「決断主義」なるものの再検討(2)

●精神思想の日本“近代化”史

我が国は二度の近代化を経験した。
一つは明治維新、いま一つは敗戦と復興である。
そして、その両方ともが、
強制と移植によって近代化を達成している。
「近代」が生み出しそれを支えてきた諸概念
――自由主義個人主義、資本主義、民主主義は、
突如として我々の前に現れたものであった。
我が国においては時代の高さが常に意識と乖離しているのである。
なぜなら、それらはすべて移植と模倣に過ぎないからだ。
そういう意味において日本に必然としての「近代」は存在しない。
あるのはただ「近代化」という移植の事実、偶然である。


近代の諸思想、諸権利はヨーロッパにおいて起こった
数世紀にもわたる運動の結果成立したのであって、
突如として現れ付与されたものではない。
しかし、我々はまず知ることでこれらを意識せざるを得なかった。
時代はまだそこまでいっていないのに、
我々はすでに意識の上で成立してしまっている。
この歴史性を欠いた思想、概念、諸権利は
我々に違和感すら覚えさせてきた。
この違和感が明治時代の知識人達を苦しめたものの正体である。


元より「精神」や「思想」は
“内発”的な性質を有しているにも関わらず、
何の批判せずひたすら“外発”的に移植してきた連中、
それが日本の知識人の生態なのだ。
見たこともないものを見、
分かってもいないことを知り、
ないものをあるかの如く語ることが、
精神の退廃や思想の混乱を招かない訳がない。
だが、それは自業自得、単なる自己錯誤に過ぎない。


そして、今日ですら我々を混乱せしめている。
我々が着ているのは、
父祖から譲り受けたものではなく、
他人の衣服の継ぎ接ぎでしかないのだ。
これを意識していない現代の欧化主義者たちは、
江戸時代の上杉鷹山を民主主義者とみなすような
無知を平気で曝すのである。
言うまでもなく鷹山は民主主義など知らない。
それを知り意識しているのは発言者自身に過ぎない。
知っているが故に彼らは斯様な幻想を見出すことが出来るのである。


このような心性は我々が歴史を紐解くとき度々見られる。
我々が過去を顧みるとき、
あたかも山からふもとを見下ろすような気で見ている。
過去を見るものは知らず知らずのうちに、
自分が時代の頂点に思い込んでいるのである。
つまるところ、過去のあらゆる出来事、文化、知性は
自分より劣っていると思い込んでいるのだ。
このような態度は中世を暗黒時代と見なすような形であらわれる。
(その裏返しとして“美化”される過去というのもありうる。
 むしろ昨今はそちらの方が問題であろう)
なるほど、確かに時代はかつてと比較にならないほど高い。
しかし、それは個々人の高さではないのである。
個々人においては自意識過剰と高慢さのみが
際立って現れているのに過ぎない。

●「大衆」――裸の王様たち

この種の高慢な人々、それが「大衆」である。
『大衆の反逆』のオルテガの定義を拝借すれば、
  大衆とは、自分の歴史を持たない人間、
  つまり過去という内蔵欠いた人間であり、
  したがって『国際的』と呼ばれるあらゆる規律に従順な連中である。
  ……大衆はただ欲求のみを持っており、
  自分には権利だけがあると考え、
  義務があるなどと考えもしない
のような人々のことである。
オルテガが見た「大衆」は30年代のヨーロッパ人であるが、
今日の日本ではまさにオルテガの見た「大衆」が
あらゆる知的領域にまで影響力を振るうようになっている。


さて、ここで念のために記しておくが、
「大衆」を庶民と勘違いなされている人々がいるようだが、
まったく異なる。
オルテガの『大衆の反逆』から引用すれば、
  大衆とは、心理的事実として定義しうるものであり、
  個々人が集団となって表れるのを待つ必要はないのである。
  大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、
  自分自身に特殊な価値を認めようとせず、
  自分は「すべての人」と同じであると感じ、
  そのことに苦痛を覚えるどころか、
  他の人々と同一であると感ずることに
  喜びを見出しているすべての人のことである


ところで、先日この文章を引用したところ、
「すべての人」などは存在しないと指摘してくれる方がいたが、
実に当たり前なことである。
無論、オルテガ自身もそのことには気がついている。
再度、オルテガ自身の言葉を借りれば、
  この「すべての人」が
  真に「すべての人」ではないことは明らかである。
  かつては「すべての人」といった場合、
  大衆とその大衆から分離した少数者からなる
  複合的統一体を指すのが普通であった。
  しかし、今日では、すべての人とは、
  ただ大衆を意味するに過ぎないのである
ということになる。

