藤原正彦『国家の品格』

藤原正彦氏の著作『国家の品格』がいまだに売れている。
批判するには時機を逸した感が拭えないが、
この際だから色々とまとめておこうと思う。
とりあえず本日は内容を含む、
基本的な誤りの批判。


本書の問題は偏りがあるだとか、右寄りだとか、
感情論だとか以前の問題である。
単に愚劣で読むに値しないだけが問題なのである。
著者の知識水準は教養が無いと言われる大学生以下で、
考察力は皆無に等しく、
問題意識すら愚問の域を出ない。


著者は「何故人を殺してはいけないのか」
論理的に説明出来ないと言う。
当たり前である。
それは「論理学」(真⇔偽)の命題ではなくて、
倫理学」(善⇔悪)の命題だからである。
これは八百屋で魚を買い求めるのに等しい。


資本主義を批判する上で著者なりに解説しているのだが、
そのレベルが高校の倫理や政治経済と同程度である。
著者はアダム・スミス
利己的人間を生み出した諸悪の根源のように書いているが、
スミスが経済学者である以前に
道徳哲学者である事を知らないようだ。
著者が言っている思想は正確には
フランス重農主義の「レッセフェール(為すに任せよ)」である。
あるいは利己的な人間が利益を追求する結果、
「公益」をもたらす(=私悪が公益をもたらす)と説いたのは、
『蜂の寓話』で知られるマンデヴィルである。
マンデヴィルは日本ではマイナーだが、
18世紀当時、ルソーやアダム・スミスなどより流行っていた。


資本主義の説明以上に失笑してしまったのが、
共産主義が論理的だのと述べられている部分である。
この一文を読んで保守の教養人は卒倒し、
革新の知識人はソ連が崩壊する前を想って、
歓喜したのではないだろうか。
共産主義が論理的でも科学的でもなかったのは、
歴史的にも自明の理であるし、
多くの反共の思想家が明らかにしている。


ソ連からの亡命者ヴォスレンスキーに至っては、
その著書『ノーメンクラツーラ』において、
共産主義ファシズム封建社会の延長だと断罪している。
その事は現在においても北朝鮮を見れば容易に分かる。
今、冷静に歴史的事実を鑑みてみよう。
さすればナチズム、ファシズム共産主義
ことごとく後進国に現れた事に気が付くだろう。
この事に気が付かない著者の認識では、
社会主義の持っていた歴史的意義を見失ってしまう。
つまり、資本主義とリベラル・デモクラシーのイデオロギーではなく、
社会主義全体主義イデオロギーによって
近代化する事が可能であると、
91年のソ連崩壊まで多くの人々に信じられていた事実である。


そして、この壮大な社会全体を巻き込んだ実験の失敗は
資本主義、リベラル・デモクラシー以外に道が
存在していないという残酷な現実を我々に突きつけたのだ。
現在の体制以外の選択肢は残されていない事を
我々は否応無く自覚させられたのである。
あの二つの戦争、大東亜戦争と冷戦は、
近代化への抵抗に他ならなかった。
つまり、我々は二度も近代から逃避しようとしたのである。
そして、現在、グローバリズムの衝撃に揺さぶられているのであるが、
もはや我々に逃げ道は残されていない。


デモクラシーの批判ではド・トックヴィル
無批判であったかの如く扱われているが、
アメリカのデモクラシー』で
デモクラシーを「多数者による専制」(Tyranny of majority)
と評したのはあまりに有名である。
また、19世紀のヨーロッパにおいてデモクラシーが
テロリズム(恐怖政治)と同義に扱われていた
歴史的事実を著者は指摘すべきだ。
そうでなければ、ヨーロッパで何の抵抗や躊躇も無く、
デモクラシーが受容されたかの如き誤解を生んでしまう。
20世紀のイギリスの首相チャーチルでさえ、
デモクラシーを以下のように評した。

これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、
またこれからも過ちと悲哀にみちた
この世界中で試みられていくだろう。
民主制が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。
実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。
これまでに試みられてきた
民主制以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。


今日、デモクラシーの伝道者を自称するアメリカでさえも、
建国の父達(Founding Fathers)が、
デモクラシーという言葉を一切使わず、
自分達を共和主義者(Republican)と呼んでいたのである。
ジェイ、マディスン、ハミルトンによって
書かれた『ザ・フェデラリスト』は、
人民に対する警戒感と不信感に満ちている。
建国の父達の中では急進的だったジェファーソンですら、
人間が天使なら政府などいらぬとまで言い切っている。


