思想風景

普段何気なく暮らしていると、
ふと周囲を見回せば、
風景が一変している事に気が付き、
大変驚かされる事がある。
同様に思想風景というものも、
一種の流行なようなものであるから、
やはり気が付くと原風景を
留めていない時がある。
元より原風景などないのかもしれない。
物がただそこに在るように。


伝統主義などという言葉があるが、
その時代時代によって
伝統の意味や内容は概ね異なっている。
この手の言葉は箱なのであって、
箱の中に何かがあるとは限らない。
あるいは箱の中身は
その時々において変わっていくものだ。
そして、こういった言葉は中身(説明)がなければ、
単なる「あれ・これ・それ」の代名詞と相違ない。
つまり、中身があるならば
それは代名詞に置き換えても意味が通じるものであり、
逆に置き換えて通じなければ空虚である。


伝統とは過去から未来への流れに沿って、
現在を位置づける事を意味する。
それは包括する枠なのであり、
それその物は薄い袋のようなものなのだ。
伝統とはそういう意味において歴史性と同義であろう。
それは背景のようなものなのである。
それは在る時には逆説的に見えない。
見える時は視界であって背景ではない。
背景において視る主体は単なる部分に過ぎない。
断片は何処までも断片に過ぎず、
たとい断片を繋ぎ合わせた所でそれは全体にはならない。


最近、ブログランキングの政治ジャンルの上位が、
悉く自称右翼に占められているのを見て我輩は眉を顰めていた。
だが、「きっこのブログ」のような反俗的な俗物を見て、
左の人々に対しても不快さを感じた。
右にせよ、左にせよ、
理想や目標といった看板を掲げた瞬間に、
どうしてここまでドグマティズムに陥るのか、
我輩には不可解でならない。
あるいは何かを信じると言う事が
甚だ困難となっているこの時世において、
斯くもファナティックに
己の思想を確信できている事に羨望すら覚える。


例えば、シンドラー・エレベーター事件や
耐震強度偽装問題に対する世間の反応は、
少々ナイーブ過ぎたように思えた。
謝罪などといった道義的な責任と、
対処や賠償といった法的な責任の問題があるが、
我輩は前者をとやかく述べるのをやめるべきであると思う。
法治とはその否定によって成り立っているからである。
もちろん道義的な責任を取る事は悪い事ではない。
ただ、道義的な問題はおよそ主観的であり、
それが客観的である法的な責任よりも先行するのは
時に危険ですらありうる。
正義派の「きっこのブログ」が
単なるゴシップに陥ってしまっている事も、
これらに通じるものがあろう。
ファシズムは悪だけではなく、
善や正義にもまたありうる。
むしろ、善や正義のファシズムほど恐ろしいものはない。
道徳志向性には天井が無いからである。
故に一方的な物に対して慎重でなければならない。


これらの現象において何より理解できないのは、
左を自称する者にせよ、右の者にせよ、
ブログという個人メディアを使いながら、
徒党を組みたがる事である。
どうして個を発する人々が
自ら没個人的に陥ってしまうのか。
言論を封殺するのは何も暴力や権力によらずとも、
言論が他の言論を抹殺しようとするものだ。
そういう不健全さが、
戦前戦後と変わらず続いておる事に、
我輩は失望と若干の軽蔑を禁じえない。
自己の正当性を信じる人々が、
どうして他人を貶め、非寛容的になるのだろうか。


我輩は何々派と名乗る人々を基本的に信用しない。
それ故に現在の私は、
何々主義だとか、何々の立場であるとか、
そういうレッテルを自らに貼りたくない。
他人が貼るのは許せるとして、
自称する事に戸惑いを覚えてしまう。
現在の我輩は保守的であると思われる事が多いのだが、
だからと言って、保守主義者を気取りたくはない。
そもそも保守主義の何たるかがまだ良く掴めない。


