「最期の同窓会」(93年/日本)

このドラマは過去を振り返ることで、あるいは顧みることで、
現在を見つめなおそうとするドラマである。
同時にこのドラマは過去を克服しようとする。
ヒロインは6年前に離婚して母子家庭にあるが、
彼女は今もってそれを清算出来ていない。
彼女にとってはこの同窓会をめぐるドラマは
現在に至るまでの自分としての過去を払拭しようとするものでもある。
これは克服というよりも、
むしろゼロからリスタートするといった方が正確であろう。
一方で同窓生を探し回る幹事役がそうであるが、
過去において満たされなかった願望、
果たしえなかったことを現在において実現しようとする。
これは過去の時点で起こすことができなかったという意味で
過去に逆行するというより、現在において停滞している。
これは韓人の「ハンプリ」に似ているかもしれない。
つまり、底層にあるしこりや澱みを解くのである。
彼にとっては終わらせることが克服であったのだ。


話は離婚したヒロインが娘との間で再婚
(――それは今後の身の振り方を決断することでもある)
をめぐって葛藤する場面から描かれる。
そんな折に幹事役の長尾君と出会い、
30年ぶりの同窓会の話を聞かされる。
しかし、ヒロインは自分のことで精一杯であり、
話をさっさと切り上げてしまう。
こうしてはじまる前半部は幹事の長尾君が
行く先々で覚えてないと言われ、影の薄さを強調される。
あまつさえ、みんな行きたくない
(――自分のことで精一杯だ)という。


彼が行く先々の人々はすでにそれぞれの道を生きている。
保険外交員のヒロインの女友達は商売熱心、
大企業の社員の上田君は失脚した上に
ガンを告知されて焦燥で苛立ち、
スーパーの店長は挫折した学生運動の闘士で
自分の人生は失敗したと思っている。
幹事の長尾君のことを唯一覚えていた同窓生はヤクザをやっていた。
このドラマは過去と現在をめぐる群像劇でもある。
それぞれに事情があり、過去をめぐるドラマがあり、
最後にはまた現在の自分に帰っていく。


それぞれの事情と揺れる心情が描かれたのち、
それぞれがそれぞれの思いを胸に同窓会へと向かう。
影の薄い幹事はここでも挫折する。
仕切りたがりの政治家志望があっさりと彼を隅に追いやる。
挫折するのは彼だけではない。
新聞部として誇りを持っていたスーパーの店長は
部の顧問で担任の岡田先生が
自分のことを覚えていないことにショックを受ける。
しかも、問題児だったヤクザのことは覚えていて、
その上うれしそうに語り合うのを見て追い討ちをかけられる。
理想家のスーパーの店長にとっては
思うようにならなかった自分を容認すること、
現在を受け入れることが彼にとってのドラマだ。


挫折を受け止めるのがスーパーの店長なら、
ヒロインにとっては社長夫人から交換手勤めの母子家庭への転落
という踏み外しから立ち直るドラマである。
かつて「マドンナ」であった彼女は過去のままの視線を受けることになる。
やがてそれは露呈し、彼女は過去のままではいられない。
この光から影への移行と逆のドラマが描かれているのは
幹事の長尾君であり、彼のドラマはヒロインの裏返されたドラマである。
必死に探し回り計画した同窓会の幹事役を奪われ
鬱屈がたまる彼は地元に残ってみかん農家を営んでいた。
息子は東京に出たいといい、彼と喧嘩になる。
東京に出て行った同窓生たちを地元に呼び戻すことは
彼にとって儚い祈りであり、儀式であった。
同窓生の勝手についに長尾君は
堪忍袋の緒が切れ、一気にまくしたてる。
廃校される中学校について、この同窓会について。
息子が地元から離れていこうとする彼にとって、
学校と地元の結びつきというのは
彼自身のアイデンティティに関わる問題だった。
彼にとって学校は最期に残されたよりどころであったのである。


一同が長尾君の怒りにしゅんとうなだれて、
そこで先生が話しはじめる。
彼にとっての過去に為しえなかったこと、
記憶の克服のドラマである。
当時、ヤクザが少年鑑別所に入っていて、
ヒロインたちは何とか彼を卒業式に出そうと体育館にこもる。
それに対して岡田先生は立ち塞がり、これを拒んでしまった。
ボケかけている岡田先生は記憶を搾り出し、
最期は涙とともに謝罪する。
そして、たてこもるヒロインたちが歌っていた
上を向いて歩こう」を歌う。


