「セカイ系」と「逃避」の本質

●現代の迷信

迷信の時代とは知っている以上のことを
知っていると人々が想像する時代なのです


F・A・ハイエク 『自然・人類・文明』


素敵です、と言われても何だか返事に困るが、
先日の覚書が「セカイ系」を中心に読まれているようなので、
今日は「セカイ系」とその周辺に絞って考察したい。


覚書において指摘しておいたように、
セカイ系」だろうが何であろうが、
その種のキーワードとして提出される類のものは、
ほとんどが意匠(呪い語)に過ぎないのであって、
批評家が向き合うべきなのはそうした上っ面の現象なのではなく、
その根に通底しているものに対してなのである*1
さらに言えば、自己自身にも照らして考えるべきだ。
自己を例外にして考えるから対象を捉え損ねるし、
精神に緊張感を保てないのである。
大体、「現代の病理」などというものが本当にあるとして、
それが自分だけ例外であるかのように考えるのは甘えに過ぎまい。


我々自身は複雑になってもいないし、
ほとんど変化してすらもいない。
変化してきたのは環境であり、
進歩したのは技術なり、物なりであって、
我々自身は何の進展もしていない。
そういう意味で元長柾木氏の
セカイ系は、まだ始まってすらいません*2
という断言には一面の真実がある。


現代の混乱の原因は現象そのものというよりも、
現象を追い回した挙句それに化かされている側にこそある。
全てを視通す眼、完全に迷いの無い視線、
そんなものはありえないのだから、
見えざる領域を自覚していないければならない。
考えるとは見える領域と見えざる領域と区別するのであって、
端から「語りえぬものに対して沈黙」している訳ではあるまい。
語らないことと考えないことは同義ではない。
そして、宗教であろうが、知性や理性であろうが、
その自覚がないからたちまち迷信と化すのである。

●見えるものと見えないもの

各人にはそれぞれの闇がある。
正確に言って、この人の闇とは、
どんな闇だったのか。あの人の闇とは。
本当のところ、 彼が関わった特殊具体的な霧の厚みとは
どのようなものであっただろうか。
その霧の厚みこそが、
彼にとっての見えないものと見えるもの、
聞こえないものと聞こえるもの、
つまりは、ある種、語りうるものと語ることが不可能な、
または困難なものを決定したのだ。


ベルナール=アンリ・レヴィ 『サルトルの世紀』


ロマンティシズムの定義において松本健一氏が、
美しいものを見ようと思ったら目を瞑る
それがロマンティシズムの態度だと仰っておられたが、
なるほどな、と我輩は思った。
以前、我輩が見に行った高島野十郎の絵にも、
目を瞑った時の情景が描かれたものがあった。
瞼の奥から浸み込むように光が揺れている様は、
この画家を特徴付ける態度である。
彼はそれを“見えるもの”として写し取ったのだ。
社会から孤絶し、独り野に死す事を祈って
「野十郎」と号したこの変わり者の画家は、
その実、極めて強烈なリアリズムの徒であった。
彼の残した峻厳な現実の像に、
苛烈なリゴリストの生き様に我々は間誤付いてしまう。
芸術家を気取る多くの輩はここまでの現実を見ただろうか。


リアリズムとロマンティシズム。
一見、対極にあるかのように思えるこの思想には、
底層においてぬぅーっとした棒の如きものが貫いている。
決して相食む蛇のような関係ではない。
二元論的“対立”として見るというのは、
実のところ一元的に“解決”しうると見る一種の楽観論である。
各々が何かを見つめる時、
見開かれた眼を以って実像を掴まんとする者もあれば、
表層に惑わされず奥底にあるものを
目を瞑って見んとせん者も現れる。
そして、見ている「もの」は同じなのである。
彼らは背中合わせに居るのかもしれないし、
お互いを知らずに見詰め合っているのかもしれない。
だからこそ、批評は「見えたもの」を見るのではなく、
時として彼が「見えなかったもの」、
「見なかったもの」を見ようとするのである。

