、それは禁欲でしかない。
高貴さとはまた異なるのである。
政治家にとって高潔が無能の言い訳にしからないように。