もっと噴飯物なのがマスコミが
第一権力だのと述べている部分だ。
どうやら著者には
「権力 power」と「影響力 influence」
の違いが理解出来ないらしい。
要するに法的根拠の有無の違いである。
あるいは暴力装置(警察、軍)の有無と言っても良いかもしれない。


著者は「日本的なもの」を取り戻せと主張しているが、
そもそも著者が教養として上げている思想が、
新渡戸稲造内村鑑三福沢諭吉であるが、
三者三様に「欧化」主義者であり、
新渡戸と内村に至ってはクリスチャンである。


新渡戸の『武士道』は著者の言う情緒の本などではなく、
西洋に認められたい一心で武士道と騎士道が似ていると
「英語」で述べた著作であり、
彼の言うところの「武士道」は礼節(マナー)に近い。
そもそも新渡戸は国粋主義に反発した人である。
福沢至っては日本語を廃止して英語を国語にせよと述べた
森有礼の設立した明六社の同人であり、
アジア的なるものを否定し、
亜細亜の悪友を謝絶せよ」と言い切ってまでいる。
彼は典型的な欧化主義者であり、
著者の嫌うところの事大主義者である。
著者の上げた人物たちはみな西欧化を受け入れた人々なのである。


また、著者は「惻隠の情」を日本の情緒だと述べているが、
「惻隠」とは支那儒教の道徳であり、
井戸に落ちそうになっている赤子を
助けない人などいないという
孟子』の中に出てくる挿話から来ている。
せめて本居宣長あたり読んで、
ますらおぶり」だとか「もののあはれ」を説いて欲しい。
また郷土愛だとか、愛が連発されているが、
この「愛」も実は舶来で、
元々の字義は現代の「惜しむ」に近い。
つまり、英語で言う所の「Love」ではなくて、
「Miss」会えなくなったり、なくなったら、
さみしいという感情である。


著者の言う情緒だとか、
あるいは西欧化への葛藤や苦悩を述べているのは、
明治、大正期なら永井荷風夏目漱石森鴎外
昭和期ならば初期アジア主義の壮士達や国体論者、
「近代の超克」論議*1で有名な
文学界、京都学派、日本浪漫派の面々である。


著者はその独特の情緒から
成果主義などを批判しているが、
成果主義実力主義などの「競争社会論」は、
それが「競争」的であるから問題なのではない。
その成果や実力を如何に判定するかが問題なのである。
問題なのは競争ではなくて、
その評価の基準なのだ。
要するに、ケーキを切り分ける人間が、
切り分けたケーキを配分する役割りをも
兼任しているところに葛藤が生じているのである。


本書は格差社会を批判しているが、
今、本当に問題なのは格差ではなく、
階層の流動性が著しく澱み、
階層の固定化されるようになっている事だ。
この階層流動性の停滞と「世襲」こそが問題である。
昨今、総理候補者として名が挙がって者を見て欲しい。
麻垣康三」という造語まで生まれたポスト小泉の
麻生太郎谷垣禎一福田康夫安倍晋三の4人だが、
戦後総理になった者の子孫がなんと3人もいる。
しかも、残りの1人の谷垣までもが二世議員であり、
現職の小泉もまた世襲の三世議員だ。
つまり、全員が世襲政治家なのである。
かつての支配階級の礼節でしかない武士道をあげる著者は
この事をどう考えているのだろうか。
裸一貫で身を立てた豊臣秀吉
新しくは田中角栄鈴木宗男らが、
どのような末路をたどったか、
成金や成り上がりが如何に蔑まれ続けているかを
もっと思慮の内に入れるべきだったのではないだろうか。


著者は事あるごとに論理、論理と述べるが、
その内容たるやアカデミーな意味の「論理」と言うよりも、
一般的に言うところの「理屈」に近く、
どこぞの首相が改革を連呼するのに似ている。
そもそも著者は数学における論理の限界だけを述べているが、
哲学史における常識、
ニーチェが学問など解釈学と数学しか残らないだろうと述べ、
カントが伝統的形而上学を破壊した事実を知らない。
ちなみにニーチェは100年以上前の人であり、
カントに至っては200年以上前の人である。
しかも、ゲーデル不完全性定理
ロッサーやラッセル、クライゼルによる反証、反論が為されている。
つまり、この定理自体が絶対ではないのだ。


著者が用いている知識は古臭い上に誤解が多く、
何よりそれを結果だけしか知らない事に問題がある。
ゲーデル不完全性定理の議論を言及していない事や、
著者が自由の説明にホッブズとロックしか
引用していない点に如実に現れている。
「自由」という概念が時代によって大きく異なり、
またその意味をめぐってバーリン
議論を引き起こしたのも記憶にそう古くは無い。
著者は自由を巡る議論を一切触れずに
西洋の自由の概念とレッテルを貼るのである。


