田中明彦『新しい中世』

先日行われたフランス大統領選挙は大方の予想通り、
右派で元内相のサルコジ氏が当選し組閣も無事行われた。
冷戦が終わってもう随分と経つが、
ようやく冷戦後の世界の在り方というものが見えて来つつあるのではないか。
ある種の固定観念を取り払って素直に現状を見つめた時、
我々は最早過ぎ去ったはずの夏を思い起させられるのである。
それはナショナリズムであり、国民国家と呼ばれるものだ。
我々はかつての19世紀ナショナリズムの時代に逆行しているのではないか、
と錯覚する程に今日の世界で国家主義排他主義の数々を目撃する。
好むと好まざるとに関わらず、
多くの楽観的な理想主義者の予想に反して、
冷戦後の世界においてなおナショナリズム
国民国家主権国家)というレジームが
支配的な地位を占めて続けているのは否定しがたい事実なのである。


昨今、主にアメリカの外交政策を批判して、
ユニラテラリズムやら、マルチラテラリズムであるとか、
舌を噛みそうになるカタカナ語を用いる事が流行っているようだ。
だが、どちらにせよ安易に単純化して考えない方が良いだろう。
どのような国家も国家の存続が関わるような場合には、
自国の利益を最優先するものであるし、その逆もまた然りだ。
個々の国家が独立した主権を有しているのだから、
平時においては確かに主権の譲歩が見られているとしても、
本当に多国間主義やマルチラテラリズムを保障するかは定かではない。
関係の濃淡や数が関係性そのものを規定するとは限らないのだ。
それは未来への保障に欠いているばかりか、担保はおろか
バランスシートすらない貸付のようなものに過ぎないであろう。


今や冷戦期の国際関係の理論の数々が
現代の試練に耐えられないように思われる。
何故ならそうした理論の多くは、
冷戦のような安定した二極構造を前提していたからである。
我々はあの時代が「長い平和」(J・L・ギャディス)
であった事を認めざる得ないような時代に生きている。
もちろん、冷戦期においても、
朝鮮、ベトナムアフガニスタン……
多くの若者の血が流れたのは事実である。
だが、冷戦の“主戦場”であったヨーロッパは
近代史上類を見ない平和を享受した。


一方、現代は構造的に二極よりも不安定な多極の時代である。
マクドナルドのあるような発達した資本主義国間では戦争は起こらない、
民主主義国家同士は平和を愛し戦争をしない、
そういった希望的楽観論が冷戦後に掲示されたが、
そうした理論には根拠がまったくない。
我々はむしろ本質的には何ら変わっていないという事に気がつかされ、
愕然として茫然自失に陥ってしまうのである。
つまり、希望に満ちた冷戦後の世界が、未来が、
冷戦前の世界と何ら変わらないという純然たる事実だ。


現代の時代精神、時代状況に関して、
ポストモダン」と呼ばれる時代精神の提唱がある。
ポストモダンの時代状況や社会が、
近代というよりもむしろ前近代、「中世」に似ている事が、
様々な分野の学者によって指摘されている。
古くは20世紀初頭の思想や歴史の分野において、
近年ではポスト冷戦の外交論、
特に田中明彦氏による「新しい中世」論*1で注目された。


ここで言う「中世」とは、
主に「ヨーロッパの中世」を指す。
「新しい中世」論、特に外交論においては、
ヨーロッパ中世のみを念頭に置いて頂きたい。
前近代の日本には、あるいは東アジアには、
狭義における「国際」関係は存在しなかった。
支那中華思想による柵封体制は面と面ではなく、
同心円状に濃淡で表される世界である。
広大な支那を支配した華夷秩序は、
中心点こそあれ強固な枠組みを創り出す物ではなかった。
彼らの世界は彼らの内にのみに在り、
世界はその内で完結されていた。
彼らにとってその外は国境などという生易しいものではない。
それは異界であり、鬼界であり、化外の地であった。


西欧との衝突後に現われた日本の亜細亜主義には、
あるいは「アジア」という概念そのものすらも、
中核、求心点や実在性を明らかに欠いていた。
岡倉天心は「アジアは一つ」と述べたが、
彼は英語で「Asia is one」と西洋人に宣言したのであって、
それは欧州ではないものとしてのアジアというだけの
極めて消極的な概念に過ぎなかった。
アジアという概念はヨーロッパ中心主義の裏返しに過ぎない。
アジア的なもの、日本的なるものの自覚や再発見もまた、
意識的にそれを目的化しているのに過ぎないのだ。
そのようなものは特殊な例外に過ぎないのであって、
例外を以って一般を語る愚を犯している。
アジア主義は中核無き、あるいは求心点の無い思想である。
報われる事の無い奉仕者となるか、
エゴイストとなるかの悲劇的な結果しか生み得なかった。
それ故に日本が先導すれば侵略に繋がり、
支那が先導するようになればまた侵略に繋がった。


アジアがアジア共同体と呼べるものを
経ずに近代を経験したのに対して、
ヨーロッパの近代はその共同体の解体を意味した。
自主独立の主権国家の思想は、
ヨーロッパ共同体の否定の上に成り立つ。
あるいは近代そのものが中世を暗黒時代と見做す、
中世の否定の内に成り立っている。
現在のEUは中世の復権であろう。
EUは新しい秩序の試みではない、
それが意味するのはヨーロッパ世界の再編であり、
中世ヨーロッパの再興である。


