岩波文庫80周年

我ながら大仰なタイトルだが、
半分冗談、半分本気。
まあ、気軽に流し読みして欲しい。
我輩も読書の合間のストレッチ程度に書いている。
さて、岩波文庫が80周年とやらで
創刊時のラインナップを復刊していたのだが、
あんなもの文献学者的好事家以外に誰が買うと言うのだろう。
少なくとも我輩はまず買わない。


かつて「岩波文化人」という言葉があった事を、
今の若い人々はご存じないだろう。
物好きな読書家の中には過去の記憶として
それを覚えていらっしゃるかもしれないが、
もはや遠い昨日の世界であろう。
左翼知識人にとって昭和の冷戦期は、
『世界』などが世論に影響を与える事が出来た輝ける時代であった。


およそ精神や思想の歴史を知ろうとすると、
どうしても書かれた事に印刷された物に頼らざるを得ない。
しかし、まこと逆説的であるが、
理論家が沈黙するのはその説が滅びたからではなく、
その説が現実に生き始めたからなのである。
書かれた事が必ずしも肝心なのではなく、
むしろ時として語られなかった事の方が
語れなかったが故にあるいは
語る事が“出来なかった”が故に重要となる。
それ故に過去における思想の現実を
書かれた物のみをもって復元する事が
とても困難に感じられるのである。


加えて思想において初学者を混乱させるのは、
「名称」と「実相」が一致しない事だ。
例えば「自由」は古代において「自足」の意であったし、
中世キリスト教世界においては
「神の意志」に対する絶対服従を意味していた。
そして、近代人ニーチェはこれに反逆し、
ついには「神は死んだ!」と絶叫する。
彼にとっては「力への意志」こそが「自由」であった。


我々の生活のおける精神は、
何も探さなければ見つからぬようなものには、
宿ってはいないだろう。
同様に過去において営まれた精神は、
その当時において生きていたものを見なければならない。
そういう意味において誤解や誤読などといったものを
排除する必要は全く無いのである。
誤謬や誤解も人間や歴史を衝き動かす
と言う意味において現実だからだ。


このような意味において、
小熊英二の『民主と愛国』は
まこと労作であるが、
思想家としての営為と言うよりは、
化石を以って恐竜を語る考古学者の所業に近かろう。
涸れた井戸を以って過去の水脈を語る者に、
一体どれほど人間が動かされようか。
なるほど、それは学問的には正しいのかもしれない。
だが、正しいか、間違っているか以上に、
我々が知るべきは良くも悪くもその影響であろう。
善悪とは関係無くそれが歴史を動かしているのだから。


たとえば戦前戦中の思想に触れると
今日まったく名を留めていない多くの者を眼に留める。
これは思想に触れる上で最も酸っぱい経験である。
彼が関わった論争はもちろん
彼も対立者も忘れ去られてしまった。
特にベストセラーは時代を反映する、
反映するが故にその時代的限界をもろに被る。
その時代に適合し過ぎたが故に、
そうした本は時代の変遷に耐えられないのである。
斯くして時は紙価を高めた書物をも紙屑と化す。
おそろしい事である。


時代の雰囲気と言うものが確かにある。
そういうものは書かれた物からは分からない。
若い人々は想像できるだろうか。
かつて『朝日新聞』『朝日ジャーナル』『世界』を
三種の神器と呼んで若者達が熱心に購読していた事を。
それが一種格好良いと持て囃されていた事を。
想像し難いだろうがかつてはそういうものが
スタイリッシュなファッションだったのである。
だからと言う訳でもないが、
中には不純な動機の者もかなり居ただろう。


右傾化、右傾化と最近は良く叫ばれるが、
産経新聞』『正論』『諸君!』を片手に
大学の構内を颯爽と歩いても、
格好良いと思われないどころか
変な奴と思われるのがオチだろう。
現代の賢明で健全な学生諸君は
そんな思想を走り抜いてしまって、
右だの左だのと叫ぶ連中は取り残されてしまった。
現代において右翼だろうが左翼だろうが、
単なる時代の脱落者に過ぎない。