同窓会が終り、校舎を見物に行く4人組は
過去のロール・プレイングをはじめる。
過去の自分を憑依させ、バリケードを築き、
上を向いて歩こう」を歌う。
かつてその場に留まりえなかった長尾君にとっては
やっと駒を進めることになったのであり、
かつて留まった他の三人にとっては再出発のためのリセットである。
こうして話はそれぞれの人生に道にわかれ、終演する。
このドラマにおいては過去の役割を現在においても演じるのだが、
長尾君の場合はこれを克服することが彼にとってのドラマの主題である。
「いじめ」や不登校など、
いうならば負の「しるしつき」の問題が目立つ
現代の中学生を照らして観れば、
長尾君の物語が一番現代性を有しているといえよう。
しかし、彼においては影が薄いだけであったが、
「いじめ」など負の役割を負っていたとき、
こうしたドラマは成立しうるであろうか。
やはり、それも「記憶の克服」というかたちを
とらざるをえないのだろうか。


この作品は少々古いTVドラマなので、
おそらく観た方や覚えている方はほとんど皆無であろう。
しかし、別段特別面白いドラマという訳でもなく、
似たような作品はその後いくつも作られており、
あらすじを読むだけで大体想像が付くのではないだろうか。
要はバブル崩壊と冷戦後における諸々の精神的な慰撫の一つだ。
このドラマで描かれているのはいわゆる「団塊の世代」達であるが、
この世代ほど奇異な受け止められ方をしている世代はない。
曰く、敗戦の廃墟から力強く生まれ、
高度成長の原動力をなし、現代日本の繁栄を生み出した。
また曰く、高度成長にただ乗りし、バブルの狂乱を作り出し、
就職氷河期の諸悪の根源である。
こうした見方は「団塊の世代」自身の過剰な自意識の裏返しに過ぎず、
良くも悪くもそれ自体には実のところ何の特色も無い。
ただ、数が多かったのに過ぎない。
彼らを目の敵にする現代の「失われた青春」論者達の意見が迷妄なれば、
彼ら自身の根拠の無い自負もまた迷信である。


ある時代を生きるというのは
その時代という全体の中に生きていることを意味する。
中に居る人間には得てして「井の中の蛙」のように
自らがどういう時代に生きているのか分からないものだ。
だからこそ、我々は未来と過去を想像する。
未来を見通すことはこれから起こる現実の理解を容易にし、
過去を顧みることは即ち現在の成り立ちを理解することである。
「現在」というのは時間の中核でなければ、軸でもない。
それは過去・現在・未来という不断の運動が生み出す
様相なり現象(表象)なのである。
故に一断面を以ってこれらを語ることほど空しいことはない。
それはあたかも常温下のドライアイスのように
切り離してしまえば跡形もなく消えてしまう運命にあるからである。


我輩が「克服」(あるいは「超克」)といった言葉に
冷ややかな視線を送るのはこうした理由による。
つまり、何かを克服するといったとき、
それはもはや完全なる全体(運動体)ではなく、
断片、それも極々一部分に過ぎない。
「私」が「私」を超えようとしたとき、
「私」は「私」の外部に、
つまり「世界」に放り出されてしまうのだ。
本当の意味(心理的な意味)での克服とは
むしろそれを内包していくことにある。
そして、それは「死」と呼ばれている。
日が昇っては沈むように、冬に枯れた木が春に息を吹き返すように、
我々は営みの中で何度も死にまた生き返るのである。


「生」と「死」の営みを“永生化”しようとするところに
宗教(ファシズム)は立ち現れて来る。
(――「終りなき日常」などありはしないというのに)
それはもはや全体などではなく、散漫な集積体に過ぎない。
個を内包しうる全体は外部から移植する訳にはいかないからだ。
内面を視通す視点、全貌を見渡す視線、
そのようなものは虚妄でしかありえないではないか。
前者においては見られるはずの自己は外部に存在し、
後者においては「私」という存在の余地がまったくなくなってしまう。
斯くして「私」は色を失っていき、
迷信によってしか「外」を見ることが出来なくなる。
こうした状況にあって“透明な私”に
色彩を与えるべく全体主義が登場する。