中世ヨーロッパとは陸の海であった。
一元的な権力が支配せぬ無数の封建領土
――中世世界という海に浮かぶ島において、
国家の自覚は極めて希薄であった。
例えば、ジャンヌ・ダルクは、
フランスの解放者と呼ぶべきではない。
それはフランスの覚醒者とでも称すべきものだ。
カペー、ヴァロワというパリを拠点とする
単なる大貴族に過ぎぬフランス王権において、
支配階級にあった者でさえ自国の意識は薄かった。
そういう意味においてジャンヌは異端かも知れない。
貴族達には王と王冠しか見えなかったが、
彼女は忠義を捧げたシャルルの頭上に
主に祝福されし国家をフランスを見たのだから。


ジャンヌ・ダルクの如きナショナリストを輩出する一方で、
ヨーロッパはインターナショナリストも躍出した。
キリスト教を支柱とするヨーロッパ共同体には、
国の曖昧な主体の交流からインターナショナリズムが生まれた。
その中核にあったものがバチカンである。
しかし、インターナショナリスト
常にナショナリズムに引き裂かれる運命にある。
国王ヘンリー8世に取り立てられながら、
終始その反対者であり続けたトマス=モアの悲劇は、
彼がインターナショナリストであったからだ。
彼の死刑は離婚問題だけが原因では無いだろう。
欧州の外れにあり元々ローマの影響力が弱かったイギリスは
百年戦争を経て緩やかに近代国家に、
つまりはヨーロッパから自主独立の道を歩みつつあった。
その離陸期における時代精神とのギャップが
ローマとの融和を目指すトマスを惨死に追い込んだと言えよう。
その意味において彼は王以上に伝統的であってさえいた。


ホブズボームらが言うように確かに伝統は創られたものだ。
だが、しかしそれは意図的に創られたものではない。
言語の恣意性と同じくそれは恣意的なものなのであって、
人間やその理性によってどうこう出来るものではないのだ。
中世のキリスト教世界としての欧州共同体は
近代においては単なる反動思想に過ぎないのである。
近代は独立した主権国家を正統(伝統)とし、
共同体を異端として排し続けている。
したがって、遅かれ早かれEUの挑戦は挫折するだろう。
あれはまるで宇宙のように広がりの果てに消失するか、
極大点を回って収縮に転じ消滅するだろう。
そして、この消滅の仕方次第ではまた欧州の地に動乱が起ころう。

*1:『新しい「中世」――21世紀の世界システム』(日本経済新聞社, 1996年/日経ビジネス人文庫, 2003年)

読売新聞「『飛び入学』人気なし」

●「飛び入学」人気なし、10年で72人だけ…拡大見送り
             4月11日16時13分配信 読売新聞


優秀な高校2年生に大学の入学資格を認める
飛び入学制度」による入学者数が伸び悩んでいる。
今春の入学者は10人で、
制度開始から10年たった現在までの累計でも72人。
当初は「大学改革の起爆剤」と期待されたが、
制度を導入した大学も6校にとどまる。
高校2年生に限定している対象を拡大するかどうか検討していた文部科学省は、
こうした状況を受け、拡大を見送る方針を決めた。
「楽しい高校生活を切り上げてまで、
 あえて大学入学を急ぐ必要はないと思うのかも……」
今春、飛び入学での入学者がゼロだった昭和女子大(東京都世田谷区)。
2005年度に飛び入学を導入して以降、志願者はいない。
「門戸を開けておけば、いつか入ってきてくれると思うのですが」
と担当者は話す。


明治の教育設計者――具体的に言えば森有礼井上毅は、
制度設計者として極めて優秀であった。
(現在においてすら根本的な制度変更は出来ていない)
彼らは大学を大学として、
小学校を小学校として設計したわけではない。
彼らは一連の小学校から大学への流れ、
今で言うならキャリアデザインを作ったのである。
部分だけを考えていてはダメなのだ。
部分を繋ぎ合わせたところで全体にはならず、
そういう還元主義的発想は事物の断片化を加速させる。


そういう意味でこの飛び級制度は
設計思想として最悪である。
流れを加速させたり、
あるいは減速させる装置としての制度は、
全体の門戸が開かれている時のみに有効に作用する。
これは原子の運動に似ている。
つまり固体の時において微弱になり、
気体になると運動が活発になる。


飛び級というのは流動性を高める装置(マシーン)なのであって、
制度(システム)の固定性が強いときには有効に作用しないし、
そもそもインセンティブに欠けるのである。
制度改革において最も最悪なのは、
軍事における兵力の逐次投入のように、
継ぎ足していく漸加的な方法なのだ。


制度は常に体系(システム)なのであって、
それ自体は中身(コンセプト)ではない。
喩えるなら制度は箱や入れ物なのであって、
そこに何が入っているかは分からない。
が、ダンボールに水を入れないように、
箱は入っている物を規定する(規律付ける)。
したがって、枠組(パラダイム)の設計は
常に内容に先行しなければないのである。


