「私の頭の中の消しゴム」(04年/韓国)

若くしてアルツハイマーになり、次第に全てを忘れていくヒロインと
主人公との間の悲劇を描いた話が本作である。
前半部はラテン系の音楽をBGMにしたラブコメ風で、
後半部はうってかわってシリアスなお話になるのだが、
この記憶をめぐる描写がどこまで科学的に
リアリティを持っているのかはよく分からない。
(次いで、こういう作品にああいう暢気で陽気なBGMを使う
 韓人の民族性というのも“感性”として理解し難い)
秒単位の短期記憶が長期記憶に転換されて
(あるいは転換されずに忘れられて)、
我々は色々な記憶を引き出す。
同じ記憶ものの『博士の愛した数式』では、
この転換が出来ないために80分しか記憶が持たない
という風に描かれていたと思う。


ここで疑問に感じるのは
記憶には階層性や時間性があるかということだ。
この映画においては自分を裏切った不倫相手の名前で
主人公に対して「愛している」というシーンがあるが、
記憶は書き換えられることなく単独に
その時間時間に区切って保管されるのだろうか。
あるいは何かしらの階層性があって、
重要度別に分けられているのか。
もちろん混濁という可能性もある。
脳科学の分野はまだまだ発展途上の学問なので詳細な事は分からないが、
少なくともその話の中に描かれる想像としての記憶というのは、
記憶に対する価値観や思想というものを孕んでいる。


たとえば、記憶の死は精神の死なのか、という問題。
記憶がその人の精神を形作り、人格を形成し、
「わたし」という意識を作り出すのか。
これは唯物的な考え方であるが、
唯物論(乃至機械論)はすべてを物質に還元する。
そのため物質論者というのは、魂はもちろん、
精神や意識といったものすらも懐疑の対象として捉える。
つまり、そうしたものはマボロシか、
あるいは物質がもたらす錯覚のようなものとしてみる。
こういう見方はかつて大きな論議となった
脳死は人の死か」という問題にもつながる。
現在において我々は「精神」それ自体を見るのではなく、
肉体や物質に結び付けて捉えている。
たとえ、いくら「精神(性)」を強調してはいても、
実のところそれは裏返された物質主義に他ならない。


しかして人格は何を以って決定されているのか、
「わたし」を規律付けるものは何なのか。
人格を記憶から切り離して考えたとき、継時性の問題が生じる。
過去における「わたし」は現在の「わたし」であるといえるのか、
あるいは未来の「わたし」はなお現在の「わたし」でありうるのか。
記憶はこうしたアイデンティティの問題に関わってくる。


イギリスの経験論者デイヴィッド・ヒューム
「自我」を「知覚の束あるいは集合体」であると捉えた。
「わたし」も環境と同様に絶えず変化し、
いくつもの「わたし」や「印象」が生じ、継起されるのであるが、
それを統合するのがいわゆる「自我」の働きである。
つまり、「わたし」は「わたし」自身や同一性を
「想像」することによって成り立っているとする。
単一な「わたし」、統合体としての「自我」は、
あくまでも想像によって成り立っているのに過ぎない。
そういう意味において、個人に自律性などは存在しない。
とすれば、その想像力の源泉となっているのが、
あるいは繋がり(媒体)として機能しているのが
「記憶」なのではないだろうか。