「文化とは生き方の事である」
とかつてT・S・エリオットは述べている。
その意味において、
大多数の人にとって思想とは生活の形で表され、
思想家は言葉によって示しているのに過ぎない。
語らぬ人々は語られぬ雄弁を有しているのである。
生活によって営まれる思想が、
あくまでも全体として存在しているために、
我々はそれを断片でしか見る事が出来ない。
今日、その断片化の傾向は甚だ激化したように思われる。


文化としての、生き方としての岩波は、
表題の通り死んでいる。
もはや未来を語ることはおろか、
今を指し示す事すら困難に陥っている。
『世界』は過去の夢物語の焼き直しへと退行し、
まったく一部の人のための雑誌と成り果ててしまった。
『世界』などの今日における岩波文化は
未来に対する失語症に陥っている。


岩波文庫の最新刊が
まったく精彩を欠いているのに対し、
昨今、目を見張る充実振りを発揮しているのが光文社だ。
光文社の古典新訳文庫は実に素晴らしい。
文語体を知らぬ若い世代のために、
新しい画期的な翻訳を行っている。
新潮文庫版『カラマーゾフの兄弟』に挫折した人々でも、
こちらの版ならおそらく読み通せるのではないだろうか。


これ以外でもカントの新訳なども優れており、
また最近の光文社新書
非常に良いラインナップを誇っている。
宮崎哲弥が褒めていた
『日本とフランス 二つの民主主義』は、
若干褒め過ぎの気もするが中々面白かった。
同新書の仲正昌樹
『日本とドイツ 二つの全体主義
『日本とドイツ 二つの戦後思想』
も面白い本であった。


光文社はカッパ・ブックスのイメージのせいもあってか、
こういう堅い本とは無縁であると偏見を抱いていた。
また、あまり経営状態が良くないらしく、
若い編集者が多く、
その多くは定年を待たずして他者へ転職するという話を
人づてに聞いていたので、
そういう余裕も無いと思っていたが、
こういう良い仕事をしていたようだ。


もっとも、現在の岩波も良い仕事もしている。
編集者の教養水準が高いためか、
装丁のセンスは良いし、物が書ける人も多い。
例えば最近では小熊英二や馬場公彦などだ。
期待外れの多い新刊にあっても、
アドルノ、ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』を
岩波現代文庫ではなく岩波文庫で出版しているし、 
松本礼二によるド・トクヴィル
アメリカのデモクラシー』の新訳はとても良かった。
まだ第一巻(全二巻四分冊)しか岩波文庫から出版されていないが、
おそらく決定版になるのではないかと思う。
ド・トクヴィルはルソーに比べるとマイナーだったせいか、
既刊の訳の評判があまり良くなかったので喜ばしい事だ。


だが、一方で岩波の『世界』はますます閉鎖的になっているし、
それに伴って執筆陣の水準も下がってしまった。
一番致命的であったのは例の拉致事件であったように思う。
あの頃になお『世界』は和田春樹東大名誉教授の
拉致事件マボロシ論を掲載してしまって、
『世界』で執筆していた学者や評論家からも見放されてしまった。
この件に関してある朝鮮研究家が岩波の編集者に
謝罪を勧めたそうだが黙殺されてしまったそうだ。
笑えない話だがまるで大本営のようである。
しかも未だに彼らは謝っていない。


昨今捏造報道が問題になっているが、
『世界』に連載されベストセラーにもなった『韓国からの通信』は
T・K生という韓国人が書いたことになっていたが、
実際は日本に居た安江良介池明観
まったくの想像で書いていた事が明らかになっている。
これすらも未だ読者に対して謝罪をしていない。
今となってはどうしてソ連や中国を平和勢力と見なしたり、
北朝鮮を美化してきたのか、
ただ不可解な歴史的事実として残るばかりである。


最近の本を読んでいてしみじみと感じられるのは、
現代はもはや戦後を同時代として
語ることが困難になっている事だ。
戦後思想家ですらすでに三代を数えるようになり、
一代目の巨人達……丸山真男竹内好といった人々の姿が、
もはや影すら留められなくなっている。
彼らの批判者たる二代目すらすでに忘れ去られつつある。


