「決断主義」なるものの再検討(1)

●前書

実際の話、諸君が大衆に向かっていかに個人の自我実現を教えようとこころみたところで、彼等は万事が語られ行われたのちにも、所詮は断片的な存在にすぎず、到底全き個人たることはできぬのであるから、畢竟、諸君のなしうることは、彼等を実に嫉妬深い、恨みがましい、妄執の鬼と化するに終わるのである。由来、人間に対して優しいこころねを失わぬものは、かえってそのゆえに大多数の人々の断片性をおもい知らされる。


D・H・ロレンス 『黙示録論』 ちくま学芸文庫


我々は、我々が期待しているほどには、
努力したところで賢くはならない。
天才と凡人の差異を言いたい訳ではない。
少なくとも努力は怠慢による精神の
自滅と堕落からは救ってくれる。
それだけのことかもしれないし、
それで十分なのかもしれない。
「思想」とは単に己が考えたことであり、
「精神」とは単に己に宿っているものである。
「思想」も「精神」も結局その程度のことに過ぎない。
そして、「思想」における努力とは、
「精神」という「特殊」から「普遍」へ
と目指す運動(思索-対話)のことである。


我々は一人一人が異なっている、
そういう当たり前のことを確認しているだけである。
「個性」など教えるまでもないことだ。
他者にどんなに踏み躙られても歯軋りして耐え続け、
自らどんなに消し去ろうとしても消せないもの、
それこそが「個性」というものなのである。
「私」とは「私」と「私ではないもの」からなる。
それをただ「私」であることだけを強調すればどうなるか。
想像するまでもあるまい。
我々は言語に絶する貧しい、
惨めな断片と化さざるを得なくなるのである。
「私」はついに「私」に成り得ないのだ。


はっきり言おう。
「思想」と「精神」とは教えうるものでも、
誰かに教えられるものでもない。
だからこそ、思索者は己を孤独な戦いに身を置くのだ。
思想という営為は常に独りで遣り遂げなければならぬ。
そういう意味で思想は他と争ったりはしない。
論争するのは知性の働きである。
知性とエゴとその他諸々の断片の起こすところである。
諸君らの中には我輩に反撥を抱くものが居よう。
だが、諸君らが衝突しているのは、
彼と此の断片と断片、自我と自我に過ぎない。
「私」の内に在る「私」と「私でないもの」とが、
いがみ合い、憎しみ合い、殺し合っているのだ。
だからこそ、我々は論争に勝利しようが、敗北しようが、
「私」の内に在る大切な何かを失うのである。


我々が他との結び付きを拒絶すれば、
我々の内にある他を殺さねばならない。
そして、現代人というのは“結び付け得ない”、
己の内の愛するものを殺してしまわねばならぬ宿命にある。
現代にもし悲劇というものがあるならば、
このアイロニーと矛盾とにある。
これが『黙示録論』のロレンスと、
「現代人は愛しうるか」と副題を付けた
訳者福田恒存が我々に問うて来るところの「思想」であった。


まったく情けない話であるが、
我輩の思想性というのは、
彼らの思想に「憑依」してかろうじて語り得る、
その程度に過ぎないものなのである。
そういう意味で、我輩の駄文や
世にはこびる思想の解説書などは読むに値しない。
『黙示録論』に興味を持たれたならば、
さっさとウィンドウを閉じて書店に赴かれるがよかろう。
もちろんロレンスと福田は
DEATHNOTE』も『コードギアス』も知らないから、
本題にはあまり関係ないのかもしれない。
しかし、彼らの「眼」を借りたということは
きちんとした形で記しておきたいと思い、
少々長い前書を添えさせて頂いた。

●迷信を信じない迷信

ヘーゲルという哲学者が彼の『法哲学』という本で、
自殺は最高の自由意志」などと言っているが、
ドストエフスキーの『悪霊』の中でも、
自我の最高表現として自殺を選択する登場人物が出てくる。
元から引いてくるのが面倒なのでウィキペディアから引くが、
彼の思想というは大体このようなものだ。
神の意志に従わず我意を完全に貫いたとき、
 神が存在しないこと、自分が神となることが証明される。
 完全な我意とは自殺である


「自己表現」の極北のような思想であり行動であるのだが、
思惟するところの彼が自殺する彼と同一であるのか、
より端的に言えば、彼の自殺は本当に彼自身の意志なのか。
なるほど、神の意志への反逆には確かに成功しているが、
神が存在しないことと彼が神であることの証明は別問題である。
神の意志という迷信を取り払ってはいいが、
別の迷信に憑かれていては独立した自我とは言えますまい。
この迷信はあるものに騙されまいとして、
別の何かに騙されるという自己錯誤に過ぎない。
個人に自律性が存し得ない以上、
彼自身が自己の制御なり操作することは不可能なのだ。