現代の日本の場合、制度に対する一貫性が弱いために、
色んな脈絡の無いコンセプトを付け足したがるが、
誤解を恐れずに言えばそれは無い方がマシだ。
集中傾向にある日本の制度設計では、
枠組や全体の制度は中身や装置と一体なので、
我輩のVAIOtypeMと同じようにキーボードを修理したくても、
本体ごと持っていかねば意味が無いのである。
水漏れのする花瓶に新たな水を入れても、
根本的な解決にならないように。


厚化粧が見苦しいように、
漸加式の改革は何時だって愚かしく、
また、事態をかえって複雑に悪化させる。
根本的な改革以外はしない方が常にマシである。
屋根を強化し、壁を強化しても、
その重みに耐え切れなくなった柱のようなもので、
かえって被害を深刻化させるからだ。
システムの設計は継続性を長期化させる戦略が必要なのである。

福田恒存 D・H・ロレンス『黙示録論』

我輩はこの頃一つの命題に引きつけられている。
それは「誠実」という名の呪縛についてだ。
今日のネットの正義漢をなどもそうだが、
彼らは誠実さに突き動かされ、
他者を誠実さで突き立てるのだ。
ところが彼ら自身その誠実さの奴隷となっている事に気が付いていない。
個性というのもまたそうだ。
自身に忠実であろうという「誠実」さに惑わされている。
これらは誠実さのピューリズム(純化)と呼んでも良いだろう。


思想というものに触れ続けて思う事は、
知的である事、理性的である事の難しさだ。
これは本当に難しい。
人々は理知的である事よりも、
誠実である事を求めてくる。
彼らの理想や希望に忠誠を誓わされるのだ。
いや、理知的である事、
これすらもある意味では誠実さの呪縛に囚われている。
理性に我々は屈服され服従を強要されているのだ。
人々はひたすら自由からの逃亡を図り、
誠実に従属する道を歩んでいる。

哲学は自己自身が本質的に未確定なものであることを知っており、
善良な神の小鳥としての自由な運命を喜んで受け入れ、
誰に対しても自分のことを気にかけてくれるよう頼んだりもしなければ、
自分を売り込んだり、弁護したりもしないのである。
哲学がもし誰かの役に立ったとすれば、
哲学はそれを素直な人間愛から喜びはする。
しかし哲学は他人の役に立つために存在しているのではなく、
またそれを目指して期待してもいない。
哲学は自己自身の存在を疑うところから始まり、
その生命は自己自身と戦い、
自己の生命をすり減らす度合いにかかっているのであれば、
どうして哲学が自分のことを真剣にとりあげてくれるよう
要求することがあろうか。


オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫


哲学はただ自分自身のためだけにあると断言する
在野の哲学者オルテガは常に独りだ。
いや、本当の意味での哲学者、思想家、宗教家は
皆例外なく何時如何なる場合も独りであった。
寒林に独り住まう仏陀
愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。
 愛する人と会わないのは苦しい。
 また愛しない人に会うのも苦しい*1と我等に教え、
犀の角のようにただ独り歩め*2と説く。
我々が聖者足り得るのはただ独りの時のみである。
一度、群集の中に身を置き、
あまつさえそれを導こうなどとすれば、
たちまち彼は聖者ではなくなる。
彼は俗悪に染まったただの治者(政治家)に堕ちざるを得ないだろう。
我輩はその事が悪いと言っているのではない。
政治は集団にとって不可欠である。
あのイエスでさえ「カエサルのものはカエサル
と肉体(現実)の救済を放り出さざるを得なかったではないか。
斯くして肉と魂は分離し我々はそれに苦しむ。
しかも、宗教家は我々の内の肉に対して鞭を振るうばかりだ。
肉の欲求を否定し、肉の内に宿る力を弱めてしまう。
肉の救済に関しては「アナテマ(呪詛)!アナテマ(破門)」
と拒絶するばかりである。
我々が信仰に失望するのも無理は無い。


我輩が言いたいのは人間風情が他人を救おうなどと
思い上がった事を考えるべきではないと言う事だ。
乾きに苦しむ者はオアシスに導けば良い、
救いを求めるものにはそれを与えれば良い、
だが、しかし、である。
砂漠にあってなおさらなる荒野を目指す者、
オアシスから脱しようとする者、
楽土から出でて自ら修羅道を歩まんと欲する者、
そうした縁無き衆生を救う事など不可能ではないか。
求めざる者に何を与えよと言うのだ。
本当の意味での絶望とは度し難いものなのである。


本書『黙示録論』の訳者福田恒存はロレンスによって
己の思想を形成したと言っていたが、
彼らが何に戦ったのか、
それがこの一年間彼らの著作を読んでいて、
いつも心の隅で解けずにいた問題だった。
福田はロレンスの『黙示録論』に
「現代人は愛しうるか」という副題をつけた。
愛を説く福音書とともに
聖書に紛れ込んだ復讐の書『黙示録』。


「愛しうるか」という命題は
同時に「許しうるか」という命題でもある。
我々はなお他の存在を許しうるか、
そうでなければもとより他と結びつく事すら不可能だ。
ところが現代の個人主義は 他と結びつくどころか、
その結びつきに反抗しそれを重荷とすら感じている。
これが病理でなくて何なのだ、
とロレンスの口を借りて福田は問うてくるのだ。 

