mixiにおける(擬似)社会の観察

昨年はソーシャル・ネットワーキング・サービス(略称SNS)の「mixiミクシィ)」を巡るニュースや事件が相次いだ。それらの多くは世情を騒がすような大ニュースではなかったのだが、世人の大きな関心を買ったと言う意味では重大であった。一種のネズミ講のように成員を増やすこのシステムは無料サービスである事も手伝ってか、加速度的に加入者を増やし、現在では数百万人とも言われる利用者が存在している。現代の都市が過密化によって諸々の問題を発生させたように、一見無限の空間が広がっているかのように思えるインターネットの公共的な空間(コモンズ)でも増え過ぎた事による病症が見られるようになった。


例えば、三洋電機の社員が利用していたパソコンでファイル交換ソフトウィニー」を使用していたところ、ウィルスに感染し、業務資料の他、恋人の猥褻な画像が外部に流出する事件が起こった。ここまではそれまでの情報流出事件と大差が無かったのであるが、この事件においては流出した画像がミクシィにある無数の掲示板に張り付けられた事が大きな問題となった(なお、この社員も被害者である恋人もミクシィの加入者であった)。この事件では「亜門」と名乗る人物が管理側の度重なるアカウント削除にも関わらず、何がしかの脆弱性をついて極短期間の内に再三現われては掲示板にその画像を貼り付ける行為を繰り返し、終息後も大きな余波を残した。この「亜門」と名乗る人物は日本経済新聞朝刊の社説でも取り上げられ、「怪人」と称せられて注目を浴びた。ミクシィをはじめとするSNSに対する安全性の信頼も大きく損なわれてしまった。運営側も事態を重く受け止めているようで、それまでは本名での登録を推奨していたのだが、ヘルプに注意書きが付け加えられる事になった。


幸いにもこれほど大きな事件にはならなかったのだが、学生による事件も起こった。事の発端は学生Aが自分の日記に友人の学生Bに自分の車を貸して練習させた事を無免許運転と記した事だ。詳細まで読めば分かるのだが、運転の練習自体は構内の駐車場で行われたようだから、「無免許運転」というのは事実ではなくて“レトリック”に過ぎなかった。が、どういう経緯で知ったのかは不明だが、あるユーザーによってその日記がキャプチャとして画像化されて、ミクシィ内の大学所在地や大学に関連するコミュニティと呼ばれる一種のサークルの掲示板に多数掲載され、「2ちゃんねる」と呼ばれる掲示板にも転載され、大学と学生Aの内定先の企業に抗議の、あるいは悪意ある電話が寄せられた。この一件で内定が取り消されたり、学校側から処分されるような事はなかったのであるが、この学生の所属する大学の学内誌ではこの一件とSNSを利用する際の注意が載せられたそうだ。


交通量が増えれば増えるほどに交通事故は起こり、如何に啓蒙活動をしようと飲酒運転がなくならないように、この種の事件やインターネットに起因する事件や事故、トラブルは普及の深化に比例して増えると考えられる。一般的には特に匿名性などが大きな問題として扱われ、インターネットの特殊性が強調されがちである。「ゲーム脳」などという流行語や「現実と虚構の区別が付かない」といった類の議論にも見られるように、現実の、生身の社会とは違った異質な社会を想定している。特殊性の強調は負の部分だけではなく、この種の技術を賛美する向きにも散見される。


IT革命やユビキタス社会、「Web2.0」、グーグル革命、アマゾンにおける「ロングテール」。この分野のキーワードは百花繚乱如く次々に生み出されては消費されている。ベストセラーにもなった梅田望夫の『ウェブ進化論』はIT技術の革新が実現するという未来像がバラ色に描かれている。こうした考えは、技術は人や社会を規定する、変化させるという認識に基づくと思われるが、果たして本当にそうだろうか。梅田は「これからはじまる『大変革』は着実な技術革新を伴いながら、長い時間かけて緩やかに起こるものである。短兵急ではない本質的な変化だからこそ逆に、ゆっくりとだが確実に社会を変えていく。『気づいたときには、色々なことがもう大きく変わっていた』といずれ振り返ることになるだろう」と自信満々に予言する。確かに無料のサービスは増え、しかも質は大幅に向上した。ネット上にある技術はどれも便利なものばかりである。だが、そうした便利さが人や社会の本質を変えてしまうほどに「革命」的なのだろうか。表題にもあるように梅田はこうした諸々の技術革新を「進化」に見立てているのだが、そもそもそうした「進化」という見方すら疑義を挟み込む余地がある。


