NHK『日本の、これから』

NHKの特番の『日本の、これから』を見た。
案の定、たいして面白くなかった。
以前からNHKは視聴者参加型の
番組の試みを続けてきていたが、
例の不祥事の後、
とみにこのタイプの番組を重視するようになった。
その姿勢の低さには見ていて痛ましさすら感じられる。


私は、この手の討論もどき番組を喜劇としてしか見ていない。
何の見識も持たない人々が集まったところで、
文殊の知恵には程遠いのである。
そもそも私は討論やら、ディベート、議論などに
価値を認めてはいない。
討論になれば、結局のところ
それは論の正しさではなく、
討論術の優劣になる。
そして、多くの場合は他人の揚げ足取りに終始する。


実際、討論というのは思想戦であり、
その究極目的は相手を屈服させ、
自分の側へ転向させることにある。
ある意味では知的な遊戯であり、
悪く言えば擬似的な権力闘争に過ぎない。
これに無自覚であるだけでなく、
自分の思想の背後を知らないために、
多くの議論は空回りしている。


私は他人の論に対して誠実でありたいと思っている。
ある日、私の間違いを指摘した人に対して、
私はすぐさま自説の誤りを認め、謝った。
これに対して、周囲の人間は戸惑ったが、
私にとって討論はどうでもよかった。
論の大筋が重要なのであって、
細部はどうでもよかった。
私は事実よりも論に執着することが嫌いなのだ。
日本人はすぐ謝ると言われはしているが、
実際はそうではない事が多い。
謝るポーズは見せても
誤魔化そうとする事の方が遥かに多い。


私の嫌悪する論争屋の集まりがあの手の番組の特徴である。
彼らの多くは自説に対して盲目的な確信を抱き、
そのくせ自分自身の思想に対して無自覚的で、無理解だ。
彼らの理解は紙背にまで徹せられていない。
他人の意見を理解せぬまま退け、
事実に目を向けようとはしない。
対話は一つの論を深めていくものだが、
彼らは論を吐き散らすだけである。
方向性が無いために自分の意見に対する
フィードバックも少ない。


この手の議論の参加者は二つに分かれる。
言いたいだけ言って、ストレスを発散する者と、
あまりの乱脈さと無意味さに苛立ちを隠せない者である。
参加者の多くは前者であろう。
意見を言わないものですら、
積極的に参加しなかったが故に、
むしろ自説の誤りに気がつかず、
ますます自説に対して盲目的な確信を高めていく。


たとえ反論されたとしても、
心の奥底では中々それを認められないものであるし、
認めたところで他人の意見が正しいとも限らない。
ああいうのは自己主張のようで、
実の所、自分の卑小な知識なひけらかしでしかない。
感情的な反論も自分の知っている事に反しているからで、
別段、真理の追究をしているわけではなかろう。
それを自分の意見だと思い込んでいるところに
脳内お花畑が咲き乱れる。


おおよそこの手の番組には
まともな神経を持った学者は参加しない。
あまりの無意味さに耐えられないからだ。
さらには番組側もあまり呼ばない。
学者を大量に動員するよりも
一般人公募の方が安くつくからである。


昨今ブームとなっているものの多くは、
デフレ産業であろう。
新書にしても教養ブームなどではなく、
単に単行本で出していたものを新書に仕立てて、
薄利多売で捌いているのに過ぎない。
量が増えた分だけ質も落ち続けている。
TVもやたらグルメ番組とバラエティーが増えた。
NHKも硬派なドキュメンタリーよりも、
こうした視聴者参加型の番組を増やしている。


こうした安っぽいモノは風潮を読み、
一般人の認識を観察するにはいいかもしれないが、
極稀にみられる珠玉のようなたった一言がなければ、
わたしは見ないだろう。
その一言は砂漠のオアシスにはなれなくても、
砂漠の通り雨にはなりうる。
もっとも、それすらも多くは
砂漠の無数の砂石に埋もれてしまうのではあるが。