……ユダはいわばイエスの教えに内在する否定と遁辞とのために、
師を権力の側に売りわたさねばならなかった。
エスはその弟子たちの間にあるときさえ、
純粋に個人の位置を保っていた。
こころから彼等と交わったこともなければ、
行動を共にしたことすらなかった。
彼はいついかなるときにも孤独であった。
徹頭徹尾彼等を困惑せしめ、
ある点では彼等の期待に背いていたのである。
エスは彼等の肉体的権力者たる事を拒絶した。
そのため、ユダのような男のうちにある権力渇仰熱は
みずから裏切られるのを感じていたのだ!
ゆえに、それは裏切りをもって逆襲し、
接吻をもってイエスを売ったのである。
まったく同様にして黙示録は福音書に死の接吻を与えんがため、
新約のうちに挿入されねばならなかったのである。


D・H・ロレンス『黙示録論』ちくま学芸文庫


我輩が読んだ聖典の中で最も共感を覚えたのは
エスを売ったイスカリオテのユダであった。
異端の書「ユダの福音書」のようなユダ解釈によるのではない。
彼が余りに現実的な俗物であったからだ。
「ルカ伝」の「一匹と九十九匹」の寓話の内、
エスが九十九匹を捨て置いて一匹に向かわんとするのに、
ユダのような健全な俗人はあくまでも九十九匹にしか目が行かない。
師の視線が己を通り越している事に気が付いた時、
彼が裏切られたと思い、呪ったとして不思議ではない。
己の愛情がまったく顧みられないと知った時、
ほとんどの女が悋気に狂うように。
ユダはイエスの事を愛してはいただろう。
だが、そうであったからこそ疎外感を覚え、
己を踏み躙るイエスに反発し憎悪せざるを得なかったのだ。


ロレンスは、福田は「愛しうるか」と
――それは同時に「信じうるか」でもある。
絶望のただ中でなお絶叫している。
とにかく答ばかりを早急に求めたがる中にあって、
彼らはただ問を発するに留まっている。
いたずらに先走った問題意識と答を
求めたがる人々はロレンスの『黙示録論』に、
福田の全評論に対して失望を感じる事だろう。
だが、思想というものは答ではないのだ。
固有の思想とは固有の問い掛けにこそある。

実際の話、諸君が大衆に向かっていかに
個人の自我実現を教えようとこころみたところで、
彼等は万事が語られ行われたのちにも、
所詮は断片的な存在にすぎず、
到底全き個人たることはできぬのであるから、
畢竟、諸君のなしうることは、
彼等を実に嫉妬深い、恨みがましい、
妄執の鬼と化するに終わるのである。


『黙示録論』


我輩は以前、『国家の品格』のような
盲目の弱者による弱者救済の書を読む大衆人に対して、
自分はお前らを啓蒙しようとなど思わない、
 なぜなら自分が正しいなどとは思っていないからだ、
 ただしお前らは間違いなく俺より間違ってる*3
と受け取られかねない趣旨のエントリ*4を書いた。
今でもそうした考えに変わりは無い。
我輩は我輩のためだけに考える。
我輩の考えた事つまりは思想もまた然りである。
我輩は他人に教えを説こうなどとは思わない。
ロレンスの警告を素直に受け取る方を選ぶ。
縁なき衆生は度し難いのである。


思想を、信仰を説く者は常に独りでなければならない。
一度、迷える畜群を導こうなどと思えば、
その羊達は自分達だけの居場所を求め、
他者を認めず、己を栄光のもとに選ぶ事を欲するだろう。
パトモスのヨハネは挫折したクリスト者に、
強者に成り得ぬ弱者に救済を与えた。
しかし、その救済の内容たるや異教徒を悉く抹殺し、
悪徳の都を徹底的に破壊しつくさねば気がすまないといった、
甚だ復讐的な、おぞましい身の毛もよだつものであった。
今日でさえこうした『黙示録』的救済、信仰は残っている。
オウム真理教を見よ。彼等は己の王国を築かんために、
無辜の――彼らにとっては罪深い民衆に牙を向けた。
彼等の本質は弱者たる羊に過ぎぬのであって、
彼等は牙を生やした一匹(異端)の羊であったのだ。
弱者(羊)は弱者に過ぎぬのであって善良なのではない。
強者(獅子)がただ強者であるように。
思想や救済を説く者達はその残酷な現実に、
酷薄さに目を背けずいられるだろうか。
富者による貧者の搾取を説くマルクスとその使徒達も、
己の理想の王国を作り、富者を地上から抹殺せんとした。
ヒトラーの如き狂える聖人は、
ユダヤ人を地上から消し去る事が出来ると本気で考えていた。


古の仏陀は独り獅子吼する、
自分ほどかわいいものは存在しない
私にとっても、自分よりさらに愛しい、他の人は存在しない。
 ……そのように、他の人々にとっても、
 それぞれの自己が愛しいのである。
 それゆえに、自己を愛する人は、他人を害してはならない*5と。
我輩は仏陀の辻説法のようにただ吼えるだけである。
仏陀も、我輩も、何人をも見てはいない。
視線は何時も眼前を越えて空へ投ぜられる。
ある意味では全てを許し、
また、ある意味では全く愛してなどいない。
あくまでもただ独りなのだ。
彼の前には寂漠たる荒野が待つのみである。