「自生的秩序」など独自の経済学理論を打ち立てたF・A・ハイエクと「棲み分け論」で知られる今西錦司が対談した対談録『自然・人類・文明』に「進化」や「社会」に対する面白い見方が載っている。ハイエクダーウィニズムを批判して「進化論に法則性があるという考え方はまちがいで、そんなものはない」と言い切る。そして、文化や社会は「自然のものでも人工的なものでもなく、また遺伝的に伝達されるのでもないし、合理的に設計されるわけでもない」。人間のはっきりした特徴(本質)は「模倣し、習得したことを伝える能力」であり、「脳は文化を設計することでなく吸収することを私たちに可能にさせる技術」であると言う。ハイエクは優劣があってセレクションがありうると考えたが、今西はそうした見方すら批判的である。「すぐれているから生きのびるのではなく、運が良かったから生き残る」と適者生存や自然淘汰を批判して、進化については「変わるべくして変わるのである」と考える。こうした見方はダーウィニズムだけでなく、経済学などの合理的選択理論とすら真っ向に対立する。


要約すれば、プラスに評価しようが、マイナスに評価しようが、それは同じ意味で過ちを犯していると言える。技術は人の本質を変化させるようなものではない。確かに「産業革命」などの技術革新は人の生活様式を大きく変えてきたが、それが本質的な変化といえるかどうかは疑わしい。「ネットの世界」も「リアルの世界」も人間の本質、社会の断片に過ぎないのであって、それは延長線上に在るものである。「ネットの社会」は抽象的であるが故にかえって諸々の具体的なモデルがあてはまりやすい。しかし、個体差というのは確かにあるが、種なくして個体が存在し得ないように、それによって還元する事はできない。ある島国家が半島や大陸に植民地を得たとしても、その国自体が半島国家や大陸国家になったとは見做されない様に、新しい部分が古い部分や全体を書き換えてしまうような事は少ないのである。あくまでも追加要素は部分的であり、時として連関的に変化を促すのに過ぎない。技術革新が時として齎す飛躍的な性能の向上すらも、効率の良い代替品に過ぎないのであって、我々が期待(想像)するような「進化」と呼べる次元のものではない。そもそも技術というのは補助的な意味合いが強いのである。


インターネットにおけるコミュニティは以上のような理由からとりたて特殊なものではないと考えているが、単純化、抽象化しやすく、コミュニティや集合行為のジレンマ等のモデルが当てはめやすいので、その可能性やあり方について考察する。


まず、いくつかの用語説明をしなければならない。事例として取り上げるのはSNSのミクシィである。これは一種の会員制のコミュニティであるが、その内部に「コミュニティ」と呼ばれる一種のサークルが存在している。公開制限などの機能が搭載されており、参加に管理人の許可を必要とする場合や、参加者しか閲覧できないようにする事が出来る。こうした公開制限は個体にも適応されていて、一種のブログのような日記機能があるのだが、これの公開は三段階に分かれている。「マイミクシィ」という一種の個人別の会員のようなものがあり、先のコミュニティの参加者が組合員と言えるなら、単純に言えば「友人」のようなものである。実際、日記の公開制限は「友人」と表記され、このマイミクという単位を基準に<全体>に公開するもの、<友人のみ>に公開するもの、<友人の友人>にまで公開するものがある。コミュニティにしてもマイミクシィにしても自分のページに一覧が記載されるから、彼を中心にしたネットワークが可視化される。マイミクシィマイミクシィは自分のマイミクシィであるかもしれない、あるいは自分の参加しているコミュニティの参加者かもしれない。つまり、このネットワークは重複や複雑に連関しあっている。先の事件で悪用された掲示板のほか、コミュニティにはアンケートやイベントの告知などの宣伝の機能がある。こうした事から、SNSは一種の口コミのマスコミとして情報入手の手段としても利用されている。人との交流を目的とする者も居れば、単に情報を得るための手段に過ぎない者や、ただ宣伝するための業者なども居り、動機は様々である。マスメディアでも頻繁に採り上げられて流行語にもなった上に、金銭的コストは基本的にゼロだから参加も気楽であったはずだ。パフォーマンスの質が強調されがちだが、人は得るものよりもコストを気にかける。失うものが大きければ、たとえ得るものが大きくても、それ自体がリスクとして抑制の機能を果すからだ。こうした事からコスト高と相互不信は最悪の悪循環をもたらす。我々は本質的に保守的なのであり、あらゆる革新には多くの余剰的な要素や利益を必要としている。


