哲学者の神話的伝説

我々が知っている哲学……
もっと卑俗的に言えば哲学史的“知識”の中には、
伝説的あるいは神話的なものが多々含まれている。


例えば、ソクラテス
彼の有名な言葉、
「汝、汝自身を知れ」
「悪法も法である」
この二つともがどうやら事実誤認であるようだ。


まず、「汝、汝自身を知れ」は、
ラエルティオス・ディオゲネス(3C)の
ギリシア哲学者列伝』を読むと、
この言葉がソクラテスによるものではなく、
自然哲学の始祖と言われる
タレスによるものであることが分かる。


哲学とは存在を問うものだ、
と言っていた女がいたが、
彼女はこのことを知っていたのだろうか。
このことを知った時、ふと、そう思った。
哲学の始祖が自己という存在を問う格言を残すなんて、
なんだか少し素敵だ。


次の「悪法も法である」についてだが、
かの有名なプラトンの「クリトン」には、
(自ら命を絶つ直前の場面)
そのような発言は見当たらない。
初期プラトンの作品は、
ソクラテスに忠実であったとされることからも、
おそらくこの格言は後世の書き足し、
あるいは伝記的伝説であろう。


別のところでは、
ルソーの「自然に帰れ」なども
どうやら本人の言ではないらしい。


同時代人ヴォルテール
「私は貴方の意見には反対だ。
 しかし、貴方がそれを言う権利を、私は命にかけて守る」
という言葉もどうやら本人の言葉ではないらしい。
ところで、これを他者の肯定としか
理解できない人間がいるがそれは間違っている。
これはまず、自分への肯定があって、
その余裕が他者の肯定に繋がっているのに過ぎない。
これは他者肯定の宣言などではない。
強烈な自己肯定のマニフェストなのである。
余裕があるからこそ、
自分を疑いえぬからからこそ、
生まれる寛容さや度量と言うものがある。


伝記が語るウソは多い。
我が師は自伝のことを
「自己の虚構化」と喝破したが、
およそ伝記という代物は、
他者を虚構化するものであろう。


ワシントンの桜の木の逸話、
ガリレオ・ガリレイの独白*1
伝記ではないが、
病名になったことで有名なミュンヒハウゼン男爵の法螺話、
これらはみなフィクションであることが、
今日分かっている。


以前、教科書で見たもっとも悪辣なウソの一つに
アメリゴ・ヴェスプッチについての記述があった。
教科書には、コロンブスアメリカ大陸を見なかったが、
ヴェスプッチは見たのだから、
コロンブスよりヴェスプッチの方が
偉いという小学生が書いたような内容が記載されていた。
これにはいくつものとんでもない
事実誤認が含まれているのだが、
詳しくは述べない。
ウィキペディアあたりを引いて欲しい。


およそ哲学、思想、文学といったものは、
教科書や解説書ではなく、
その原典にふれることが
もっとも適切であると私は確信している。
教科書のそれはテストに出る以外、
トリヴィアと何ら変わりが無い。
理想の教科書などという本を
恥ずかしげも無く出版している人が居るが、
それは単にその人の理想なのであって、
読む人が真に文学を理解する事は無いだろう。
文学は信仰と同じで、
求める者が求めれば良いのではないかと思う。
強制せねば絶えてしまうような物は、
その源泉がすでに枯れてしまっているだろう。

*1:ガリレオの場合は、伝記作家によるものですらないという説がある。つまり出典すら不明である