表現における「生」と「死」の問題

「生」と「死」の概念は宗教的である事が多い。
神秘主義を殊更非難し、否定する訳ではないが、
誰も彼もがそれを信奉する訳にも行かないだろう。
第一、無神論者であろうが、狂信者であろうが、
神秘主義者であろうが、何時かは死ぬ。
否応無く生まれ、死ぬ。
それ故に目を逸らす事は出来ない。
その見方、見立ての問題であろう。
ここでは哲学と思想の議論から拝借した意見で
我輩なりの表現における「生」と「死」について考察した。


本来、哲学や思想と言ったものは、
「生」と「死」に関する教義を持ち合わせていないので、
あまり今回用いるのに相応しいと言えなかったが、
存在の問題を引き伸ばす事によって応用を試みた。
哲学とは何故在るのかを問うものであって、
いかに在るべきか、
と言った命題には答えてはくれない。
なぜなら、「生死」に関する命題は
おおよそ倫理や神学の領域であって、
論理や哲学の領域ではないからだ。


思うに、この命題は90年代以降の
ポスト近代の時代精神の問題でもある。
5,60年代に入った実存主義
遅まきながらに現実味を帯びてきたからだ。
今や誰もが、子供ですらも、


「自分は何者なのか」
「自分の居場所は何処か」
「自分が何故存在しているのか」


こういった問い掛けを抱えている。
しかし、我々はすでに我々が世界に存在している理由も
必然性もまったく無い事を自覚してしまっている。
ところが、我々の意識は“ただ在る”事に我慢が出来ない。
そこで、意味や理由、目的を求めて、現代人は絶えず彷徨う。
そして、我々が限られた時間の中に存在し、
その時間によって消え去る運命にある事に、
いまさらながらに気が付く。


今、この根拠無き存在の危うさと死への恐怖との間に
現代人の精神性の危機があるのだと私は考える。
この二重の恐怖、「生」も「死」も苦痛であるような苦悩が、
「死」の表現に対して敏感にさせているのである。
さらに言えば、宗教がアヘンたる所以がここにある。
すなわち、在る事に意味を与え、
「生」の苦痛と「死」への恐怖を和らげる働きである。
アヘンは毒であると同時に薬たりうる。
確かな物など何一つ無い。
それ故に確実な物、絶対的な物を人は欲する。


そもそも生きていると言う事とは
一体、何なのであろうか。
「生命」とはどのようなモノを指すのだろうか。
(以下、『攻殻機動隊』のネタバレあり)


映画『攻殻機動隊』では、
「ゴースト」という魂のような概念が在り、
ゴーストの有無が生物と非生物を、
ひいては生と死が有るモノと
無いモノを隔てている。


例えば、冒頭で人形遣いに操られる人形は、
自分は普通の人間だと思っていたが、
それが偽物の記憶だと気付かされる。
個の拠り所である記憶が破壊される事で、
今までの自分と今の自分の
個としての自己(及びその同一性)を喪失してしまう。


つまり、これによって個(自我)における
記憶の重要性を確認するとともに、
その曖昧さ、不確実性を暴露してしまう。
つまり、記憶と精神(魂)の繋がりが破壊され、
記憶が唯脳的(機械的)に理解される。


そこで、個として、生命(魂、命有るモノ)として
成り立たせているのがゴーストだという風に説明される。
つまり、「個」を「個」足らしめるモノとしての「ゴースト」。
ところが、人形遣いは非生物である機械でありながら、
どうやらゴーストを持っているらしいと判明する。
ここで身体性、生身の肉体の有無による
生命の境界線が綻びを見せる。
つまり、「肉体の喪失」が「死」では無くなってしまう。


この思想の系譜にあると思われるTV版『攻殻機動隊』では、
第一期目において、タチコマという思考戦車(AI)が、
次第に個性を獲得していく描写(分化)が見られる。
そこで「個」=「ゴースト」のような見方が成立する。
つまり、「個の獲得」が「生」であり、
「個の喪失」が「死」であると。
あるいは「再生不可能なモノ」が「死」であると。
(回数限定のゴーストコピーが例外的に存在するが)