昨今、はてな界隈で話題になった「セカイ系」と「決断主義」を対比する
ゼロ年代の想像力」論などはその局地的な噴出であろう。
さも宇宙の未来の如く、収縮の果てに消滅するか、膨張の果てに霧散するか、
この「個人」を巡る迷路にあってはもはや静止するほか術はあるまい。
なまじ救済など考えようものならば、
たちまち思想(文学)は「神懸り」にならざるをえない。
そうした宗教じみた思想を、繰り返しになるが
現代の思想史家は「宗教ファシズム」と呼んでいる。
しかも、その実相たるや諸思想のガラクタの寄せ集めに過ぎないのである。
(――いうなれば宗教にならぬ宗教の流行である)
セカイ系」にせよ、
(――実存主義と言い換えてもよいが、
 それが誕生の時点ですでに流産であったことを
 念頭においておかなければならない。
 「セカイ」の主人公たる個人はその実存の不安によって
 ついには『嘔吐』(サルトル)したのであるから)
決断主義」的なるものにせよ、
社会や時代状況など外部的な説明で片付けようとするのは
それこそ皮相をなぞるようなものに過ぎまい。
本当の問題は主体の側にある。


それは現代の自由主義社会において「自由」や「個人」が、
私欲の実現の内に見出されているのであるから、
その帰結として当然のことではないか。
DEATH NOTE』の夜神月を思い出してみればいい。
彼は一見善のために悪を為したかのように見える。
しかし、彼の正義や倫理というのは、
単に私欲を悪徳として独断したのに過ぎない。
彼は悪しき者たちの犠牲となっている、
善良なる者のための新世界を熱く論じているが、
彼が前向きであったり、積極的であったことはない。
ただ現実の社会を批判し、否定していただけだった。
彼は自らの意志で「キラ」を名乗ったのではなく、
「貧しきものをして富ませよ」式の蓄群(大衆)の
復讐心(ルサンチマン)に呼応してみせたのに過ぎない。
善人にも悪党にもなれない、
意志薄弱な彼は蓄群の意志(願望)を
おのれの意志と錯覚する錯誤を犯したのだ。
彼の本質は「否定の優先」をイデオロギーとしていた
ナチズムと同様にニヒリストなのである。


エヴァンゲリオン』はいわゆる「セカイ系」(ひきこもり)の
思想(文学)としてばかり見られているが、
しかし、個を否定して単一の統合体(人為的な絶対神)を
作り出そうとしたゼーレの長老たちも
やはり「否定の優先」の徒、虚無の世界の住人なのではないか。
そうした虚無を主人公は拒絶したのではなかったか。
だからこそ、彼とヒロインだけは生き残ったのではないか。
拒絶されてなおその首を絞める手を緩めるだけの余裕が、
彼の少年には備わっていたと言えるのではなかろうか。
確かに彼の決断力の無さに苛立ちを覚えはする。
しかし、空虚なる殺人鬼夜神月に比べれば、
遥かに自らの意志を有した魅力のあるキャラクターと言えはしまいか。


主体がひきこもっているにせよ、決断しているにせよ、
それが単なる主観的な気分に過ぎないということを
我々は銘記しておくべきであろう。
外見は何か信仰や帰依のように見えても、
実際は単なる実感に依拠しているのに過ぎない。
輪郭を失った印象主義の絵画の風景が落ち着きなく、
主観的気分によってころころ容貌を変えてしまうように。
そうした気分と普遍性を目指さない特殊への堕落が
今日の時評や世代論に通底して見られる。
(――本来、自分だけが理解する真理などというものは、
 理解の対象が「全体」である以上存在しえない。
 そのようなものは独断的錯覚か、あるいは主観的気休めである)
そうしたものが大きく一歩を踏み出しているかのように、
あるいは常道から逸脱した極論のようにすら思われているが、
実際のところ真の対象に背を向けているのに過ぎない。
「個人」の「挫折」や「逃避」の原因や責任が
外部において偽装され続ける限り、
そうした議論はどこまでも不毛とならざるをえないだろう。