●宗教と思想

マルクスは宗教を阿片と呼んだ。
なるほど言い得て妙である。
19世紀欧州において阿片は「薬」であった。
あの当時において阿片に負の印象は無い。
「苦痛を和らげる薬」が阿片であった。
生の苦痛を和らげる阿片が宗教である
マルクスは言ったのに過ぎない。
これは田川建三が指摘していたことだが、
文献学的には彼の独創という訳でもないようだ。


所変わって我らが現代の日本であるが、
奇妙なことにわが国では思想が阿片として用いられている。
昨今の中国の偽薬騒動ではないが、
薬ならぬものを薬と呼んでその効能を有難がっている。
贋物という自覚が無い点ではより深刻であり、
失敗しても痛痒を感じぬという点では、
精神の堕落を一層進展させるだろう。
これは何も現代にはじまったことではなく、
近代日本の宿命的な自己錯誤である。


西洋において思想は神を失ったところに登場した。
すなわち救われない者が救われない事実を受け入れたところに、
西洋哲学の特に実存主義が生まれたのである。
運命論や主体論が多いことはそうした理由によっているのであろう。
「永生」の循環から「世界」に投げ出され、
彼らは存在理由を求めてあがくのである。
神が生きていた時代において、
存在理由などいったものは必要なかった。
そういう意味において人間は人間自身を得ようとして、
神を失い、人間自身すらも喪失する羽目になったのだ。
この焦りからか、近代から現代にかけて、
奇妙な人間像が数多生み出されてくる。


曰く


人間はおそらく自分固有の本能がなにもない」(ルソー)


最も病的な動物、自分の本能からまことに
 危険なほど足を踏み外してしまった動物」(ニーチェ


自然と調和の烈開」(ラカン


ホモ・デメンス(錯乱類)」(モラン)


字句通り受け取ればこれほど卑屈な人間観はないが、
その実、我々(人間)は蓄群とは違うのだ、
という優越感の裏返しに過ぎないのである。
卑近な例でたとえれば、
おたくの「貶める愛」なるものみたいなものだ。
要するに差異の欲求は劣等感からも優越感からも生じうる。
そして、バタイユの「人間性とは動物性の否認だ
という冷ややかな言が最もリアリティをもってくる。
しかし、いずれにしてもよってくる
論理は破綻しており実に居た堪れない。
何の根拠も無いこれらを信じるところに、
思想というものが生み出されてきたのである。
したがって、少々逆説的に聞こえるかもしれないが、
「孤独」というのは自己に内在するものなのではなくて、
外在するもの中に内在しているものなのである。


自意識過剰も孤独感もこの副作用に過ぎないのであって、
一度「世界」に放り出された以上、
何を解決することが、決断することがあるのだろうか。
結果はもうすでに出ている。
だからこそ、“救われない”のである。
解決や決断などと言っている間は
所詮他人事のようにしか思っていない、
つまりは“気分”に過ぎないのだ。
あるのは「孤独」ではなく、「孤独感」であり、
そんなものはどうせ長続きなどしない。
気分に過ぎぬ以上、放って置けば勝手に雲散霧消する。
根は変わらないが気分だけは移ろい、
やがてそれが気分だという事実すら忘れて、
気分に憑依する気分が生まれてこよう。
本当は問題にすらならぬ問題こそが思想の課題であるというのに。

●個人(自由) と 全体(世界) と 認識

存在するものを想定することは、思考し推論しうるために必要である。論理学は恒常不変のものにあてはまる公式のみを取り扱うからである。このゆえに、こうした想定は実在性を証明する力をまだもってはいない。すなわち、「存在するもの」は私たちの光学に属する。存在するものとしての「自我」(――生成や発展によって触れられることがない)。主観、実体、「理性」などという虚構された世界は必要である――、すなわち、秩序付け、単純化し、偽造し、人為的に分離する権力が私たちの内にはあるのである。「真理」とは、多種多様の感覚を支配しようとの意志に他ならない、――かくして諸現象は一定の範疇にもとづいて配列される。そのさい私たちは事物の「それ自体」を信ずるところから出発する(私たちは諸現象を現実的なものとみなす)。定式化されがたいものとしての、「偽」としての、「自己矛盾する」ものとしての生成の世界の性格。認識と生成とは互いに排除しあう。その結果認識は何か別のものとならなければならない。すなわち、認識しうるものたらしめようとする一つの意志が先行していなければならない、一種の生成自身が存在するものという迷妄をつくりあげなければならないのである。