我々はただ我々自身にのみにしか救済を掲示出来ぬ事を、
(そして、それすらもやがては迷妄に過ぎない事を思い知る事になろう)
どのような個人的な理想も我意に過ぎぬ事を素直に認めるべきである。
現実にある、己の内にある我意や悪を素直に認めた所に、
――いや、認める事が出来なければ、
たちまち第二、第三のナチス、オウムは現れてくるだろう。
自分達以外の他者全てを抹殺せんとするような。
果たして、我々はなお他者を許しうるのか、
そして、愛しうるのだろうか。
……おそらくは不可能であろう。
我々の結び付きは引き裂かれ、悲劇的な結末を迎える。
何度も、何度も、何度も。
自分自身に対してすらも我々は剥き出しになった我意に
己の個性とやらがズタズタに傷付けられる危険を孕んでいるのだ。
最悪の場合、我々は自分すらをも許す事が出来なくなるだろう。
自殺とは絶望ではないのだ。それは度し難い憤怒なのだ。
輝ける生命に対する陵辱であり、嫉妬であり、憎悪なのだ。


それでも生き続ける我輩は己の我意が踏み躙られ引き裂かれるたびに、
本書と対話を試みる事になるのであろう。
福田恒存とロレンスの『黙示録論』とはそういう本である。
名著とは古い本でも、ただ優れている本でもない。
名著とは読み返す事の出来る本の事なのである。
かのルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
カラマーゾフの兄弟』を50回は精読したそうだ。
我輩はこの『黙示録論』を10回は読んだ。
何度読み返しても理解できぬ所はあるが、
おそらくそこは我輩にとって重要なのではないのだろう。
あるいは何時か重要となるのかもしれない。
読む物にすらも己の道筋というものはあるのだ。
一冊の本をじっくり、何度も読み返す経験というのは、
本書から得た大切で貴重な経験であった。

*1:『ダンマパダ』

*2:『スッタニパータ』

*3:http://d.hatena.ne.jp/hajic/20060914/p1

*4:http://d.hatena.ne.jp/koukandou/20060722

*5:『サンユッタ・ニカーヤ』

プロパガンダについての短い覚書

芸術や娯楽、それらはプロパガンダの歴史と密接である。
特に映画に限ってみれば下記のような歴史を辿っている。


レビュー映画(米)
  ↓
ナチスプロパガンダ(独)
  ↓
ソビエトの映画
  ↓
北朝鮮の映画


レビュー映画というのは、
アメリカのニューディール体制時に、
その成果を国民に宣伝するために作られた映画で、
歌って踊る楽しいインド映画や
ミュージカルみたいな映画だ。
マスゲームみたいなシンクロナイズドスイミングのシーンがあったり、
どこの独裁国家の映画だ、と思ってしまうような映画でもある。
ちなみにこういうプロパガンダ
ホワイト・プロパガンダ(良い噂)と言い、
逆をブラック・プロパガンダ(悪い噂)と呼ぶ。


さて、この映画を見たナチスの伍長は、
ゲッベルス宣伝相に真似させた。
同じく映画好きだったスターリンは、
それを見てさらに真似た。
そして、冷戦期に北朝鮮に輸入されて、
ご存知のように彼の将軍様は大の映画好き。


主義主張が真っ向に逆らうとしても、
プロパガンダ作品同士は相互に影響され合う。
戦後、軍歌の「歩兵の本領」が労働歌に化けたのは
その筋の人たちには有名な話だが、
北朝鮮の映画ですらもハリウッド作品や
戦前日本のプロパガンダ作品の影響が色濃く現れているものがある。
殊、後者は鬼畜米英の風潮の下での作品であったから、
反米の北朝鮮には元ネタとして利用しやすかったのであろう。
肉体派の主人公にインテリ風のライバルが居て、
西洋風の美人と和風の美人が対立する構図で、
大抵は前者の主人公に人望が集まり、
主人公は和風美人を選んで洋風美人は泣きながら去って行く。
とまあ、非常に分かり易い筋のお話なのであるが、
北朝鮮の映画で類似するものを見つける事が出来る。
同様の事は中国などでも見られる(満映の後裔など)。


なお、ソ連は20年代に
戦艦ポチョムキン』などの映画を作っているから、
20年代のソ連プロパガンダ映画の影響が
アメリカのレビュー映画にもあるかもしれない
ナチスによるベルリンオリンピック
狂信的ナショナリズムの極致として記憶されるのは、
当時の技術と人の粋を尽くして記録されたからだ。
映像作品として今見ても面白い。


とあるジャーナリストが
体制の下では真に芸術な物は生まれない
と言うような事を言っていたが、
それは間違いである。
むしろ、こういった体制下の方が成立しやすい。
評価される所に人材というものは集まりやすいからである。
我輩もそういう体制下に生まれていれば、
おそらく嬉々として協力したであろう。
我々は我々が考えているほど冷静に物事を判断している訳ではなく、
単なる感情による原始的な本能の発露に過ぎなかったり、
あるいは単に周りに踊らされているだけかもしれない。
ただ、言えるのはそうしたものは恣意性はあっても、
どこか特定の個人や団体に帰する事は出来ないという事だ。


