乙一「愛すべき猿の日記」

出版されてから随分と時間が経ってしまいましたが、
パピルス』創刊号に掲載された、
乙一著「愛すべき猿の日記」のレビュー。
なお、かなりネタバレを含みますので、
未読の方は読まないほうがいいと思います。
所詮、素人書評、批評に過ぎませんので。
むしろ、先入観を与える分、有害かもしれません。


「愛すべき猿の日記」は、
いつもの作風と少し違います。
あるいはそう感じます。
それはどこからくるものなのか、
これがレビューの主題です。

作品としての面白さというよりも、
乙一先生がインタビューやあとがきで色んな思想、
というか考えをちょくちょく披露していますが、
その延長のように楽しみました。


これは、知人の意見なのですが、なるほどと思える点があります。
例えば、あとがきなどから類推できる作中の隠喩があります。
主人公がブックエンドを立たせるためだけに買った、
背表紙の格好いい本は、
ライトノベルとかの遠まわし的な比喩ではないでしょうか。
作中で出てくるのは、ハードカバーの本ですから、
ライトノベルとはもちろん違うのですが、
中身を読まずに外見、見た目だけで買うというのが、
ライトノベル(の一般的なイメージ)を連想させます。


この意見に加えて、
乙一先生がデビューから10年目になることを、
私などは考慮します。
つまり、今までの作品群を省察し、
自らの著作に影響を受ける人々……
つまり、読者のことを
より意識するようになったのではないか、と。
メッセージ性の強い作品になっているのは、
そのためではないでしょうか。
多少、説教じみて感じるのは、
良い意味で生き方を示しているからなのでしょう。
ただ、それがちょっと不器用で、青臭く感じてしまいます。


かつて、『小説トリッパー』の
押井守氏と冲方丁氏の対談上で、
乙一先生に言及する部分があり、
両氏は乙一先生を母性的と評されていました。
乙一先生の特徴は大きく二つだと思います。
一つは透明で淡々とした文体。
そして、もう一つが透明な目です。
優しい、見守る視線といってもいいかもしれません。
優しい、見守る視線、それが母性的なのでしょう。
乙一先生はTV出演した際に、
伊集院光氏の「ダメでもいいんだよ」という発言を引用されていました。
母性的でそういう視点を持たねば、
そういう風に考えられないと思います。


しかし、今回に限っていえば、
見守る視線ではなく、
導く視線だったのではないでしょうか。
そうでもなければ、
「それでも書かずにはいられない」
という主人公の独白は出てこないでしょう。
こういうのは、歌でもよくありますね。
「Life goes on――それでも生きなければ」と。
書くということが生きるということの言い換えであり、
インクとペンで紡がれる文字は意志の象徴なのです。


また、文体から感じた違和感の原因としては、
今までは描かれてこなかった「痛み」が描かれていたからだと思います。
生々しいというほどではありませんが、
作中のドラッグの通過儀礼など、
肉体的な苦痛の描写があります。
つまり、淡々とはしているのですが、
「痛み」が描かれた分、文章に「色」がついたという感じです。


今までと違うと感じたものには、
孤独の性質があります。
今までは、家族の中や、学校の中など、
同年代、あるいは同質性の中での孤独、
集団からの疎外感が多かったのですが、
今回の主人公の不安や孤独、疎外感は、
漠然とした社会への不安からくるものです。
強いて喩えるなら、
羊の群れの中にいる孤独と
草原での孤独の違いでしょうか。
羊の群れの中にいる孤独とは、
溶け込めないでいる自分、異端者の自覚、
冬目景さんの『羊のうた』での表現を拝借すると、
「羊の群れに紛れ込んだ牙を生やした羊」
ということです。
『GOTH』の森野夜はこの典型でしょう。
彼女の本質は羊であって、狼でないところにあります。
そこが『GOTH』の主人公と彼女を分け隔てるものなのでしょう。


そして、今までが共感でとどまっていたのに対して、
今回では、融和へと進みます。
一瓶のインクから始まる物語は、
インクそのもの、つまりきっかけ(動機)を離れて、
主人公が社会へと溶け込んでいく(成長)物語へとなっていきます。
いつのまにか主人公は社会に溶け込み、
そして、インク(原点)へと帰ってきた。
物語(人生)が原点と無関係に進み、
そして、無意識的に原点へ回帰する。


回帰した主人公はもう元の主人公ではなく、
そう、大人になったと言えます。
ファッションな言葉を使えば、
ニートだった主人公が社会復帰した。
この物語はそういう成長物語としてみれるでしょう。
そして、家庭を持ち、子を持った(成長した)主人公は、
父とのわだかまりを解き、和解できるようになった。
意識せざる変化(成長)がこの物語の筋です。


作者も年を取ったということになるのでしょう。
10代だった作家も30代までもうあと少し。
少年から青年へ、そして大人へ。
今年の年末にはご結婚なされるそうです。
作家自身の成長が本作に反映された、
それが本作の特徴ではないでしょうか。