傷が生々しく残っていた50年代の戦争論ですら
すでにあの戦争を同時代の出来事として語る事が
甚だ困難になっているという記述がある。
戦前はもちろん80年代以前の戦後社会ですら、
若い人々にとっては異世界のように思えるのではないか。
少なくとも我輩が古い『世界』などの雑誌を読むと、
とても同じ国のようには思えないからである。
正に隔世の感というものを覚える。 


まったく今日ほど偉大な時代があったろうか。
名を竹帛に垂れても、
半世紀と立たずして下ろされる。
金枝篇』の年老いた王が首を刎ねられ、
若き王が黄金樹の枝を折るように。
およそ知識というものに歴史性が失われてしまったか、
或いはその歴史性に人間性が宿っていないだけなのか。
人は歴史の中に位置づけられるが、
しかし人が歴史を作っているのではないのだろう。
歴史それ自体が歴史を作り、人を動かしているのだ。


19世紀から20世紀にかけての思想は
この歴史や時代という化け物に立ち向かった。
マルクスの「自己疎外」論などはその典型であろうが、
全ては歴史の闇の中へ消えて行った。
あるのは残留思念の如き断片だけである。
19世紀に幽霊の如く共産主義
立ち現われるであろうとマルクスは言ったが、
今日のそれは亡霊や悪霊のようなものとなっている。
未だ共産主義に未練を残している人間は多い。
彼らはドストエフスキーの『悪霊』の原題通りの意味、
つまりは「憑かれたる者」であろう。


我々は流れるままに流れるしかないのであろう。
逆らわば飲み込まれ、乗れば押し流される。
ファシストが跋扈すればファシストとして振る舞い、
マルキシズムが流行ればマルキストとして生きるしかないのだろう。
時代に生きる者に選択の余地は無い。
それを拒絶すれば「反時代的」という烙印が捺されるだけだ。
斯様に歴史とは非人間的所為であるが、
それを否定する事すら叶わない。
まことに偉大な、高き時代であるが、
同時になんと難儀な時代であることか。


テヅカ・イズ・デッド」と言った時、
それはマンガの死を意味しない。
否定によって逆説的に逞しく再生しようとする、
そういう野心な試みなのである。
比して今日の思想においては、
イワナミ・イズ・デッド」と叫んだ時、
まさにそれは思想の死を、論壇の崩壊を意味した。
知識人は時代を先行く先導者ではなくなったのだ。
もはや時代の本流からは逸れてしまった。
細り切ったかつての大河は
やがて支流と共に絶えてしまうのだろう。


反岩波の知識人は自己の闘いの結果
と信じたがそうではないだろう。
言論の正しさによるのではなく、
時代がそれを許さなかったというのに過ぎない。
正しさも誤りも時代が傍証するのだ。
人々はもはや知識人という人種を信じず、
またそこに価値を認めとようしない。
勝利の美酒を得る事が叶わなかった人々は、
復讐によって満足を得るか、
はたまたありもしない敵を語って
英雄となろうとするか。


こうした屈折し歪められた願望は、
なお過去の夢物語にしがみつく者、
空を斬るが如き悪夢に魘された者を生み出す。
思想ほど人を突き動かすものはないが、
同時にこれほど人に重石を背負わせ歪ませてしまうものはない。
言論とはまったく痛々しく空虚なものだ。
しかし、何事も空白を嫌う。
この喪失の後に何が現われて来るのだろう。
しかしてこの寂莫たる荒野に
なお種を蒔く人は果たして居るのだろうか。
そして、その種は受け入れられるだろうか。
 

思想というものに触れ続けて思うことは、
知的であること、理性的であることの難しさだ。
これは本当に難しい。
人々は理知的であることよりも、
誠実である事を求めてくる。
彼らの理想や希望に忠誠を誓わされるのだ。
いや、理知的であること、
これすらもある意味では誠実さの呪縛にとらわれている。
理性にわれわれは屈服され服従を強要されているのだ。
人々はひたすら自由からの逃亡を図り、
誠実に従属する道を歩んでいる。
斯くして思想的営為は無為無用な上に
極めて困難なものになってしまった。
この事が良いのか悪いのか、我輩には分からない。