映画史において、
画期的な技法の数々がソ連プロパガンダ映画によって
発明された事実は有名であるし、
先程決められたアメリカ映画史上最高の脚本は
戦中のプロパガンダ映画『カサブランカ』に贈られた。
(「偉大な脚本歴代ベスト101」の1位)
独立記念日』と名付けられた宇宙人との戦争映画が
日本でも非常に受けたのが記憶に新しい。


他人を洗脳する(記憶に残る)には、
面白くなければならない。
だからこそ娯楽作品はプロパガンダに利用されやすい。
と言うよりも、プロパガンダは娯楽作品に“なりやすい”。
ポピュリストが罵倒ではなく喝采によって迎えられる様に、
多くのプロパガンダもまた絶賛と圧倒的な支持を受ける。
主義主張や支配的なイデオロギーは変わっても、
プロパガンダは作り続けられるだろう。
程度の差はあれ言説というのはプロパガンダ性というのを脱し得ないのだから。
我々は誰しもがハーメルンの笛吹き男なのだ。

宮台真司「試される憲法」

以前、我輩は所説の疑問としてエントリにまとめたが、
今回は明瞭に批判である事を明記しておきたい。
昨今の彼の言動は目にあまるからである。
しかも、性質の悪い事にそれを支持している人も少なくないようだ。
迷信の時代は、知っている以上のことを
 知っていると人々が想像する時代なのです
とかつてハイエクは述べていたが、
宮台氏は余りに多くの事柄に首を突っ込みすぎているせいもあろうが、
この迷信の定義が見事に合致するようである。
誤解を恐れずに言えば、「ミドルマン」の重要性を指摘する彼自身が
ミドルマンとしての機能を果たしていないのだ。
(専門家としての評価は言うまでもあるまい)


アメリカの一人勝ちのグローバル化に抗すべく、
 弱者連合の思想である亜細亜主義の本義が生かされる時が来た
 朝日新聞03年8月18日付夕刊、
 日本経済新聞06年10月1日付朝刊「風見鶏」より孫引き


この発言をはじめて耳にした時、
我輩は少々厭きれてしまった。
どうにも反米を中心点にこの種の発言をする
右派と左派は鏡映しになっているだけなのではないかと思う。
お人好しの国などこの世界には存在しないのだから、
各国が各国の国家エゴに基づいて行動して何が悪いのか。
右も左もアメリカに甘え切ったお坊ちゃん思考に相違無い。
大体、自立を選んだとしてそれを妨害してこないとどうして言い切れる。
自立するには自立に見合った力を前提としているのだが、
その種の発言をする人々はそれを考慮しているとは思えない。
大国に挟まれ自立が困難なモンゴルのように
アメリカと同盟関係を結びたくても結べない国はあるし、
イラク(中東)をめぐってのフランスとアメリカの対立のように、
ほとんどの国家はその力の許す限り自立を目指すものなのであって、
それは必要だとかそういうレベルの話ではない。
日本が自立するには中国が日本以上に大国化しない上に、
在日米軍が撤退する事が条件であるが、
仮に中国が現在の経済成長を持続させた場合、
アメリカは覇権の挑戦者となるであろう中国を封じ込めるために
在日米軍を駐留させ続けるだろう。
いずれにせよ過去においても現代においても
アジア主義というのは取り得る選択肢ではない。


武装・自立か、軽武装・依存か。それが国際政治の常識です。
 軽武装・中立には、コスタリカのような傑出した外交能力が要ります
と彼は言うが、NATO加盟国には核すら持っている国が居たと思うが、
残念ながらその国が軽武装・依存であるとは聞いた事がない。
武装でありかつ依存的と言う可能性もあるのだ。
アメリカとNATOが無くなってしまえば、
おそらくヨーロッパは新たな動乱の時代を迎える事になろう。
このジレンマを何より自覚しているのは、
表面上はアメリカに挑戦しているように見えるフランスだ。
彼らは如何に抵抗した所で最終的にはアメリカに頭を垂れる宿命にある。
何故ならフランスはもはや大国などではなく、
ヨーロッパにおいてアメリカの代わりを務める事など不可能だからだ。
しかも、フランスは現在ですらドイツを信用しきっている訳ではないし、
(そもそも東西ドイツ統一に最後まで難色を示したのはフランスである)
イギリスやイタリアといった周辺国もフランスの台頭は望まないだろう。
ついでに指摘しておくが、コスタリカ米州機構の加盟国であり、
アメリカを除く周辺国との相対的な軍事力において軽武装とは言えない。
そもそも、国連という機構の誕生以後において、
厳密な意味での中立国というのはほとんど存在しないのではないか。


