福田恒存 D・H・ロレンス『黙示録論』

我輩はこの頃一つの命題に引きつけられている。
それは「誠実」という名の呪縛についてだ。
今日のネットの正義漢をなどもそうだが、
彼らは誠実さに突き動かされ、
他者を誠実さで突き立てるのだ。
ところが彼ら自身その誠実さの奴隷となっている事に気が付いていない。
個性というのもまたそうだ。
自身に忠実であろうという「誠実」さに惑わされている。
これらは誠実さのピューリズム(純化)と呼んでも良いだろう。


思想というものに触れ続けて思う事は、
知的である事、理性的である事の難しさだ。
これは本当に難しい。
人々は理知的である事よりも、
誠実である事を求めてくる。
彼らの理想や希望に忠誠を誓わされるのだ。
いや、理知的である事、
これすらもある意味では誠実さの呪縛に囚われている。
理性に我々は屈服され服従を強要されているのだ。
人々はひたすら自由からの逃亡を図り、
誠実に従属する道を歩んでいる。

哲学は自己自身が本質的に未確定なものであることを知っており、
善良な神の小鳥としての自由な運命を喜んで受け入れ、
誰に対しても自分のことを気にかけてくれるよう頼んだりもしなければ、
自分を売り込んだり、弁護したりもしないのである。
哲学がもし誰かの役に立ったとすれば、
哲学はそれを素直な人間愛から喜びはする。
しかし哲学は他人の役に立つために存在しているのではなく、
またそれを目指して期待してもいない。
哲学は自己自身の存在を疑うところから始まり、
その生命は自己自身と戦い、
自己の生命をすり減らす度合いにかかっているのであれば、
どうして哲学が自分のことを真剣にとりあげてくれるよう
要求することがあろうか。


オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫


哲学はただ自分自身のためだけにあると断言する
在野の哲学者オルテガは常に独りだ。
いや、本当の意味での哲学者、思想家、宗教家は
皆例外なく何時如何なる場合も独りであった。
寒林に独り住まう仏陀
愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。
 愛する人と会わないのは苦しい。
 また愛しない人に会うのも苦しい*1と我等に教え、
犀の角のようにただ独り歩め*2と説く。
我々が聖者足り得るのはただ独りの時のみである。
一度、群集の中に身を置き、
あまつさえそれを導こうなどとすれば、
たちまち彼は聖者ではなくなる。
彼は俗悪に染まったただの治者(政治家)に堕ちざるを得ないだろう。
我輩はその事が悪いと言っているのではない。
政治は集団にとって不可欠である。
あのイエスでさえ「カエサルのものはカエサル
と肉体(現実)の救済を放り出さざるを得なかったではないか。
斯くして肉と魂は分離し我々はそれに苦しむ。
しかも、宗教家は我々の内の肉に対して鞭を振るうばかりだ。
肉の欲求を否定し、肉の内に宿る力を弱めてしまう。
肉の救済に関しては「アナテマ(呪詛)!アナテマ(破門)」
と拒絶するばかりである。
我々が信仰に失望するのも無理は無い。


我輩が言いたいのは人間風情が他人を救おうなどと
思い上がった事を考えるべきではないと言う事だ。
乾きに苦しむ者はオアシスに導けば良い、
救いを求めるものにはそれを与えれば良い、
だが、しかし、である。
砂漠にあってなおさらなる荒野を目指す者、
オアシスから脱しようとする者、
楽土から出でて自ら修羅道を歩まんと欲する者、
そうした縁無き衆生を救う事など不可能ではないか。
求めざる者に何を与えよと言うのだ。
本当の意味での絶望とは度し難いものなのである。


本書『黙示録論』の訳者福田恒存はロレンスによって
己の思想を形成したと言っていたが、
彼らが何に戦ったのか、
それがこの一年間彼らの著作を読んでいて、
いつも心の隅で解けずにいた問題だった。
福田はロレンスの『黙示録論』に
「現代人は愛しうるか」という副題をつけた。
愛を説く福音書とともに
聖書に紛れ込んだ復讐の書『黙示録』。


