現代民主主義の理論家たち

近年、パットナムによる「ソーシャル・キャピタル」概念の提唱によって、トックヴィルが『アメリカの民主政治』で賛美した共同体の価値が見直されつつある。また、ポーコックによって古典的共和主義思想の見直しと共に、マキアヴェッリなどの共同体主義的な主張が再評価されている。


「公共性」の再評価では、アマルティア・センが民主主義の持つ普遍的な価値や人間的自由や平等いった人権が貧困の克服に重要であり、また有効であることを指摘している。センは民主主義の普遍的な価値を強調して、人間生活における自由と人々の政治参加の民主主義が持つ本質的重要性、政治的インセンティヴを高める民主主義の手段的重要性、価値観の形成、欲求や権利、義務といった基本的な理念について理解を生み出す民主主義の構成的役割の三点を挙げる。「自治の基本はすべての人が自由に発言し、市民として同等の価値を認めてもらうことだった」というネルソン・マンデラの言葉を引きつつ、政治参加の平等や自由な市民としての積極的な活動が経済発展にも寄与するのだと力説する。開発独裁国の弁明である「アジア的価値」や「西欧的価値」は歴史的検証に堪えられない批判し、「間違った他者意識が間違った自己意識を導き出す」と警告している。


トクヴィルもまた『アメリカの民主政治』で「共同体は、連合した人々の存在する所にはどこにもおのずから共同体が形成されるほどに、自然のうちにある唯一の団体である。したがって共同体的な社会は、その慣習とその法律とがどのようなものであるにせよ、すべての民族に実在しているのである」と述べている。また、人権と経済発展の可能性に関しても示唆的な記述が見られ、「自由は財物を破壊するより以上に何千倍も財物をふやすのである。そして自由を知っている諸国民では、人民の資力は常に税金よりも一層急速にふえてゆく」と自由の価値を強調する。


現代イタリア政治の研究者であるパットナム、19世紀アメリカの観察者であったトックヴィル古今東西の知識を駆使しつつ西欧中心主義やアジア特殊論に組みしないセン、とそれぞれ時代も分野も異なる論者たちの意見は根底において繋がっているように思われる。つまり、有効な民主主義は「社会経済的近代化」に関係しているという仮説と制度パフォーマンスには「市民共同体」すなわち市民的関与と社会的連帯とに相関を見出している事だ。


センが「アジア的価値」に批判的であってように、パットナムは市民共同体を小さな親密な前近代的な社会に結び付けるのは誤りで、むしろイタリアにおいて市民度が最も低いのは伝統的な南部の村々に他ならず、伝統的な共同体の住民エートスは理想化されて描かれるべきではないと述べている。市民的な州ほど経済的に豊かな状態から出発したわけでもなければ、そうした州が必ずしもより裕福だったということもない。市民的な州は、十一世紀以来確実により市民的でありつづけたということである。これらの事実は、市民的な積極参加が経済的繁栄の結果にすぎないという考えとは両立しにくい。


新しく設けられた諸制度が上手く作動する場合もあればそうでないのもある。何が制度パフォーマンスのこうした違いを説明するのか。パットナムはそれを社会資本で説明する。経済における近代性とは異なって、ここでパットナムは「自発的協力が社会資本によって促進される」具体的な実例として前近代的な回転信用組合、日本で言うところの「頼母子講」を挙げている。これは成員が定期的に資金を供出して積み立て、順次相互に融通し合う金融システムであるが、共同積立金を手にした途端に裏切るリスクやこうしたリスクを抱えつつも始めに資金を出すものが何故現われるのかといったジレンマを抱えている。参加者はこうしたリスクを知悉しているが故に、信用できる人物しか組合に参加させようとしない。こうしたことから、組合でのプレー以前の過去の行動が社会資本として自発的協力に寄与している事が分かる。社会規範やネットワークといった他の形態の社会資本も、使うと増え、使わないと減る。そして、社会資本の構築は容易ではないが、社会資本は、民主主義がうまくいくための鍵となる重要な要であるとパットナムは結論付ける。


民衆が堕落していない国家では万事が容易に処理される。平等のあるところでは君主国は樹立しえないし、平等のないところでは共和国は成立しえない」というマキアヴェッリの言を引いて市民的平等をパットナムもまた強調している。「ある社会の『慣習』とその政治的実際との間の結び付きを強調する。例えば、市民的自発的結社は、安定した実効的な民主的制度に不可欠な『心の習慣』を鍛える」市民の水平的な結びつきが重要だからである。「有効で応答的な制度は、市民的人文主義の用語で言うところの共和的な徳と実践に依存する。トクヴィルは正しかったのだ。民主的な政府は、政府が活力ある市民的社会と面と向かうとき、弱まるのではなく強くなるのである」。要するに制度は法律によって強められる一方で風習によって一層強められ、社会全体に絶大な影響力を持つようになる。悲観的に裏返せば、そうした風習や習慣の無い地域ではどのような制度改革も上手くいかない可能性が大きい。


この種の信頼関係において指摘されるのは集合行為のジレンマや囚人のジレンマといった裏切りや不信の問題である。しかし、パットナムはむしろゲーム理論が予期するほど非協力的行動が現われない理由の方が重要なのだと指摘する。協力はプレーヤーの無限繰り返しゲームの場合にいっそう容易となり、その結果、裏切り者は継続的に繰り返されるプレーで処罰に直面する。つまり、ゲームの繰り返し=相互関連性の増大は裏切りのコストを高め、結果として裏切り者が現れる事を抑止するようになる事をあげている。長期間わたって交換を繰り返すと一般化された互酬性の規模は強まる傾向にある。トクヴィルの言うところの「正しく理解された自己利益」であるが、こうした見方はセンの言う「合理的な愚か者」の裏返しであるとも言える。


パットナムもセンも共同体を重視しているが、民主主義を賛美する一方でそれを「多数者の専制」と呼んだように、トクヴィルは大規模で複雑な状況では、いっそう非人格的、あるいは間接的な形態の信頼が必要とされると述べて社会や共同体の専制性を指摘している。全体という意味での社会や共同体、国家や権力というものの難しさは、歴史家アクトンが言うように「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」のだが、権力の欠如もまた同程度に危険である事だ。トクヴィルは前者を圧制、後者は無力によって滅びるという風に述べている。権力による窒息も、権力の真空状態も破滅の病症に違いは無い。前者は責任を絶対的少数に押し付けることによって、後者は誰もが責任回避を図ることによって、無責任を助長する。良き権力とは力強い事でも、また逆に弱い事なのでもなく、責任を有している事なのである。


おそらく解きえない問題というものがある。公と私、自然と人工といった二分法の陥る過ちと同じで、個人のものとも全体のものとも言えぬ物事は存在しているのであり、全体の事柄は部分からは還元されない。個はどこまでも断片なのであって、全体は個と似ても似つかないものなのである。だからこそ、中間にある全体(社会/共同体)は個と全体を有機的に結び付ける作用を持っていると言えるのだろう。なぜならこうした小権力は生身の人間によって可視的に行われ、理解されるからである。統治の効率が高まれば高まるほどに、こうした共同体への欲求は益々強くなるであろう。


●参考文献
アメリカの民主政治』(A・トクヴィル 講談社学術文庫
『哲学する民主主義』(ロバート・D・パットナム NTT出版)
『貧困の克服』 (アマルティア・セン 集英社新書
『人間の安全保障』 (アマルティア・セン 集英社新書
アメリカとは何か』(斎藤眞 平凡社ライブラリー