この種のイロニーなり、矛盾なりを
意識的に行ったのが前世紀の実存主義者たち、
特にサルトルである。
何の理由もなければ意味もなく生まれてくる人間は、
生きている以上は何かしらの行為をする。
この限りにおいて人は目標を自ら策定しそれを目指す。
目標を越えればまたその彼方に目標を掲げる。
かくして状況の超越を繰り返していく。
信じて“いない”ことすらそれを目標として“信じ”、
信じて“いない”ことに向かって突き進む。


これはあまりにしんどい。
無限に広がる当て所ない時空を意識させられるからである。
その虚無に怯えるなり、超越を諦めたところに、
例の「セカイ系」とやらがあるのだろう。
そこではもはや誰かに目標を投げかけてもらえないと
それを超越することすら出来ない。
彼らは自意識=世界に陥って引きこもったのではなく、
世界に自分を何処に位置づけたらよいのか、
分からなくなったのである。
権威無き世界に「自分の足で立つ」とか、
自己実現」とかそういう問題ではないのだ。

●我々は本当に何も信じていないのか?

善良な市民の2006年総括」において宇野常寛氏は、
現状を以下のように分析しておられる。


『世の中のしくみが変わってきて何が正しいかわからない』から
 『間違いを犯すくらいなら、何もしないで引きこもる』
 という思想が蔓延した時代です。
 ――中略――
 要するになんでも自分のせいではなく世界のせいにする思想です。
 『世界が複雑で不透明でよくわからないから、
 自分では努力しなくていい』という発想がここには蔓延している」


宇野氏に限らず彼を持ち上げた一部の人たちは
本当にそんなことを信じているのだろうか。
これが連載の「ゼロ年代の想像力」と
この総括を読んだ時の率直な感想である。
世の中のしくみが変わったり」、
何が正しいかわからない」のは、
別に現代特有のことではないだろう。
若い人はかつてのソ連が崩壊するべくして
崩壊したと思い込んでおられることが多いが、
ある朝起きてTVつけたら字幕が飛び込んできて、
唐突な事実を思い知らされたというのが実際のところだ。
ただし、時間が経てばすぐにその驚愕の“気分”は忘れられて、
無味乾燥な歴史の一項目となってしまうのである。


一方、89年のマルタ会談で冷戦が終わり、
これから平和裏に“社会主義”が“発展していく”、
あくまでも知識人たちはそう思い込んでいた。
だからこそ、91年はそういう意味で画期となったし、
丸山真男などは苦し紛れに
これから“新しい”社会主義が始まる
などと言わざるを得なかったのである。
若い人々よ、これが「時代」を生きるということなのだ。
反省もしなければ、賢明でもない、
ただ日常と事件が繰り返されるだけのことである。


世界が複雑で不透明でよくわからない
とは我輩の若い知人からもよく聞くのだが、
我輩などにはいまいち理解できない。
資本主義の前に共産主義社会民主主義ファシズムも、
悉く敗れ去ってきた訳で、
この単線的な社会システムに屈従するしか、
もう選択肢はないという状況である。
民主主義とて今更天皇親政を訴える馬鹿はおりますまい。
このあまりに自明過ぎるシステムにおいて、
自己をどう位置づけるか、それだけのことである。
もちろんその位置付けというのは中々に困難なのであるが、
我々にもはや退避路など存在しない。


ルールが壊れてしまった」とか、
引きこもっていたら殺されるサバイブ感」だとか、
我輩にはちっとも理解できない。
隣の山田さんがいきなり部屋に乱入して我輩を包丁で刺し殺し、
太陽が眩しかったから」などと言ったりする。
そんなことを宇野氏は現実に想像しうるのだろうか。
大体、ヴァージニア工科大学の銃乱射事件を
人々の常識は迷い無く異常として処理したのであって、
ルール(法律)が生きている限り、
その種のアナーキーな世界は想定し得ない。
加えて、何時如何なるどのような社会であろうと、
サバイブしていかないと自滅・堕落・淘汰が待っているのだから、
緊張感という意味での「サバイブ感」は常識であろうし、
不条理としての「サバイブ感」であれば単なる妄想か神経症であろう。


殺さず、盗まず、姦淫せず。
この程度のルールは今でも健在である。
これに嘘をつかないと酒を飲まないで、
仏教では「五戒」と言うのだが、
後者の二つにしても大抵の人は、
「後ろめたさ」くらいは持つだろう。
換言すれば我々の罪悪感とか倫理観とかも
その程度の問題に過ぎない。
要は「後ろめたい」という“気分”である。
「我々自身」もこの種の「倫理」もアプリオリなものなのであって、
まったく「理」的でも「知」的なものではないが、
我々はそれによって生かされている、それは厳然たる事実だ。
「信じられない」という事実があるのではなく、
せいぜい「信じ難くなった」程度の問題に過ぎない。
「虚無」も「孤独」も我らの前にはない、
後ろに潜んで嗤っているのだ。
それを自覚せぬ限り混乱の本当の原因は見えぬであろう。