さて、具体的な事例に入りたい。私が注目したのはコミュニティ運営のあり方であった。このコミュニティは欠陥が多く、また、成員や管理者によって著しいパフォーマンスやガヴァナンスの違いが見られた。コミュニティを設立した者が自動的に管理者となるから、一種専主制のような所があり、成員の追放や書き込みを削除する権限も持っているから専横な圧制者と化す管理者も居た。逆に成員を纏め上げる能力が無いために秩序を保てない所や、いくつもの管理者を掛け持ちしている場合や、あるいは無責任さからまったく放置される場合もある。時には管理人権限を委譲せずに退会してしまって、悪意あるアウトサイダーの標的となる場合もあった。パットナムは『哲学する民主主義』で「共同体の指導者は、自分たちの仲間市民に責任を負わねばならないし、自分たちがそうした存在だと自認する必要もある。絶対権力も権力の欠如も、ともに腐敗しうる。というのも、どちらも、無責任の感覚を次第に教え込むからである」と述べているが、これは見事なまでに当てはまる。行き過ぎた統制もまったくの放縦放任もパフォーマンスや秩序を保てないという意味では同様であった。時には運営側に対する激しい抗議すらなされたようだ。もっとも運営する企業の人員には限りがあり、明確な規約違反行為が無い限り放置された。無力感というのは明確に統治(自治)のパフォーマンスを押し下げる作用がある。能力を伴わない責任は常に悲劇的帰結しか齎さない。こうしたコミュニティでは秩序が崩壊(アナーキー)するか、あるいは管理人や運営企業への反発からまったく寂れてしまった。まさしくそこではコモンズの、共有地の悲劇が起こっていたのだ。

市民積極参加型のネットワークの場合どのような取引であれ、個々の取引における裏切り者には潜在的コストが高まる。機会主義は、将来の取引から得られる利益ばかりか、現在関係しているほかの取引から獲得しうる利益までも危険にさらす。


市民的積極参加のネットワークは、互酬性の強靭な規範を促進する。多くの社会的文脈で交流し合う仲間同士は、「多くの相互補強的な出会いのなかで相互に許容しうる行動の強い規範を発達させたり、自分達の相互的な期待を互いに伝え合う傾向にある」。これらの規範は、「約束を守るとか、また地元社会の行動規範の受け入れといった評判の確立に依拠する諸関係のネットワーク」により強化される。


市民的積極参加のネットワークは、コミュニケーションを促進し、また諸個人の信頼性に関する情報の流れをよくする。市民的積極参加のネットワークにより、評判が伝えられ、さらに評判が高まる。既に見たように、信頼と協力は潜在的パートナーの過去の行動と現在の利害に関する確かな情報に依存するが、不確実な情報集合行為のジレンマを広げる。このように、他の条件が同じであれば、当事者間のコミュニケーション(直接、間接)が多いほど、彼らの相互信頼も深まり互いに協力しやすいことに気づくであろう。


市民的積極参加のネットワークは、協力がかつてうまく行ったことの表れである。それは将来の協力に向けて文化的に規定された梁の役割を果しうる。「文化的フィルターは、継続性を与え、過去の交換問題に対するインフォーマルな解を現在にまで持ち越し、そうしたインフォーマルな制約を長期的な社会変化における継続性の重要な要因にする」。


『哲学する民主主義』(ロバート・D・パットナム NTT出版)
216ページより引用

こうしたパットナムの結論や議論の多くはSNSのコミュニティにも当てはまる。私の観察するところ、SNSのコミュニティの運営においても、良い管理者の周りには常に良い協力者が必ず何人か居た。興味深い事に彼らは必ずしも管理者とマイミク(友人)関係にあるわけではなかった。良い管理者は様々な試みを行っている事が多く、その手法は必ずしも類似しないが、概して公的な(暗黙ではない明示的な)ルールを設け、自己に与えられた権限の行使には慎重である事が多い。これは関与に消極的であるという意味ではなく、ルールをあらかじめ示した上で事例を蓄積させ、経験や周囲の意見によって柔軟にルールを変化させる。中にはそういうマニュアルやルールをログとして残して権限行使のログを採る者も居た。関係性や解決策のメモリーがパフォーマンスの向上に寄与しており、その蓄積に比例してそうした向上や秩序の強靭さが見られた。また、時間的経過が長いほどそのコミュニティは強固であった。まるでTVゲームのような卑俗な表現になってしまうが、経験値というものが確かにあるのだ。成員の平等意識は強く、どんなに正当なものであっても理由を示さずに強権を揮うことは概ね忌避される。それ故に限られた少数の人間の能力ではなく、全体(集団)の能力が問題となる。コミュニティにおけるコミュニケーションの量は確かにパフォーマンスを向上させている。というのも、そうしたルールメイキングから挨拶まで程度の差はあれ協力(信頼)関係を強くするからである。また、良い管理者のコミュニティではアウトサイダーの攻撃や危機に強い傾向が見られ、一時的な混乱からの回復の可能性も概して高く、回復の速度も早い。裏返して言えば、一度破綻した国が貧困を脱する事が困難な様に、上手く行った試しがないコミュニティは将来においても上手く行かない算段が大きい。