たとえば、古代ギリシア期の「自由」は、
我々の言うところの「自足」に近い。
また、著者は「自由」とは、
もともと「身勝手」の意味だったと書いているが、
江戸時代には、自由は便所の意味であり、
勝手は台所の意味であった。
しかも、英語の「Liberal」の訳語に
「自由」を当てたのは、
著者の大好きな福沢諭吉である。


確かに政治思想史において、
ロックがリバタリアニズムの源流と見なされるのは事実だが、
いくらなんでもカルヴァンと結び付けるのは無理がある。
ホッブズやJ・S・ミルに対しても
その自由思想を放縦だと言わんばかりの
レッテル貼りを行っているが、
それは大きな間違いである。
功利主義者ミルは危害原理(Harm Principle)、
つまり、“他人に危害を加えない範囲で”、
各人は各人の方法で幸福を追求する
「自由」があるのだと説いたのであり、
他人を押し退けても良いだのとは書いていない。


「万人の万人よる闘争」で有名なホッブズにしても、
彼はアリストテレス的な善や普遍性を懐疑し、
普遍的なのは言葉のみであり(唯名論)、
物事は個別で特殊なのだと主張した哲学者である。
西洋的な普遍性に反発する著者がむしろ好むべき哲学者だ。
しかも、彼は自由意志を否定しているし、
非拘束(=放縦)は自由でもないとも書いているし、
国家は人間の意志の所産(=人工国家 Artificial)
なものであるとも述べている。


著者は自由と平等の概念、
自由主義と合理主義をいっしょくたに扱っているが、
本来それは水と油のような関係である。
著者の言っている自由主義英米で発達したが、
平等や合理主義は大陸で発達し、
デカルトや著者の好きなライプニッツなどは
大陸合理主義に分類される。


著者の知識が問題なのは、
その理解度もさることながら議論から切り離し、
その歴史的背景を無視している事にある。
つまり、西欧人に考えてもらって自身は何も考えず、
西欧人の議論の結果だけを得ている著者こそが
まさに西欧の猿真似、無批判な模倣、輸入業者なのであり、
我が国の知的世界を、しいては、
教養を破壊した一原因なのである。
さしずめ彼の言う「論理」とは「考える事」であり、
「情緒」とはただの情念なのかもしれない。
つまり、彼は考える事を放棄したのだ。


さて、著者の「日本的なるもの」を
世界に強制する態度に対して我輩は既視感を覚えたのだが、
言っている事がナショナリズム中華思想に酩酊している
隣国の人々と全く変わりが無いのである。
反日デモの「理屈」を文章化すればこうなるであろう。
いみじくも我が国の慣用句には
「盗人にも三分の理」という言葉がある。
屁理屈とは実に恐ろしい。


日本人が「日本的なるもの」を思い、発見し、
それを大切にする事は別段悪い事ではない。
それは自己を規定するものであり、
アイデンティティと呼ばれるものである。
ところが、著者の意見はこの個別を全体に
特殊を普遍として世界に押し付けようとするのである。
これを暴論と言わず、何と言うだろうか。
著者の嫌いなホリエモンや村上氏ですら、
他人に道徳や価値を押し付けたりはしていない。
彼らは確かに道徳的ではないかもしれないが、
他者に価値を押し付けるほど野蛮でもない。
自らの価値を絶対であると盲信し、
それを強制するなどまさに
ファシスト共産主義者の所業ではないか。


最後に、著者の主張の要である論理主義の批判だが、
どうもデリダのロゴス中心主義批判と似ている。
デリダの著作を誤読した上で、
脱構築(パクリ)したのではないか
と我輩は疑っている。
本書は実はポストモダンの影響を受けた
伝統破壊の思想なのではないかとすら思う。
特に自然科学の知識を理解もせず引用して
議論を煙に巻く態度などそっくりだ。
本当に著者は真剣にこの国を愛しているのか疑問だ。
真剣なナショナリストほど理想に燃え、
ドン・キホーテ的である事を免れ得ないが、
著者はむしろピエロ的である。


以下、一時の気の迷いから不覚にも本書を読んで
感動してしまった人々に贈る忠告を込めた警句。

悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす


良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。
人生は短く、時間と力には限りがあるからである


ショウペンハウエル「読書について」

今の世を百年も以前のよき風に
なしたく候ても成らざる事なり。 
されば、その時代々々にて、
よき様にするが肝要なり」


山本常朝『葉隠

古人の跡を求めず、
古人の求めたるところを求めよ


松尾芭蕉『許六別離詞』

*1:竹内好の「近代の超克」に詳しい