TV版の第一期では、
主人達を庇って、タチコマは全機すべてが壊れてしまう。
個として(「ゴースト(自我)」を持つ存在として?)、
プログラムを超えて自己犠牲した事で、
彼らは「個」を獲得したと見られる。
(素子の台詞からそう判断し得る)
ところが、最終話において、
バックアップが存在していたおかげで、
タチコマ達は復活する。


そして、二期目。
続編でタチコマ達の脳みそ(AI)は、
全て一括して衛星に収められている。
つまり、機械である彼らもまた、
肉体と精神が分離してしまった。
 生身の肉体から機械の肉体へ変わり、
 その意識のギャップ
 ――自分はまだ人間と言えるのか?
 に苦しむ素子との対照。


ところが、今回はまたしても主人公たちを庇って、
タチコマたちは壊れてしまうのだが、
今回はバックアップも存在しておらず、
最終話において、
タチコマとは別の思考戦車に
主人公たちが乗る描写となっている。
ここに至って、タチコマたちは
本当に喪失されてしまった、
あるいは死んでしまった事になる。


ここからは個人的な妄想じみた考えだが、
一期目の生き返る事によって、
その機械性(非生命性)を強調し、
――ダイハード、壊れない身体=記号としての身体、「死」。
二期目の完全に壊れてしまう事によって、
「死」を描いたのだと思っている。
――身体性以外の「個」で在る事の脆さ。


さらに、「固有」である事が
「固有」の「死」と「生」をもたらすとすれば、
1期目において、タチコマは「分化」し、
次第にその「固有性」を獲得する。
全体の部分でしかなかったモノが
全体を離れて、部分自体「個」として分かれて行く。


だが、その「固有性」は、
最終話の「生き返り」で喪失される。
そこで活きて来るのが2期目の、
「再生不可能」な「破壊」、「死」である。
それによって、彼らは再び、
彼ら自身の「固有の死」を手に入れ、
また、彼ら自身の「固有の生」をも獲得する。
これはタチコマが「生命」を獲得して行き、
その「固有性の無」である「全体」から「派生」し、
「喪失」から「再生」、「回復」する物語なのかもしれない。
つまり、個別のタチコマたちが、
それぞれが「個」として在るためには、
死ななければならなかった。
「存在理由」の「結果」としての「死」。



大塚英志の評論『キャラクター小説の書き方』*1では、

主人公は少なくとも最後の最後までは死なない、その意味で不死身であるというまんが表現の暗黙の了解から『サイコ』のこのエピソードは悪いけど外に踏み出すよ、と読者に伝えたかったからです。(中略)何故、主人公を殺したかといえば、まんが表現はいかに死や死体をリアルに描いてもそれは永遠にキャラクターとしての死であり、記号としての死体でしかないことを逆説的に顕にしたいと考えたからです。


と、述べてられている。


そういう意味で、『シャーロック・ホームズの帰還』は、
作者の都合以上に意味を持つと考えられる。
コナン・ドイルがホームズを殺害したのは、
彼がこのシリーズを終わらせたかったからだと言われている。
ところが、読者がそれを望まなかったために、
ドイルは渋々続編を書く事になる。


これを逆に(逆説的に)考えれば、
物語を終わるせる事で死を描く事は可能なのかもしれない。


例えば、CLAMPの『東京バビロン』では、
主人公の姉が主人公の友人(もう一人の主人公)によって、
殺害されると言うショッキングな結末で終わる。
(記憶が少々曖昧で、間違いが在るかもしれない)


ウィキペディアによると、

最終回は、そこで明かされた意外な真相と一抹の救いもない結末で、読者に衝撃を与えた。作中のすべての謎は解決したが、主人公ふたりの人間関係はなんら決着しないことに戸惑う声も多く、これについては上述の通り別作品「X」に受け継がれることになるのだが、作者たちは「X」の伏線ではなく独立した作品としての「東京BABYLON」は、確かにここで完結したと明言している。


とあり、CLAMPは、この物語は
これでオシマイと公言しているから、
生き返る事も、物語の続きも在り得ない。


つまり、まんがに描かれる死は
取り返しのつかない事なのではなく、
取り帰しのつかない事としての「死」が
描かれているのではないだろうか。
――記号性の限界、およびそれを逆説的に示す事。


