宮台真司「試される憲法」

以前、我輩は所説の疑問としてエントリにまとめたが、
今回は明瞭に批判である事を明記しておきたい。
昨今の彼の言動は目にあまるからである。
しかも、性質の悪い事にそれを支持している人も少なくないようだ。
迷信の時代は、知っている以上のことを
 知っていると人々が想像する時代なのです
とかつてハイエクは述べていたが、
宮台氏は余りに多くの事柄に首を突っ込みすぎているせいもあろうが、
この迷信の定義が見事に合致するようである。
誤解を恐れずに言えば、「ミドルマン」の重要性を指摘する彼自身が
ミドルマンとしての機能を果たしていないのだ。
(専門家としての評価は言うまでもあるまい)


アメリカの一人勝ちのグローバル化に抗すべく、
 弱者連合の思想である亜細亜主義の本義が生かされる時が来た
 朝日新聞03年8月18日付夕刊、
 日本経済新聞06年10月1日付朝刊「風見鶏」より孫引き


この発言をはじめて耳にした時、
我輩は少々厭きれてしまった。
どうにも反米を中心点にこの種の発言をする
右派と左派は鏡映しになっているだけなのではないかと思う。
お人好しの国などこの世界には存在しないのだから、
各国が各国の国家エゴに基づいて行動して何が悪いのか。
右も左もアメリカに甘え切ったお坊ちゃん思考に相違無い。
大体、自立を選んだとしてそれを妨害してこないとどうして言い切れる。
自立するには自立に見合った力を前提としているのだが、
その種の発言をする人々はそれを考慮しているとは思えない。
大国に挟まれ自立が困難なモンゴルのように
アメリカと同盟関係を結びたくても結べない国はあるし、
イラク(中東)をめぐってのフランスとアメリカの対立のように、
ほとんどの国家はその力の許す限り自立を目指すものなのであって、
それは必要だとかそういうレベルの話ではない。
日本が自立するには中国が日本以上に大国化しない上に、
在日米軍が撤退する事が条件であるが、
仮に中国が現在の経済成長を持続させた場合、
アメリカは覇権の挑戦者となるであろう中国を封じ込めるために
在日米軍を駐留させ続けるだろう。
いずれにせよ過去においても現代においても
アジア主義というのは取り得る選択肢ではない。


武装・自立か、軽武装・依存か。それが国際政治の常識です。
 軽武装・中立には、コスタリカのような傑出した外交能力が要ります
と彼は言うが、NATO加盟国には核すら持っている国が居たと思うが、
残念ながらその国が軽武装・依存であるとは聞いた事がない。
武装でありかつ依存的と言う可能性もあるのだ。
アメリカとNATOが無くなってしまえば、
おそらくヨーロッパは新たな動乱の時代を迎える事になろう。
このジレンマを何より自覚しているのは、
表面上はアメリカに挑戦しているように見えるフランスだ。
彼らは如何に抵抗した所で最終的にはアメリカに頭を垂れる宿命にある。
何故ならフランスはもはや大国などではなく、
ヨーロッパにおいてアメリカの代わりを務める事など不可能だからだ。
しかも、フランスは現在ですらドイツを信用しきっている訳ではないし、
(そもそも東西ドイツ統一に最後まで難色を示したのはフランスである)
イギリスやイタリアといった周辺国もフランスの台頭は望まないだろう。
ついでに指摘しておくが、コスタリカ米州機構の加盟国であり、
アメリカを除く周辺国との相対的な軍事力において軽武装とは言えない。
そもそも、国連という機構の誕生以後において、
厳密な意味での中立国というのはほとんど存在しないのではないか。


政治家たちにはむしろ吉田茂(元首相)の本懐に立ち戻るべきでしょう。
 平和憲法を与えた米国が一九四八年に占領政策を転換すると、
 吉田は「憲法上できない」と再軍備を拒否、代わりに基地提供を申し出る。
 それが安保条約です。復興優先で軍備に回す資金がなかったし、
 米国の言うまま出兵して死者を出したくなかったし、
 アジアを敵に回したくもなかった。平和護憲ならざる取引護憲
と彼は言うが、吉田首相に護憲の意識は薄かったと思われる。
なお、朝鮮戦争には海上保安庁の掃海艇が秘密裏に派遣されており、
しかも触雷で殉職者まで出している。
要は、永井陽之助が80年代に使い始めた
吉田ドクトリン」の事を言っているのだろうが、
それは経済大国になってからの結果論過ぎない上に、
吉田自身は「『経済中心主義の外交』なんてものは存在しないよ
と後に述べている以上、この論は牽強付会に過ぎる。


近年の現代史の議論では
通俗的55年体制や吉田ドクトリンと言うのは批判の対象となっており、
池田の高度成長路線というのも青写真は岸政権時に作られており、
事実上岸と池田を以って55年体制の始まりと見るべきとすらされている。
大体、経済中心の池田にしても元々はタカ派だった。
吉田にしても、池田にしても、岸にしても、
骨の髄まで政治的なリアリストなのであって、
彼らはそもそも原理というものを持っていたかどうかあやしい。
リアリストというのは状況に合わせて変化させ、
理念や原則をリジットには守らないからだ。
吉田は9条が無くても再軍備を拒否したであろうし、
岸もまた自立よりも日米安保強化を決断したであろう。