ただ、とあるブロガーが、
日本の保守とリベラルについて、


保守:大衆は無知なので力のある人々が導いていく必要があると思ってる
リベラル:大衆は賢明だと思っている


保守:理論でガチガチ
リベラル:情を汲む


と述べていたのだが、それははっきり違うと言える。


そもそも「大衆」なる不遜な言葉を
生み出したのは知識人たちだ。
権力の側にも、民衆の中にも入れなかった彼らは、
その中間に知識人階級なるものを作り上げて、
自分達と区別する上で庶民を「大衆」なぞと呼んだ。
そういう孤立した自己集団は、
理論で自らを正当化したがるものだ。
それ故に彼らには明確な理論というものを持っている。
具体的に言えば、
戦前の百家争鳴の体を成した革新思潮*1であり、
共産主義であり、進歩主義である
彼らは民衆に啓蒙と言う教えを垂れる宣教師であった。
そうした人々が「大衆」なるものを
見下していない訳が無い。
理想が必ずしも温かい人間性を持っているとは限らない。
時としてゾッとするような非情さを備えているものだ。


一方で保守はどうだったか。
こちらには明確な理論と呼べる物があるか疑問である。
結局の所、保守は革新主義への対抗でしかなく、
はなはだ受動的なものであった。
そういう意味において保守は、
まさに「Re-Action」―反動―であった。
多くの人は保守的だとか、反動的であるとかと言われると、
それを不名誉なもののように受け取るが、
我輩は別段それを悪い言葉だとは思わない。
誰も彼もが「Action」ばかりでは気持ちが悪い。
「左傾」、「右傾」と言う言葉は実に良く出来ている。
左に傾(かぶ)くと書いて左傾である。
「Action」があって「Reaction」があるのは、
運動(力学)的にも別段当たり前の事のように思える。
明確な未来への理論(グランド・セオリー)が無い以上、
あらゆる左右の思想は前後に流れる如き物ではなく、
あたかも振り子の如く揺れている物に過ぎない。
これが我輩がバックラッシュなる言葉を好まない理由である。


かつて保守と呼ばれた、
あるいは反動なんぞと罵倒された人々は、
確かに「大衆」なるものを信じなかった。
だが、彼らは「大衆」なるものの実在を疑っていたのであり、
自身の言論すらその無力さに自覚的であった。
彼らは大衆以前に人間の知性を
過度に信頼する事に対して
警鐘を鳴らし続けていたのに過ぎない。


我輩が自称保守派を信じないのは、
保守とは単なる現実や変化への態度に過ぎぬからであり、
それを主義信条などのドグマに転化する事に、
堪えられない不快さを抱くからだ。
右にせよ、左にせよ、
それを誤りなきと思った時点で、
硬直し、現実から遊離して行かざるを得ない。
理論の精緻さとは単なる写実に過ぎないであろう。
現実そのものではないのだ、写実に過ぎのだ。
そして、写実は往々にして美しく見たがる。
そのようなものはたとえ現実(主義)を標榜していても、
かつてはどうあれマヤカシに過ぎないのではないか、
そういう疑いを懐いているのだ。


正直に告白すれば、
リベラルだの、保守だのと連呼する輩を嫌悪している。
リベラリストだか、保守主義者だか知らないが、
リベラル一派、保守一派と呼んだ方が良いのではないか。
そういう観念に踊らされている
人々の軽佻浮薄さに我慢ならぬ時がある。
インターナショナリストを気取る輩も大嫌いだ。
彼らは単にアナーキストか、
コスモポリタンな自己に引け目や後ろめたさから、
自己欺瞞や自己正当化に走る。
自身が左翼にはならないだとか、
左翼ではないだとか、白痴なのではないかと思う。
そういう便利な言葉に頼っているから、
自己の陥っている錯誤にも、
自己の気づかぬ内に染まっている
観念にも気付かないのであろう。


現実からはどう足掻こうと逃れられるものではない。
故に立ち向かっていかねばならんのだが、
それは未来に目標を投ずることではないだろう。
過去から現在を否定でもなく、肯定でもなく、
ただ運命として受け入れ、
現在を見つめる事こそ重要なのではないか、
そう思っている。


あらゆる言説は真理ではなく、
フィクション(仮定)であると思った方が良い。
我輩が語る事も全てがフィクションだ。
語られたものは常に、
「fic-tion」―造られた物―なのである。
あるのはそれらしい、妥当さ程度の事だ。
物の見方についても同じ事で、
ある程度の偏見や先入観、
ステレオタイプである事を免れ得ない。


