『国家の品格』の読者について

「諸君らはこんな物で満足できるのか?」
「こんな物を求めているのか?」
「一体どうありたいのか?」
「一体何がしたいのだ?」


我輩が何故ここまで激しく、偏執的までに
批判するのかと貴方は思うかもしれない。
無批判に受容してしまう人々に対して
我輩は怒っているのである。
そして、私には良く分からないのだ。
それ故にただ問いを投げ掛けたいと思った。


我輩が何よりショックを受けたのが、
国家の品格』を多くの若い読者達が受け入れている事である。
皮肉な事に我輩も著者とは異なる視座からではあるが、
現代社会の俗悪さと歪さを見つめている。
それは本書のような
精神や思想までをも商品として消費させ、
あっという間に陳腐化させている事である。


精神とはただその人自身に宿るのであり、
思想とはその人自身が考えるだけなのだ。
「日本人とはどうあるべきなのか」という
日本人としての精神以前に、
その人自身の精神があるのであり、
何故、自分とはどうあるべきなのかを問わないのか。


昨今の新書ブームの深層には、
良い意味での好奇心から生まれる
「ちょっとだけ知りたい」という願望と
「飽き」という感情との葛藤があるのではないだろうか。
我輩はそういった人々に対して、
「自分が何故知りたいと思うのか」
という疑問を持つように忠告しているのであり、
「ちょっとだけ知る」事から
「ちょっとだけ考える」事への一歩を
踏み出す事を薦めているのだ。
そして、ただただこの短い一事を伝えたい、
問い掛けたいがために、筆を執ったのである。


はじめこそ怒りを以って筆を運んだ事を
我輩は素直に認めるところである。
しかし、多くの意見に触れ、
筆を入れる度に自らを省みて、
時間が経つほどに、項を進めるごとに、
筆は静かに、その問いを投げ掛けるに至った。


多くの哲学者は言を尽くして、
僅かな、多くはたった一つの真理のために
膨大な論を展開する。
思索とは直観された真理の抽象化の過程であり、
読者はそのたった一つの真理のために、
泥水を飲み込み、自ら上澄みを抽出するのである。
我輩もそうした上澄みを溜め込み、
たった一つだけの問い掛けや意見のために、
長く、冗長とも思われかねない文章を綴った。


人は教養がつくと悩むものなのであり、
そして、教養が無ければ悩む事も少ない。
真剣に悩む事が幸福に繋がるとは限らないから、
教養はもはや必要無いのかもしれない。
だが、そんな人生に飽きてしまったがこそ、
何かを知ろうとしているのであり、
何か方向性を与えてくれるものにすがろうとするのだろう。


それよりはたとえ悩み多き人生であっても、
自分に飽きないような、
他人に依存するような事がないような
生き方を歩もうと我輩の教養主義は提言しているのである。
人は悩むからこそ躊躇し、立ち止まり、
事物から離れて観察する事が出来るようになるのであり、
それこそが判断力、思索力、思想力の始まりなのである。


我輩は時代錯誤な教養主義者なのかもしれないが、
啓蒙主義者ではない。
現代人は啓蒙されない。
何故なら権威というものがもはや存在していないからである。
権威とはH・アーレントの定義に従えば、
人が命令や強制ではなく服従するものの事だそうだが、
そのようなものは近代以降の社会にはありえないし、
また、たかが一個人風情に宿るものでもない。


だが、それでも我輩は問い掛け続けるのだ。
それが自己を映す鏡であり、
自己に反省を促す理性の働きでもある。
理性とは何かを生み出すものではなく、
我々を抑制せしめるものなのである。
そして、思索とは異質なものと触れて
普遍性を目指す運動なのだ。
そして、運動しない人間の多くが肥満になるように
思考しない人間は益々鈍く磨耗していくのである。


もしかしたら、我輩の言など、
老人の小言なのかもしれない。
時勢に棹差す事が出来なくなった時、
人は老いて行く。
時流に乗るを潔しとせず、
されど、時勢に逆らう事も出来ず、
ただ世を斜視するのみ。
それは引き伸ばされたバネが
次第に弾力を失っていくのに似て、
諦観が老人の胸裏を占めるようになる。


流行は何人も追いつく事無く、
ただ流れ去るようになり、
やがては取り残される。
追い求めた先の空虚な自分に気が付く頃には、
人生の終りに差し掛かる。
人の生は何かを為すには短く、
何も為さざるには長く、
また、何かに気付く後に、
残された時間は冗漫で、
人は飽きてしまう。


生きる者に問い続け、
死を静観する。
享楽でもなく、禁欲でもなく。
怠惰でなければ、性急でもなく。
今を生きる。
――Carpe diem Memento mori