パットナムの示唆は現実生活やこうした趣味に属するような部分にまで教訓を与えてくれるが、一方でインターネットにおけるコミュニティではこれに当てはまらない幾つかの事例が存在した。まず、インターネットにおけるコミュニティでは、パットナムがソーシャルキャピタルの指標として示したようなクラブやサークルはさほど当てにならない。SNSにおけるコミュニティは確かに成員となるのに手続きは踏むものの大抵は簡易であり、社交性を向上させる働きは疑わしい。また、上限が1000までと多く、たとえ100のコミュニティにしか参加していなかったとして、一日に平均して10件のトピックが上がったとしたならば、1000件もの記事を見なければならない事になる。物理的に考えて、積極的な参加は不可能である。また、都市社会学の論者達が言うような、属する準拠集団や中間集団が多ければ多いほど極端な意見を述べなくなるといった類の肯定的評価も当てはまらない。多くのコミュニティに入っていれば入っているほど、むしろ積極的に参加しない傾向があり、一種のプロフィールや看板のように扱う者も居り、こうした無関心は無責任を誘引しやすい。彼らの多くは自分の参加しているコミュニティが問題になっても気が付かないどころか、時には解散していてすらも気づかない。ファシズムや独裁を防ぐとされている中間集団はむしろ悪い意味で機能しているようである。


加えて数の問題も深刻であるように思われた。現在では10万人が参加しているコミュニティは珍しくなく、そのような密集状態においては情報の過密の問題一つをとってもパフォーマンスを押し下げ情報コストを引き上げる要因となっている。このことに関してはモンテスキューの所謂「小共和国論」が大きな示唆を与えてくれる。「共和国が小さな領土しかもたないということは、その本性から出てくる。そうでなければ、それはほとんど存続しえない」この公理はアメリカ連邦の誕生によって否定されるものであるが、今日の共同体においても当てはまるように思われる。積極的な参加は評価される事が多いが、数の多い集団において参加が積極であればあるほどコスト的に負荷をかける。当然の事ながら人間自体の情報処理の能力には限りがあるからだ。また、こうした大集団では権力は余りに分散してしまって、かえって管理者の権限を強めしまう結果を生みがちである。管理人の存在は一人であるから特定的(可視的)だが、全体を把握する事は不可能に近い。この可視的な領域と不可視的領域のギャップが問題の根幹にあり、しかも解決は不可能に近い。この可視的である事というのは生身の姿が見えると言う事ではなく、固定性やそれが特定可能かと言う事が重要である。


いくつかの考察と観察の結果、実際の生活の共同体において当てはまるものが、ネットの共同体においては当てはまらないものがあると同時によく合致するものも見られた。結論として、匿名性は確かに脆弱性の最たるもの一つであるが、コミュニティの存在を許さないほどの脅威ではない。実名と匿名かといった議論は無意味なのであって、アクターが特定でき、その行動のログや諸アクターの関係性のメモリーさえ蓄積されれば、豊かなコミュニティのパフォーマンスを実現する事は出来るのである。技術が変化させるのは人間自身の本質などではなく、人間の環境を変化させる。植物が環境の変化に沿って不可逆的に遷移する(あるまとまった群生が環境に従属して相を形成する)ように、表面的な形態は変わっているように見える。しかし、空を飛ぶ自動車と普通の自動車には大きな概念変更すら迫りうる相違があると言えるが、最高速度100kmの車と200kmの車の間に根本的な差異があるかと言えば無いだろう。人間の生活における利便性は規定性を支配するほどには強くないし、根本的でもない。航空機と車には大きな違いがあるように見えるが、交通手段と言う意味では大差が無い。それが違うと言えるのはそれが支配する、あるいは属する領域の違いによっているのである。つまり、根本的な変化が齎しているのは古い部分や全体の変換ではなく、新しい領域を作る事にあるのだ。そういう意味において、今日多くの分野で「脱領域性」が強調されているが、そうした見方は間違いであり、「領域」の重要性はこれからも不変である。


●参考文献


『哲学する民主主義』(ロバート・D・パットナム NTT出版)
アメリカの民主政治』(A・トクヴィル 講談社学術文庫
ウェブ進化論』(梅田望夫 ちくま新書
『自然・人類・文明』(F・A・ハイエク 今西錦司 NHKブックス)
社会的ジレンマのしくみ』(山岸俊男 サイエンス社
アメリカとは何か』(斎藤眞 平凡社ライブラリー