今、我輩はモニターを見て、
ブログを更新すべくタイプしているが、
それを強く意識しなくても、
「それ」が「それ」である事を認識できている。
これは実に複雑でありながら、
同時にシンプルでもある。
蓄積された経験と先入観があいまって、
我々はそれについて深く考えずとも、
それと認識する事が出来る。


それの個々の性質、
硬いであるとか、光を投じる、
映像を投影するであるとか、
多少熱を放射しているであるとか、
そうした個々の現象や性質が、
個別に認識されるのではなく、
全体的に認識されて、我々はそれをそれだと思う。
経験が論理を経ず、先入見的に機能しているのであろう。
そういう意味で、我輩などは極めて偏見的な人間だ。


リテラシー」という言葉を
お嫌いになる方がいらっしゃるが、
我輩はそれほど悪い言葉ではないと思う。
要するに能力の事に過ぎないからだ。
あるいは能力や性質にそった在り方、生き方と言えよう。
能力が無いのに、その能力必要とする行為をする事を、
リテラシーが無い」と人は言うのである。
これは節度や常識にも通じるものだ。
もっとも、このリテラシーという流行語よりも、
我輩は常識と呼ぶ事を好む。


「常識」とは何の事は無い、
単に現実に対処する術のようなものである。
現実に従い、現実に教えられ、
現実に沿って生きる生き方の事である。
田舎ほど常識が残っている傾向が顕著だ。
彼らは周りの事以外に大して関心を持たない。
田舎にロマン的な要素を認めたがるのは、
都市人の証左と言えるが、
実際には田舎に生きる人間ほど
即物的で状況本位な人々は居ない。
彼らは自らの行為に
ロマンティシズムを感じないからである。


田舎の人間は観念やら理想やらなどを
後生大切にするなどという事が無く、
ただただ周囲の現実や状況を見て、
それに従い、それに対処している。
学はないが、甚だプラグマティックな人々が多い。
田舎で余所の人間が疎外感を感じるのは、
ある意味、致し方の無いことであろう。
そのルールや生き方を知らぬのであるから。
もっとも、今日の田舎では、
それも次第に崩壊しつつあるのではあるが。


どうにも巨悪という思想が日本にはあって、
悪に対する拒絶反応が凄まじい。
どうやら善人や弱者、良識家に対する
特権意識のようなものがあるようだ。
かつての大学然り、マスコミ然り。
彼らは単に悪を為す機会に恵まれなかっただけだが、
彼らが集団を形成する限り、
そこに政治が生まれ、権力が生じるようになる。
どのようなものも聖足り得ないのだ。


程度の差もあろうが、
そこでは権力の手を差し出す者と、
受け取る者の関係が現われるようになり、
個人はその関係の、集団の中に飲まれてしまう。
支配しようという欲求だけではない。
そこには進んで自ら支配されようとする欲求も生じる。
キリスト(英雄)が現われた時、
人は進んで自ら己を使徒たらんとするではないか。
権力欲とはただ他を支配する欲求を意味するのではなく、
そうした被支配の欲求を持つのである。
それ故にそうした集団の中では、
唯一人の独裁者とて個人足りえない。
独裁者もまたその他の無数の被支配の欲求の前に
飲み込まれてしまっているからである。


およそ善人という者は悪を為し得ないが故に、
責任に押し潰されるか放棄するしか出来ない。
善人に期待する事は善人にとっても
悪い結果しか生まないであろう。
偽善と感傷が国を覆い、
その反動として偽悪と嘲笑が広がって行く。
個人が社会に反発し、
社会から孤立しなければ成立しないのでは、
もはやその確立された個人は
如何にして確められるのだろうか。


我々は一人の思想家たる時、
努めて一人になるべきだが、
それは孤立を意味しないだろう。
古のブッダが迷える者に獅子吼しているではないか、
独り犀の角のように歩め*2と。
思想家とは常に自立自存なのであり、
徒党を組むような者はもはや思想家などではない。
また、徒党を敵とするような者も思想家ではない。
四方のどこにでも赴き、害心あることなく、
 何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、
 恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め
恐れるものなど無いのだ。
夢も無く 怖れも無く*3
――夢も無ければ、怖れも無いように。

*1:国粋主義など。今日言う所の右翼は「革新」を自称していた。皮肉な話である

*2:『スッタニパータ』

*3:イザベラ・デステ