政治家たちにはむしろ吉田茂(元首相)の本懐に立ち戻るべきでしょう。
 平和憲法を与えた米国が一九四八年に占領政策を転換すると、
 吉田は「憲法上できない」と再軍備を拒否、代わりに基地提供を申し出る。
 それが安保条約です。復興優先で軍備に回す資金がなかったし、
 米国の言うまま出兵して死者を出したくなかったし、
 アジアを敵に回したくもなかった。平和護憲ならざる取引護憲
と彼は言うが、吉田首相に護憲の意識は薄かったと思われる。
なお、朝鮮戦争には海上保安庁の掃海艇が秘密裏に派遣されており、
しかも触雷で殉職者まで出している。
要は、永井陽之助が80年代に使い始めた
吉田ドクトリン」の事を言っているのだろうが、
それは経済大国になってからの結果論過ぎない上に、
吉田自身は「『経済中心主義の外交』なんてものは存在しないよ
と後に述べている以上、この論は牽強付会に過ぎる。


近年の現代史の議論では
通俗的55年体制や吉田ドクトリンと言うのは批判の対象となっており、
池田の高度成長路線というのも青写真は岸政権時に作られており、
事実上岸と池田を以って55年体制の始まりと見るべきとすらされている。
大体、経済中心の池田にしても元々はタカ派だった。
吉田にしても、池田にしても、岸にしても、
骨の髄まで政治的なリアリストなのであって、
彼らはそもそも原理というものを持っていたかどうかあやしい。
リアリストというのは状況に合わせて変化させ、
理念や原則をリジットには守らないからだ。
吉田は9条が無くても再軍備を拒否したであろうし、
岸もまた自立よりも日米安保強化を決断したであろう。


集団的自衛権の許容』と『多国間枠組への従属』が必要だ
と宮台氏は述べているが、
その内容では現行憲法と何ら違いが無い。
前文において「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した」上に、
9条の「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」に繋がるのであるから、
本質的に現行憲法は自衛を禁じて、
他国が戦争してこないことを信頼しつつ、
あるいは起こったとしても多国間枠組に一任したと見るべきであろう。
(当時であれば国連軍を想定していたと思われる)
前日のエントリでも指摘しておいたが、
日本国憲法の平和主義は大西洋憲章第八項の
「“好戦”(交戦ではない)国の武装解除」が遠因となっており、
元より我が国自身の理想となるような性質ではないのだ。
大体、従属という言葉と国家主権(独立国家)は矛盾する上に、
そもそも、その「多国間枠組」とやらは何処にあるのか。
ありもしない枠組を前提するような戦略を立て、
しかもそれを憲法に織り込むなどまったくナンセンスだ。
悪名高い戦前の軍人達ですらそのような非現実的な戦略は立てなかった。
我々は過去の愚行に対して優越感を持てるのは、
ただ後知恵によるのであって我々が聡明であるからなのではない。
机上の空論とはよく言ったものである。


憲法は、国家への国民の意思を書いた『覚書』です
と宮台氏は言うがそう単純ではない。
カナダの事実上の憲法基本法)は、
植民地時代に制定された“イギリス”の議会の制定法である
立憲条例や連合法、英領北アメリカ法であったし、
現存する最古の成文憲法を持つアメリカにしても
あれは州が批准する一種の条約のようなものであって、
憲法とも国民の意思とやらが入り込む余地は無かろう。
カナダは特殊な事情が複雑に絡んでいるので、
例としてあげるのは少々不適切かもしれないが、
カナダが自主憲法を制定したのは実に1982年の事で、
しかもケベック州はこの憲法の批准を拒否した。
その後も何度か憲法を巡る動きはあったが
最終的な解決は未だ達成されていない。
しかし、カナダは日本のように逃げなかった。
宮台氏は十年早いなど政治家に対して言うが、
むしろ宮台氏や反対派諸氏に対して我輩は、
六十年逃げてまだ逃げるつもりなのかね、と問い質したい。
どうして白を白と黒を黒をはっきり言わないのか、
我輩には理解しかねる。
オレだけは本当の事を知っているんだとばかりに
自分だけ分かった振りをした所で何の意味もあるまい。


今度の国民投票法案を批判するのは勝手だが、
普通、ルソーの一般“意思”とは表記せず、
一般“意志”と書くはずだ。
こういう細かい点はおいておくとしても、
国民が何を意思するかです。ルソーのいう一般意思だから、
 日本人の大半がそう思っていると日本人全員が思えなければなりません。
 それには、国民の八割が投票して八割が賛成するといった
 圧倒的意思 が、示される必要があります
氏はこんな事が本当に可能だと思っているのだろうか。
大体、ルソーの一般意志などの直接民主制の理論は、
皮肉にもあのカール・シュミットによって
独裁に陥りやすいと明らかにされたと言うのに。
国民投票法案そのものの問題に関しては
『おおやにき』というブログの「最低投票率の問題
の説明が一番この種のエントリで説得力があった。
大体、桶は桶屋、テクニカルな問題は専門家が取り扱うべきであろう。
荀も瀚林に口を糊する人がみだりに自分の専門領域外に口を挟み、
挙句自分の専門分野が疎かになるのは如何なものか。
プロならプロらしくもっと禁欲的に振舞うべきだ。