「愛しうるか」という命題は
同時に「許しうるか」という命題でもある。
我々はなお他の存在を許しうるか、
そうでなければもとより他と結びつく事すら不可能だ。
ところが現代の個人主義は 他と結びつくどころか、
その結びつきに反抗しそれを重荷とすら感じている。
これが病理でなくて何なのだ、
とロレンスの口を借りて福田は問うてくるのだ。 

……ユダはいわばイエスの教えに内在する否定と遁辞とのために、
師を権力の側に売りわたさねばならなかった。
エスはその弟子たちの間にあるときさえ、
純粋に個人の位置を保っていた。
こころから彼等と交わったこともなければ、
行動を共にしたことすらなかった。
彼はいついかなるときにも孤独であった。
徹頭徹尾彼等を困惑せしめ、
ある点では彼等の期待に背いていたのである。
エスは彼等の肉体的権力者たる事を拒絶した。
そのため、ユダのような男のうちにある権力渇仰熱は
みずから裏切られるのを感じていたのだ!
ゆえに、それは裏切りをもって逆襲し、
接吻をもってイエスを売ったのである。
まったく同様にして黙示録は福音書に死の接吻を与えんがため、
新約のうちに挿入されねばならなかったのである。


D・H・ロレンス『黙示録論』ちくま学芸文庫


我輩が読んだ聖典の中で最も共感を覚えたのは
エスを売ったイスカリオテのユダであった。
異端の書「ユダの福音書」のようなユダ解釈によるのではない。
彼が余りに現実的な俗物であったからだ。
「ルカ伝」の「一匹と九十九匹」の寓話の内、
エスが九十九匹を捨て置いて一匹に向かわんとするのに、
ユダのような健全な俗人はあくまでも九十九匹にしか目が行かない。
師の視線が己を通り越している事に気が付いた時、
彼が裏切られたと思い、呪ったとして不思議ではない。
己の愛情がまったく顧みられないと知った時、
ほとんどの女が悋気に狂うように。
ユダはイエスの事を愛してはいただろう。
だが、そうであったからこそ疎外感を覚え、
己を踏み躙るイエスに反発し憎悪せざるを得なかったのだ。


ロレンスは、福田は「愛しうるか」と
――それは同時に「信じうるか」でもある。
絶望のただ中でなお絶叫している。
とにかく答ばかりを早急に求めたがる中にあって、
彼らはただ問を発するに留まっている。
いたずらに先走った問題意識と答を
求めたがる人々はロレンスの『黙示録論』に、
福田の全評論に対して失望を感じる事だろう。
だが、思想というものは答ではないのだ。
固有の思想とは固有の問い掛けにこそある。

実際の話、諸君が大衆に向かっていかに
個人の自我実現を教えようとこころみたところで、
彼等は万事が語られ行われたのちにも、
所詮は断片的な存在にすぎず、
到底全き個人たることはできぬのであるから、
畢竟、諸君のなしうることは、
彼等を実に嫉妬深い、恨みがましい、
妄執の鬼と化するに終わるのである。


『黙示録論』


我輩は以前、『国家の品格』のような
盲目の弱者による弱者救済の書を読む大衆人に対して、
自分はお前らを啓蒙しようとなど思わない、
 なぜなら自分が正しいなどとは思っていないからだ、
 ただしお前らは間違いなく俺より間違ってる*3
と受け取られかねない趣旨のエントリ*4を書いた。
今でもそうした考えに変わりは無い。
我輩は我輩のためだけに考える。
我輩の考えた事つまりは思想もまた然りである。
我輩は他人に教えを説こうなどとは思わない。
ロレンスの警告を素直に受け取る方を選ぶ。
縁なき衆生は度し難いのである。