F・ニーチェ 『権力への意志』 理想社



問題にならぬ問題を見ようということになって、
さしあたってニーチェを引いた。
はてなのキーワードにあるところの
いわゆる「セカイ系」の説明を
より洗練した形で表してくれている。
「意識」と「認識」はイコールではない、
それは至極当たり前のことである。
問題は何故「セカイ系」ではこの混交が見られるのか。
あるいは、「意識」と「認識」が接近するのか。


それはおそらく個人主義の帰結である。
先の説明において述べたように、
宗教においては個人は全体の内部に存在し、
そこにおいて自己という「意識」は存し得ない。
我々は外部に放り出されてはじめて
全体=世界を認識しうるのであり、
同時に「意識」は「外部」に向かうのである。
ところが、自己(個人)を中心として
形作られるこの「認識」は
「意識」を無限大に押し広げる作用がある。
当然である。部分としての自覚を持たず、
ひとりひとりが世界の中心であるなら、
「認識」は「意識」を超えて止め処なく広がって行く。


これこそが我々が知るところの「虚無」である。
セカイ系」における世界=全体は閉ざされているのではない。
むしろ無限の広がりの内に雲散霧消したのであり、
そこに存在するのはもはや断片であり部分に過ぎないものである。
そこでは「透明な自己」が「孤独感」として表現され、
自己が見え難くなるほどに
自意識が過剰になる逆説となってたちあらわれる。
これが「意識」と「認識」の混乱であり、
我々を戸惑わせる原因に繋がるのであろう。

●「終わりなき日常」=「『歴史の終わり』の終わり」の意味

歴史の終わり=歴史の目的がもはや見いだされなくなったとき、
終わり=目的の相関物である期限もまた見失われる。
そこでパニックに陥った人々は、期限を再発見し、
それによって終わり=目的を再発見しようと絶望的にあがく
……しかるに、私たちは歴史の欠如を生きている。
そう、それは歴史の退歩や反動ですらなく、端的な欠如なのです。
ループを描いて反復される非‐出来事の連鎖。
そのなかでは、民族紛争であれ何であれ、
もはや歴史的な意味を持ち得ない


ジャン・ボードリヤール
浅田彰『「歴史の終わり」を超えて』での発言より


国家が宗教性を帯びやすいのは、
それはおそらく古い教会であったからであろう。
つまり、原始的な共同体の時代から、
今日の非人間的大共同体の時代に至るまで、
集団である以上何かしらの倫理を持たざるを得なかった。
今日、右翼思想家が国家を“媒体”として、
過去の記憶を共有し、未来へ橋渡すものとして現在を位置づけ、
現在過去未来を統一した形として掲示しよう
と欲するのはその残滓の最期の抵抗であろう。
が、所詮は断片の寄せ集めに過ぎない。
引用したボードリヤール風に言えば、
シミュラクル(模像)に過ぎないのである。


歴史の位置付けを失った「現代 modern 」は、
「現在 now 」という断片にならざるをえない。
断片に過ぎぬ我々は、
本来それぞれの「現在」に生きているのに過ぎない。
それを「現代」という言葉によって、
世界があたかも同時代に生きているかのようなに装い、
我々は幻想の同時代を生きてきたのである。
その幻想が覚める時、
それがすなわち「歴史の終わり」の終わりなのだ。
ではなぜ「歴史が終わる」とき、
日常は“終わらなくなる”のか。
ここに先の「いまだ始まってすらいない
という逆説的断言が生じてくる。
つまり、目標も起源も失われてしまった以上、
ある意味では“始まってすらいない”のであり、
解決という意味での“終わり”すらないのである。
まさに命題そのものが雲散霧消してしまったのだ。