●究極的に台頭する「大衆」

大戦後にヨーロッパにおいてもはや「明日の世界」は、
昨日の世界」(ツヴァイク)の落日に過ぎなかった。
進歩という目標(未来)を喪失した近代後の世界、
それがヨーロッパの30年代である。
かつての貴族主義者たちの黄昏の最中に、
輝ける曙光を迎えた者たちが居る。
それこそが凡庸なる「大衆」たちである。
彼らが社会的頂点に立ち政権を奪取したところに、
決断主義」――ファシズム、ナチズムが誕生したのである。
アナーキスト崩れのイタリー人に、
ボヘミア生まれの伍長殿。
そして、その他諸々の有象無象ども。
奇妙で冷酷な倫理を纏った彼らは
ヨーロッパを駆け抜け殺戮の巷に変えて行った。
歓喜の声は悲鳴に変わり、やがて廃墟だけが残った。
そして、全てを失った彼らの存在意義を与えたのが、
5,60年代の実存主義である。


ところ変わって我らが「美しい国」日本。
ファシズム実存主義もとうに消費された後に、
神も、意味も、目的も失われた世界に
「大衆」が颯爽と現れた。
彼らの特徴はその軽さにある。
歴史性なき彼らは瞬間瞬間を生きているのに過ぎず、
彼らは絶え間ない断層(現在)に生きている。
10年の間も置かず世代論が書かれるのはまこと故あるかな。
彼らにはまさに「今」しかないのだ。
過去も、未来も、“現代”すらも失い、
線を結ぶことなき点として「現在」は描かれる。
「流れ」も「堆積」もなく、
点滅する時間の生を営むばかりだ。
今や個々人が個々人の「現在」を生きるだけであり、
だからこそ「世代」を偽装してやまない。


自由とは所詮何かを生み出すのではなく、
選択において自ずからに由るというだけのことに過ぎない。
その責任を負うものとしての自己があり、
我々はそれが重荷であるかのような感じられる。
選択することに疲れ果てたとき、
「自由からの逃避」(E・フロム)がはじまる。
最近流行の「ポストモダン」というのは、
新しい、「モダン」ではない何かなのではなくて、
「近代」で手札を出し尽くしてしまって、
どうしようと途方に暮れている状態といったところか。


今日の日本では「すべての人」のかわりに
「国民」という言葉が用いられることが多い。
政治家が「国民」という言葉を用いているとき、
実際には「大衆」という意味で用いられているのである。
つまり、今日の政治は、「すべての人」のための政治ではなく、
ただ「大衆」を満足させるためだけの道具と成り下がっている。
また、「大衆」は少数者においても現れる、
彼らはただ大多数者から分離しているというだけで寄り集まっている。
彼らは自分の権利が少数者であるというだけで
得られると思い込んでいる。


実際のところ、少数者にとっての「自由」とは、
多数者の放棄によって、「与えられている」のに過ぎない。
このような自分自身で得たのではなく、
与えられているに過ぎない「自由」に自覚しない者も
数の上では少数であれ、「大衆」である。
このような少数者の大衆はネットに現れている。
ネット上の大衆は匿名性と自由を享楽のように用いている。
彼らは現代の野蛮人である。
与えられたものをただ用いているのに過ぎないという意味で、
さらには飼われているが自覚に乏しいという点で、
もはや「蓄群」(ニーチェ)と評してもよかろう。
そう言えば、「ネットイナゴ」なる通称もあるそうだ。


このような多くの事に飽きた現代人にとって
選挙とは数ある娯楽のひとつに過ぎない。
彼らは自分で物事を考える能力があると感じ、
そうしていると思い込んでいる。
しかし、実際には、彼らの意見は世論なる
不可解な意見によって形成されているのであって、
自分自身の意見ではない。
彼に不足しているのは知性ではない。
彼らは確かにあらゆる時代の人間より上手く
道具を使いこなすことが出来る。
しかし、彼は使うだけであって、
生み出すことをしない人間である。


彼らが使っている発明品に対してなんら感動を覚えず、
それを当然だと思い込んでいる。
彼らを支配しているのは、自由という選択の不安か、
あるいは「飽き」という究極的な虚無である。
そして、彼らには自覚が決定的に不足している。
現代人はあまりに物事に対して無頓着、無感動、無自覚で、
彼らは彷徨える夢遊病者のようですらある。
時として彼らは多くのものを批判し、否定するのだが、
彼らがそうしたものに生かされているという事実を見ようとしない。
「自覚」は思索の前提であり、
あらゆる知的活動の第一歩となる。
さしあたって足元の雑草の名前でも調べては如何かなどと思う。
先帝が仰せられたように名も無き草花など無いのであるから。


しかし……
「救済」も「存在意義」も失われた(Lost)今、
日本の迷子(Lost)たちは何処へ行くのだろう……

 雨ニモアテズ 風ニモアテズ


 雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ


 ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ


 意欲モナク 体力モナク


 イツモブツブツ 不満ヲイッテイル


 毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ 遊バズ


 朝カラ アクビヲシ  集会ガアレバ 貧血ヲオコシ


 アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ


 作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ


 リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ


 東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ


 西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ


 南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ


 北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ


 日照リノトキハ 冷房ヲツケ


 ミンナニ 勉強勉強トイワレ


 叱ラレモセズ コワイモノモシラズ


 コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ


「知ってる?現代っ子雨ニモアテズ』」
7月12日8時8分配信 産経新聞 より引用
via = ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070712-00000047-san-l38