世界史と地政学

世界史なるものは存在しない。
それが曖昧ながらわたくしを
支配してきた歴史観であった。
事実として世界史なるものはなく、
あるのは世界史的という解釈のみである。
そもそも歴史観歴史認識という言葉すら
わたくしは否を唱えていた。


時間という空間的に無形で流動的な概念に対して、
我々は歴史という概念を発明したのであり、
それらは認識され観察されるものであるのだから、
そもそも歴史という概念には認識が含まれている。
そういう風に屁理屈をこねていた。


思えば、わたくしの観る歴史は
実に皮肉っぽいものであった。
ナポレオンが小論で出題されれば、
田舎者のイタリア人で禿の小男が
フランスの英雄となるという皮肉を述べ、
アジアとは何かと問われれば、
アジアなるものは存在しない、
あるのは地理上の概念だけであると答えた。


世界史という教科書に対してもまた
わたしくしはシニカルな視線を注いだ。
世界史なるものはなく、
教科書に書かれているのは、
諸国の歴史の継ぎ接ぎに過ぎなかった。
バラバラに裁断された記録を漫然と渉猟する。
まるで他人の家計簿を見るのを
強いられるような不毛さが行間から漂っていた。


「近代」という時代は
世界史を形成する過程であった。
その形成の過程が終焉せぬまま、
世界史は急速に解体されつつある。
それが現在の世界認識だ。
われわれは「世界」という在りもしない
想像された空間を以ってその「世界」とやらを語る。
創り出された観念<fiction>の世界は
それが深化すればするほどに
現実の世界から乖離していく。


サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』は、
細かいところを気にするべきでない。
日本の学者はその精密さを好む性分から、
細かい事実誤認を以って彼の主張を突き崩そうとしているが、
はっきり言って不毛だ。
彼は木を見ない。彼が見ているのは常に森だ。
彼は現在を語っているのではない。
未来を語っているのだ。
それ故に現在に生きるわれわれは、
彼の著書が出た際に俄かには理解できなかった。


ハンチントンの近著『The big picture』*1は、
地政学の本質をついたタイトルだと思う。
『The big picture』は日本語で言うと
俯瞰図やワイドのような意味だ。
彼らの描く絵は常にモノクロのデッサンだ。
色は現実が後から塗ってくれる。
地政学というのはアガデミックな学問ではない。
だが、前世紀以来主に米国や英国など
覇権国家の航海地図であった。


素人目にも玄人目にも
粗雑な記述が目立つ地政学の巨人達は
まるで予言者のような威光を放っている。
西欧には予言者が現われる。
マルクスニーチェのような
陰鬱な現代の黙示録を残すものも居れば、
ブレジンスキーのような明るい予言者も居る。


ケインズヴェルサイユ講和会議の
賠償請求問題の担当者であったが、
この復讐的な賠償請求が先の大戦以上に
悲惨な戦争を招くだろうという
捨て台詞を残して辞任した。
同様に仏のフォッシュ元帥は
これは講和ではない、
20年の休戦協定だと皮肉を述べた。


ファウンディング・ファーザーズの一人、
A・ハミルトンは約600万ほどの人口しかない
農業国時代のアメリカ合衆国において、
将来の大国を予見したかのような政策を実施した。
彼の残した青写真は実に一世紀後の
セオドア・ローズヴェルト時代に結実した。
戦略家マハンは彼の後裔と言える。


ブレジンスキーは70年代のどん底時代に
高度成長期の日本を「ひよわな花」と評し、
その繁栄の脆弱性を指摘していた。
これは90年代のバブル崩壊の予見であったと言えよう。


わたくしは彼らの予言に戦慄すら覚えた。
世人は『ノストラダムスの予言』のような
どうでもいい破滅的ロマンに耽っていたが、
彼らは寒気がするような冷徹な眼差しを
未来に投げ掛けていた。
わたくしはこのような連中に喧嘩を売った
父祖の無謀さに愕然とする。


われわれの多くは過去を見て現在を語る。
そして未来は願望によって脚色される。
あるいはバラ色に見えるその未来観は、
過去の否定と言う黒色を裏地に描かれている。
たとえば姜尚中
彼は未来を語らない。
彼が見ているのは常に過去だ。


彼の理想的な革新思想は未来を美化するが、
真に未来に前向きの姿勢をとっていたとは言えない。
未来は語っていたが、
その眼は常に過去だけしか見ていなかった。
過去を批判し、否定しただけだった。
彼の現在認識、未来記はすべて
裏返しにされた過去物語に過ぎないだろう。
彼の言霊は現在を呪詛し、
未来に対する桎梏に他ならない。


彼の描く幻想のパトリは
眼が潰れんばかりの極彩色に輝いている。
それは今を生きる者にとって、
未来を生きようとする者達にとって、
航海士を惑わすローレライの如き美であろう。
彼が誠実になろうとしても、
いや、誠実あろうとすればするほど、
その呪縛の鎖は重くなっていくだろう。

*1:邦題『引き裂かれる世界』