読売新聞「『飛び入学』人気なし」

●「飛び入学」人気なし、10年で72人だけ…拡大見送り
             4月11日16時13分配信 読売新聞


優秀な高校2年生に大学の入学資格を認める
飛び入学制度」による入学者数が伸び悩んでいる。
今春の入学者は10人で、
制度開始から10年たった現在までの累計でも72人。
当初は「大学改革の起爆剤」と期待されたが、
制度を導入した大学も6校にとどまる。
高校2年生に限定している対象を拡大するかどうか検討していた文部科学省は、
こうした状況を受け、拡大を見送る方針を決めた。
「楽しい高校生活を切り上げてまで、
 あえて大学入学を急ぐ必要はないと思うのかも……」
今春、飛び入学での入学者がゼロだった昭和女子大(東京都世田谷区)。
2005年度に飛び入学を導入して以降、志願者はいない。
「門戸を開けておけば、いつか入ってきてくれると思うのですが」
と担当者は話す。


明治の教育設計者――具体的に言えば森有礼井上毅は、
制度設計者として極めて優秀であった。
(現在においてすら根本的な制度変更は出来ていない)
彼らは大学を大学として、
小学校を小学校として設計したわけではない。
彼らは一連の小学校から大学への流れ、
今で言うならキャリアデザインを作ったのである。
部分だけを考えていてはダメなのだ。
部分を繋ぎ合わせたところで全体にはならず、
そういう還元主義的発想は事物の断片化を加速させる。


そういう意味でこの飛び級制度は
設計思想として最悪である。
流れを加速させたり、
あるいは減速させる装置としての制度は、
全体の門戸が開かれている時のみに有効に作用する。
これは原子の運動に似ている。
つまり固体の時において微弱になり、
気体になると運動が活発になる。


飛び級というのは流動性を高める装置(マシーン)なのであって、
制度(システム)の固定性が強いときには有効に作用しないし、
そもそもインセンティブに欠けるのである。
制度改革において最も最悪なのは、
軍事における兵力の逐次投入のように、
継ぎ足していく漸加的な方法なのだ。


制度は常に体系(システム)なのであって、
それ自体は中身(コンセプト)ではない。
喩えるなら制度は箱や入れ物なのであって、
そこに何が入っているかは分からない。
が、ダンボールに水を入れないように、
箱は入っている物を規定する(規律付ける)。
したがって、枠組(パラダイム)の設計は
常に内容に先行しなければないのである。


現代の日本の場合、制度に対する一貫性が弱いために、
色んな脈絡の無いコンセプトを付け足したがるが、
誤解を恐れずに言えばそれは無い方がマシだ。
集中傾向にある日本の制度設計では、
枠組や全体の制度は中身や装置と一体なので、
我輩のVAIOtypeMと同じようにキーボードを修理したくても、
本体ごと持っていかねば意味が無いのである。
水漏れのする花瓶に新たな水を入れても、
根本的な解決にならないように。


厚化粧が見苦しいように、
漸加式の改革は何時だって愚かしく、
また、事態をかえって複雑に悪化させる。
根本的な改革以外はしない方が常にマシである。
屋根を強化し、壁を強化しても、
その重みに耐え切れなくなった柱のようなもので、
かえって被害を深刻化させるからだ。
システムの設計は継続性を長期化させる戦略が必要なのである。