しかし、大塚氏の意見では、
まんが表現における「死」は「記号」である以上、
死は描く事が出来ないと考える。
つまり、「記号」でしかない「死」は、
たとえ死体や葬式を描写したとしても、
整合性を持たせようとしなければ
いくらでも描く事が出来るし、
また、「生き返る」事も可能になってしまう。
つまり、描き得ない死をどう描くか、
という哲学じみたパラドックスを抱える事になる。
あるいは、「死」を描くとは、
「不可能」を表現(可能に)する事に他ならない。


記号における「死」は、
再生可能であるが故に、
真の意味での喪失とはなりえない。
たとえ完結篇と銘打ち、物語を終わらせた時でさえも、
続編が、物語の続きが出る可能性があり、
また、実際に行われてきた以上、
完結すらもキャラクターの死は描く事が出来ない。
問題は、大塚氏も指摘している通り、
映画、小説、マンガ、アニメ、
たとえどのような表現であれ、
そこには自ずと限界がある事だ。
――ヴィトゲンシュタイン的な限界、
「語りえぬものは沈黙しなければならない」。


ところで、ある人物の影響で、
なるしまゆりの著作の再読をした。
再読したのは『不死者あぎと』という作品だ。
あの作品で作品で著者は、
不死者を描く事によって「生」と「死」を
描いたのではないだろうか。


哲学者のハイデッガーは、
固有の生は固有の死にあるとして、
固有の死を先取りする事で
人間は自らの「運命」になる事が出来るとした。
また「道具」とは、
何々のためにという目的の中で、
初めて意味を持つ存在者であると言う。


こうした見方をとったとき、
「固有の死」を「喪失」してしまった不死者は、
すでに「固有の生」を「喪失」している。
つまり、存在していても、
死んでもいないし、“生きてすらいない”。
劇中の文にもあるように、
「境界的な存在」となっている。
何モノでもない何モノか、としての「不死者」。


存在と時間』によれば、
人間は死によって消え去る有限な存在者であり、
死を思うとき、本来の時間があらわになる。
そして、人間存在にまつわるこの「時間性」こそが、
「存在」それ自体の意味を解明する鍵になると言う。
また、人間が死への存在者である事を忘れているとき、
時間はその都度の目的のために理解される。


つまり、物語(マンガ)には固有のあるいは本来の、
現実として在る「時間」が無いのであるから、
描かれるのは「無限の存在者」と言う事になる。
「死」が「存在の消滅」であるとすれば、
死ぬためには、制限されていなければならない。
そして、それは「物語の終焉」でしか描き得ない。
よって、「死」は物語の「結末」に描かなければならない。
そして、確かな「死」は
確かに在る事によってのみ描かれる(証明される)のだから、
「死」を描くには、「生」を、ひいては、在る事、
在る事の理由(「存在理由」)を描かなければならない。


「死」を描く事に整合性が
不可欠(生き返らない)であるとした時、
そこで実際に表現されているのは、
死への図式でしかない。
それは記号性の死の問題が、
死の記号となって現れているのに過ぎない。
真に問題なのは、
「死」そのものの問題、
描かれた「死」が不完全である事だ。
「死」の整合性の問題は、
「死」そのものへの理解には何ら寄与しないが、
描き得る「死」が常に不完全で在る事を証明する。


そもそも描き得る「生」すら不完全なのだから、
「死」も当然、不完全にならざるをえない。
それ故に表現において
「死」を描く事の困難さのみを強調する事は、
片手落ちでしかないだろう。
さらに現実の時間は停止もしないし、
逆転する事は有り得ない。
存在が認識を前提としている表現世界では、
停止も逆転も可能である。
こういった「時間性」の無い表現世界では、
不可逆なものは描き得ない。


不完全な人間の生み出す物は全て不完全である。
人間に完成が無いように、
人間が生み出すあらゆる物も
また永遠に完成されない。
そのような物の影響力と言う物は、
実に些細な物で問題にすらないのではないか。
フィクションが与える影響に関して、
人々はフィクションを買被っている。
一義的には理解し難い全体像のような物が人間にはある。
しかし、我々が知りうるのはその一部でしかない。

*1:ハウツー本であり、評論でもある