思想を、信仰を説く者は常に独りでなければならない。
一度、迷える畜群を導こうなどと思えば、
その羊達は自分達だけの居場所を求め、
他者を認めず、己を栄光のもとに選ぶ事を欲するだろう。
パトモスのヨハネは挫折したクリスト者に、
強者に成り得ぬ弱者に救済を与えた。
しかし、その救済の内容たるや異教徒を悉く抹殺し、
悪徳の都を徹底的に破壊しつくさねば気がすまないといった、
甚だ復讐的な、おぞましい身の毛もよだつものであった。
今日でさえこうした『黙示録』的救済、信仰は残っている。
オウム真理教を見よ。彼等は己の王国を築かんために、
無辜の――彼らにとっては罪深い民衆に牙を向けた。
彼等の本質は弱者たる羊に過ぎぬのであって、
彼等は牙を生やした一匹(異端)の羊であったのだ。
弱者(羊)は弱者に過ぎぬのであって善良なのではない。
強者(獅子)がただ強者であるように。
思想や救済を説く者達はその残酷な現実に、
酷薄さに目を背けずいられるだろうか。
富者による貧者の搾取を説くマルクスとその使徒達も、
己の理想の王国を作り、富者を地上から抹殺せんとした。
ヒトラーの如き狂える聖人は、
ユダヤ人を地上から消し去る事が出来ると本気で考えていた。


古の仏陀は独り獅子吼する、
自分ほどかわいいものは存在しない
私にとっても、自分よりさらに愛しい、他の人は存在しない。
 ……そのように、他の人々にとっても、
 それぞれの自己が愛しいのである。
 それゆえに、自己を愛する人は、他人を害してはならない*5と。
我輩は仏陀の辻説法のようにただ吼えるだけである。
仏陀も、我輩も、何人をも見てはいない。
視線は何時も眼前を越えて空へ投ぜられる。
ある意味では全てを許し、
また、ある意味では全く愛してなどいない。
あくまでもただ独りなのだ。
彼の前には寂漠たる荒野が待つのみである。


我々はただ我々自身にのみにしか救済を掲示出来ぬ事を、
(そして、それすらもやがては迷妄に過ぎない事を思い知る事になろう)
どのような個人的な理想も我意に過ぎぬ事を素直に認めるべきである。
現実にある、己の内にある我意や悪を素直に認めた所に、
――いや、認める事が出来なければ、
たちまち第二、第三のナチス、オウムは現れてくるだろう。
自分達以外の他者全てを抹殺せんとするような。
果たして、我々はなお他者を許しうるのか、
そして、愛しうるのだろうか。
……おそらくは不可能であろう。
我々の結び付きは引き裂かれ、悲劇的な結末を迎える。
何度も、何度も、何度も。
自分自身に対してすらも我々は剥き出しになった我意に
己の個性とやらがズタズタに傷付けられる危険を孕んでいるのだ。
最悪の場合、我々は自分すらをも許す事が出来なくなるだろう。
自殺とは絶望ではないのだ。それは度し難い憤怒なのだ。
輝ける生命に対する陵辱であり、嫉妬であり、憎悪なのだ。


それでも生き続ける我輩は己の我意が踏み躙られ引き裂かれるたびに、
本書と対話を試みる事になるのであろう。
福田恒存とロレンスの『黙示録論』とはそういう本である。
名著とは古い本でも、ただ優れている本でもない。
名著とは読み返す事の出来る本の事なのである。
かのルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
カラマーゾフの兄弟』を50回は精読したそうだ。
我輩はこの『黙示録論』を10回は読んだ。
何度読み返しても理解できぬ所はあるが、
おそらくそこは我輩にとって重要なのではないのだろう。
あるいは何時か重要となるのかもしれない。
読む物にすらも己の道筋というものはあるのだ。
一冊の本をじっくり、何度も読み返す経験というのは、
本書から得た大切で貴重な経験であった。

*1:『ダンマパダ』

*2:『スッタニパータ』

*3:http://d.hatena.ne.jp/hajic/20060914/p1

*4:http://d.hatena.ne.jp/koukandou/20060722

*5:『サンユッタ・ニカーヤ』