集団的自衛権の許容』と『多国間枠組への従属』が必要だ
と宮台氏は述べているが、
その内容では現行憲法と何ら違いが無い。
前文において「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した」上に、
9条の「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」に繋がるのであるから、
本質的に現行憲法は自衛を禁じて、
他国が戦争してこないことを信頼しつつ、
あるいは起こったとしても多国間枠組に一任したと見るべきであろう。
(当時であれば国連軍を想定していたと思われる)
前日のエントリでも指摘しておいたが、
日本国憲法の平和主義は大西洋憲章第八項の
「“好戦”(交戦ではない)国の武装解除」が遠因となっており、
元より我が国自身の理想となるような性質ではないのだ。
大体、従属という言葉と国家主権(独立国家)は矛盾する上に、
そもそも、その「多国間枠組」とやらは何処にあるのか。
ありもしない枠組を前提するような戦略を立て、
しかもそれを憲法に織り込むなどまったくナンセンスだ。
悪名高い戦前の軍人達ですらそのような非現実的な戦略は立てなかった。
我々は過去の愚行に対して優越感を持てるのは、
ただ後知恵によるのであって我々が聡明であるからなのではない。
机上の空論とはよく言ったものである。


憲法は、国家への国民の意思を書いた『覚書』です
と宮台氏は言うがそう単純ではない。
カナダの事実上の憲法基本法)は、
植民地時代に制定された“イギリス”の議会の制定法である
立憲条例や連合法、英領北アメリカ法であったし、
現存する最古の成文憲法を持つアメリカにしても
あれは州が批准する一種の条約のようなものであって、
憲法とも国民の意思とやらが入り込む余地は無かろう。
カナダは特殊な事情が複雑に絡んでいるので、
例としてあげるのは少々不適切かもしれないが、
カナダが自主憲法を制定したのは実に1982年の事で、
しかもケベック州はこの憲法の批准を拒否した。
その後も何度か憲法を巡る動きはあったが
最終的な解決は未だ達成されていない。
しかし、カナダは日本のように逃げなかった。
宮台氏は十年早いなど政治家に対して言うが、
むしろ宮台氏や反対派諸氏に対して我輩は、
六十年逃げてまだ逃げるつもりなのかね、と問い質したい。
どうして白を白と黒を黒をはっきり言わないのか、
我輩には理解しかねる。
オレだけは本当の事を知っているんだとばかりに
自分だけ分かった振りをした所で何の意味もあるまい。


今度の国民投票法案を批判するのは勝手だが、
普通、ルソーの一般“意思”とは表記せず、
一般“意志”と書くはずだ。
こういう細かい点はおいておくとしても、
国民が何を意思するかです。ルソーのいう一般意思だから、
 日本人の大半がそう思っていると日本人全員が思えなければなりません。
 それには、国民の八割が投票して八割が賛成するといった
 圧倒的意思 が、示される必要があります
氏はこんな事が本当に可能だと思っているのだろうか。
大体、ルソーの一般意志などの直接民主制の理論は、
皮肉にもあのカール・シュミットによって
独裁に陥りやすいと明らかにされたと言うのに。
国民投票法案そのものの問題に関しては
『おおやにき』というブログの「最低投票率の問題
の説明が一番この種のエントリで説得力があった。
大体、桶は桶屋、テクニカルな問題は専門家が取り扱うべきであろう。
荀も瀚林に口を糊する人がみだりに自分の専門領域外に口を挟み、
挙句自分の専門分野が疎かになるのは如何なものか。
プロならプロらしくもっと禁欲的に振舞うべきだ。


我輩が嘆息を禁じえないのは彼の言説の劣化だけではない。
彼の言動を託宣のように賜る人々の存在である。
国家鮟鱇』というブログの知識人論で
インテリの言うことを嬉々として聞く人とは、
 Mっ気のある人か、話を聞く前から同意することが決まっている
 身内のインテリかインテリもどきのみとなり、
 どっかのカルト宗教の教祖と信者の関係と相似形になっていく
と述べているのは誠に遺憾ながら首肯せざる得ない。
彼らは神の代わりに進歩と理性を信仰しているのだろうが、
そのようなものは所詮迷信に過ぎぬのであろうから、
畢竟、彼らは迷妄の徒と化し、妄執の鬼となるに違いない。
我々は個々人が想像するほどには賢明ではないのだ。


実際のところ物事をありのままに見るというのは難しい。
カエサルが嘆息したように現実を見ていても、
見たい現実しか見ない人が大半だからだ。
それ故にその人の考え方(理想)を特徴付けるのは、
その人にとって見えるもの(現実)ではなく、
むしろ彼の視界を遮るもの、見えないものの方である。
ならば、宮台氏と彼の支持者達の視界を遮るもの、
見えないものとは一体何なのであろうか。
何にせよ彼の昨今の言説は受け入れ難いのであるが、
正直なところ彼の真意というのは未だ良く見えてこない。