「パッチギ!」(04年/日本)

この映画に対する評価は難しい。
いくつかの欠点と事実と異なる描写が含まれているためだ。
それはまず「イムジン河」が発禁されたというくだりである。
イムジン河」が販売自粛及び廃盤になったのは
朝鮮総連の抗議によるところが大きい。
最後の方の場面でもラジオのディレクターが
「歌っちゃいけない法律なんておかしい」と気を吐いていたが、
そもそもそのような法律は戦後に存在しない。
あるのはただ“タブー”だけである。
タブーというものはそれ自体以上に
それを取り扱う人間を醜くする。
タブーに対して反撥しようが、卑屈になろうが、
洗い出されてくるのは劣等感に過ぎないからだ。
過剰に他人の目を気にする人が患い易い病癖である。


イムジン河」はザ・フォーク・クルセダーズのメンバーが
民謡と勘違いして著作権者に無断で翻訳したための問題があり、
さらに原作が一種のプロパガンダであったためか、
原作とは意味が異なる翻訳が後半部でなされており、
その点も総連側に問題視された。
(彼らはあくまでも原作に忠実であることを求めた)
こうした少し調べただけで分かってしまうような、
演出上の嘘はつくべきではなかっただろう。
殊、単なる娯楽作品としてだけではなく、
メッセージ性を込めるなら尚更のことである。


さらには映画全体に言えることだが、
在日朝鮮人には韓国籍を中心とした民団と
朝鮮籍を中心とした総連とがあり、
両者は対立しており交流が乏しかった。
朝鮮人の間の対立を描けなかったのは
この映画の大きな問題であろう。
韓国人として描かれるのは
せいぜい釜山からの密航者金太郎だけであり、
総じて閉ざされた空間の描き方をしている。
鄭大均氏や姜尚中氏らの自伝を読めば分かると思うが、
必ずしも朝鮮人街にまとまって暮らしていた訳ではない。
日本人でもなく、朝鮮人でもなく、
仮面の生をおくっていた人々も少なかったのである。
そういう意味で、本作は
ある種のステレオタイプを脱し得なかった。
この点は非常に残念であった。


本作では恋する日本人少年と朝鮮人少女との間を隔てる
「河」が象徴的に何度も用いられている。
彼女に会うためにずぶ濡れになって渡る主人公のシーン、
日本人と朝鮮人の不良たちが河をはさんで
にらみ合うクライマックスの決闘シーン、
そして何よりも印象的なのは、
友だった朝鮮人の葬式で拒絶された主人公が
自分と彼らとの間にある渡り難い「河」を見つけ、
「悲しくてやりきれない」を背に彼らと別れ、
そして橋の上で彼らと自分を結び付けてくれた
ギターを自らの手で叩き壊すシーンである。


己の無力、現実に対する理想の弱さ、
やり場の無い怒り、理屈を伴わない暴力の噴出、
こうした人間性の負の部分を自覚している分、
井筒監督は彼が反撥する石原都知事よりは、
創作家として一枚も二枚も上手と言わざるを得まい。
自己犠牲のロマンティシズムというのは確かに美しいが、
それが単なる甘えに過ぎぬということがしばしばある。
なぜなら自己犠牲と他人への奉仕は必ずしも結びつかないからだ。
拒絶される“善意”というもの描けたのは、
そういう意味において本作の大きな成果であろう。


一人一人の人間として登場人物を見たとき、
この映画の物語は大変感動的である。
が、しかし、描かれなかったものについて考えるとき、
手放しでは褒められない、
あるいはそれから社会を考えるという行為を
躊躇せずにはいられないのである。


主人公の少年は彼らの文化を学ぼうと、
彼女のことをもっと知りたいと、
本屋に入り、日韓辞典ではなく、
より彼らに近いであろう日朝辞典を迷わず手に取る。
彼の行動も動機も純粋である。
さらには最期で「イムジン河」を歌い終えた主人公を、
「悲しくてやりきれない」を背に彼らと別れ、
それでも別たれたもの同士を結びつける
イムジン河」を歌わずにはいられなかった彼の少年を、
ヒロインは初めて自ら「川(橋)を渡って」迎えに行く。
その行為にはただ無垢な恋心と
彼女の心根の優しさによってのみ裏打ちされている。
こうした純粋さゆえに心を打たれるのであって、
それが日本人と在日朝鮮人の間であるからではないだろう。
もちろん越えがたい壁、渡ることの出来ない河、
そうした意味での象徴としての効果は大きい。
しかし、それゆえに評価することができるのだろうか。
社会的な主張として、映画として。


この映画が優れているからこそ、
そうした見方はすべきではないし、
またそういう考えで作るべきではなかったと思う。
なぜならそうした考えに至ったとき、
登場人物たちは客体化されて
姿輪郭は見やすくなっても、
活き活きとした顔の表情は見えなくなってしまう。
顔を見ないというのは、素顔を認めないというのは、
同時に一人の人間としての個性を消し去ってしまうことになる。
こうした複雑な思いがどうしても
ただ感動にひたるのを静止するのであり、
また結論という停止点にも至ることが出来ず、
もやもやとした感情を抱き続けさせられるのである。