暴力ゲーム規制

随分と前に、NHKのクローズアップ現代が、
「ゲームは子供に有害か?」(No.2150)という題で、
昨年6月に神奈川県がGTAⅢを有害図書に指定して、
販売規制に乗り出し、波紋を広げている問題に関して放送していた。
それに関する賞味期限の切れた考察と覚書。


いわゆる暴力ゲームの規制についての放送だったが、
あの他者を批判するのに臆病なNHKですら、
神奈川県知事の施策に批判的であった。


批判の第一目。
まず、業界の常識として、
新作ソフトは約1ヶ月が賞味期限だということ。
つまり、発売後半年以上も過ぎたソフトを規制しても、
すでにソフトの多くは売れてしまっていて意味を為さない。


批判の第二点目。
速やかな規制のために、
発売前ソフトのデータの提出を求めて審査した場合、
明らかに憲法が禁止している検閲にあたる事。


批判の第三点目。
規制の根拠となっている、
ゲームが脳に与える悪影響が、
まったく科学的根拠を伴わない事。


批判の第一点目において、
今回の有害図書類指定が
まったく意味を為さないものであることが、
明らかであるばかりか、
かつての映画『バトル・ロワイアル』の騒動の時のように、
規制が宣伝効果になっている。


批判の第三点目の
暴力ゲームが人間を残虐的にするという発想は、
おそらく昨今流行の「ゲーム脳」的発想だろう。
両方とも現時点では科学的根拠は薄い。


一方、「カタルシス」などいった用語で、
暴力ゲームを擁護することが出来るかもしれないが、
結局のところ、人間心理など、
現在の科学*1で解明できるものではない。
それは単なる憶測と解釈に過ぎない。
ゆえに問題となるのは正しいか否か、
というより、単に妥当であるか程度の事である。


第三点目の問題は知事も認識しているらしい。
とすると、非常に問題である。
つまり、決定に根拠が無いということなのだ。
これは法治ではなく、人治に基づくものであり、
為政者による恣意的な決定という事にもなる。
それは公による価値判断であり、
自由主義者個人主義者にとって、
これほど忌々しいものはないだろう。


意外に思われるかもしれないが、
アメリカではこの手の規制が非常に進んでいる。
TVには親が子供に見せる番組を
規制する装置が備わっているし、
「性」や「暴力」に関しては、
極めて神経質である。


ところで、原理主義と言ったとき、
今日ではイスラームがすぐに浮かぶかもしれないが、
元々はいわゆる福音主義の方によく用いられていた言葉である。
このキリスト教倫理観の力がいまだに彼の国では健在なのだ。


おそらく、昨今の暴力ゲームの規制は、
アメリカなどの事例を模範としたものであろうが、
我々にはキリスト教倫理観など持っていないのであるから、
問題は何を持ってこれを正当化、道徳化するかである。
これは非常に困難である。
ゆえに彼らは説明から逃避する。
そして、そんな彼らを私は決して許しはしないだろう。
たとえ、私がそのようなゲームなどしなくても。

*1:科学は実験によって法則を発見する学問であるから、一般法則化されない問題、実験が不可能な問題は、科学では方法論として不可能である。ゆえにフロイトや今日ならラカンなどの精神分析や心理学は科学ではない。