●「逃避」の本質

いい加減先延ばしせずに結論を出すとしよう。
本当の問題、つまり、我々は何から逃避しているのか。
「引きこもる」にせよ、
「決断」して“遠ざかる”にせよ、
一体何に怯え、何から逃避しているのか。
それを定めなければ問題そのものすら掴めない。


先に「セカイ系」の錯誤はそれそのものではなく、
個人主義自体の欠陥にあるという指摘をした。
先の覚書で我輩は気分と物に憑依しているのが
日本における思想だとも述べた。
ところが、「孤独」とは本来それそのものなのである。
この矛盾に我々の根本的な問題が秘められている。
我々は「孤独」を「孤独」としては受け取らなかった。
それはあくまでも「孤独“感”」として、
つまりは気分(実感)によって処理されてしまった。
「孤独」も「個人の存在感」も、
「質」ではなく、「量」の問題として認識されたのである。


純粋な「観念」としてではなく、
「気分(実感)」を観念として捉えるのが、
我々の観念論の正体なのだ。
だからこそ、我々の孤独感というのは、
実に不可思議なことに存在感が希薄なのである。
それ故に「透明な自己」なるものを
「孤独感」と見て憚らないのだ。
存在感が無いというのは個人の存在証明を
しくじったということであるにも関わらず。
だから我々はそれを今もって
「質」としてではなく「量」として捉えている。
我々日本人はついぞ「個人」というものを、
確立しえなかったということなのである。


これこそが最も根本的錯誤なのだ。
「挫折」ではなく、「逃避」としたのはそれ故である。
三度目の引用でいい加減くどいが、
セカイ系は、まだ始まってすらいません
という断言にもそういう意味で一面の真実が存する。
無いものは端から「挫折」しようもない。
あったのは問題から「逃避」しようとし、
「安全地帯」を探そうとして
右往左往する「現象」だけである。


精神は容易に物化されてそれに依拠して
「孤独感」は気分(実感)として表れるだけだ。
だからこそ、容易にすべて気分として処理され、
気分の内に救いが得られるのである。
そこに緊迫感とか真剣さなどいったものは存在しない。
知的なスノビストたちが
「観念」を「物」として弄んでいるだけである。
ゼロ年代の想像力」論も
そうした気分の内に処理されよう。


我輩は単に逃げるなとか、
それが悪いのだと言いたい訳ではない。
逃げている意識は忘れるなと言いたいだけだ。
忘れるからこそ本質が見えなくなって、
現象を追い掛け回すようになるのである。
良くも悪くも気分によって救われてきたのは
事実である以上素直に認めるほかどうしようもない。
ただ少なくとも、こうした不毛な
実感に依拠しているのに過ぎない観念論や、
見せ掛けの個人主義はさっさとやめてしまった方がよいだろう。

吾々はつねに《結論》を要求し、終結を欲する。知的操作において、かならず断案、決定、終止符に到達しようとこころみるのである。それによって、吾々は一種の満足感を味わう。吾々の知的な意識はことごとく前進運動であり、段階運動であり、それはあたかも吾々の文章のごとく、あらゆる終止符が《進展》と何処かへの到着とを明示する里程標となる。こうして吾々はあくまで前進して止まないという始末だ。それも、吾々の精神的意識が、何処かへ行かねばならぬ、意識には終点があるのだろいう幻想のもとに、絶えず働いているからだ。ところが、もちろん終点などというものがあるわけのものではない。意識はその本質においてみずから一つの終結なのである。しかも吾々は何処かへ到達せんとしてわれをわが身を苛むのだ。ようやくそこに達したかとおもえば、それは何処でもない、元来が到達すべきところなど何処にもないからである。


D・H・ロレンス 『黙示録論』 ちくま学芸文庫

*1:どうだろう諸君。いっそ「恥ずかしい台詞禁止!」式に「メタって言うの禁止!」とか自身に課してみないか

*2:http://d.hatena.ne.jp/motonaga/20070605