我輩が嘆息を禁じえないのは彼の言説の劣化だけではない。
彼の言動を託宣のように賜る人々の存在である。
国家鮟鱇』というブログの知識人論で
インテリの言うことを嬉々として聞く人とは、
 Mっ気のある人か、話を聞く前から同意することが決まっている
 身内のインテリかインテリもどきのみとなり、
 どっかのカルト宗教の教祖と信者の関係と相似形になっていく
と述べているのは誠に遺憾ながら首肯せざる得ない。
彼らは神の代わりに進歩と理性を信仰しているのだろうが、
そのようなものは所詮迷信に過ぎぬのであろうから、
畢竟、彼らは迷妄の徒と化し、妄執の鬼となるに違いない。
我々は個々人が想像するほどには賢明ではないのだ。


実際のところ物事をありのままに見るというのは難しい。
カエサルが嘆息したように現実を見ていても、
見たい現実しか見ない人が大半だからだ。
それ故にその人の考え方(理想)を特徴付けるのは、
その人にとって見えるもの(現実)ではなく、
むしろ彼の視界を遮るもの、見えないものの方である。
ならば、宮台氏と彼の支持者達の視界を遮るもの、
見えないものとは一体何なのであろうか。
何にせよ彼の昨今の言説は受け入れ難いのであるが、
正直なところ彼の真意というのは未だ良く見えてこない。

NHKスペシャル「日本国憲法 誕生」

なかなか良く出来たドキュメンタリー作品であった。
何だかんだ言っても見れる水準のドキュメンタリーを
作れるのもNHKぐらいなのであろう。
この「日本国憲法 誕生」はおそらく
教育テレビの方で今年の2月10日に放送していた
ETV特集「焼け跡から生まれた憲法草案」
の姉妹作であると思われる。
あるいはその歴史観の延長線上と言っても良い。
昨晩の「そのとき歴史が動いた」では、
憲法改正に絞った番組を組んでいた。
総括してみると、NHKの作り手達は
概ね現行憲法や所謂平和主義に肯定的なようである。


我輩はこの種の歴史観を左翼修正主義と当用的に呼んでいる。
このように呼ぶと左翼に共感する方々から誤解やお怒りを受けそうだが、
修正主義と言うのは「Revisionism」の訳語であり、
原語には「見直す」とか「再認識する」といった意味合いがあるので、
必ずしも悪い意味の言葉ではない。
たとえば、アメリカでは80年代の「日本特殊論」の論者達、
通産省と日本の奇跡』のチャーマーズ・ジョンソンなどの事を指したり、
ベルンシュタインのいわゆる「社会民主主義」を指す場合もある。
なお、アメリカのリベラルの事を自由主義者と理解する向きがあるが、
ニュー・ディーラーなどの政策や思想を見れば分かる様に、
彼らはアメリカにおける社会民主主義(修正主義)者なのである。
他にも、ヴェトナム戦争アメリカは実は負けていないのだ、
と言うような主張をする「Vietnam Revisionist」と呼ばれる人達も居る。
日本では「新しい歴史教科書をつくる会」などで知られる
藤岡信勝氏の主宰する「自由主義史観研究会」に対する
蔑称として広く用いられたせいか、
レッテルとしての意味合いだけが膾炙してしまった。


「宗教でも国家でも、それを長く維持していきたいと思えば、
 一度といわずしばしば本来の姿に回帰する事が必要である」
とは「修正主義」という言葉がまだ無かったマキアヴェッリの言葉だが、
「修正主義」の本質を突いていると思う。
同じ冠詞の「re」が付いたリハビリテーションという言葉には
名誉回復や復権とか社会復帰などの意味もある。
世人は反動(Reaction)を悪い意味で用いる事が多いようだが、
これも「Acition」に対する「Re」に過ぎない。
所謂「郵政選挙」の際にレッテルとして
抵抗勢力」と言う言葉が用いられていたが、
あれがそもそもレッテルとして使い得るのか疑問である。
抵抗もまたアクションに対するリアクションの一種だからだ。
「革命」という言葉も連付無しではもはや死語に近いが、
「Revolution」という言葉にもまた「Reaction」と同じく
「Re」が付いている事を念頭に置くべきであろう。


さて、何が具体的に「修正主義」的なのか。
これは戦後すぐに始まった事だが、
近現代の思想史に対して大幅な変更を迫った、
あるいは書き換えが施される事になった点がまず挙げられる。
戦後においては「民主的」で「自由的」なものが
思想史の中心に据えられる様になったのである。
そのために当時はさして有名でなかったもの、
多数派に受け入れられなかったもの、
あるいは探し出さねば見つけ出す事も出来なかったようなものにまで、
光の冠を与え、祝福の油を注いだ。


一木喜徳郎や美濃部達吉らの天皇機関説
吉野作造民本主義などを挙げて、
今日の我々は「大正デモクラシー」を語る訳だが、
この「大正デモクラシー」は戦後に膾炙した言葉である。
吉野作造という人は発言に矛盾が多い人であったが、
東大新人会に影響を与え、
この新人会が戦後の左派知識人のルーツの一つであったが故に、
今日でも重要視されているのに過ぎない。
また、政党政治に関しても昭和7年(1932年)の
五・一五事件(犬養首相暗殺)を以って終焉と捉えるのが
通俗的な向きであるが、それは少々早計過ぎる。
「最後の元老」西園寺公望斎藤実を繋ぎとして、
事態が収まり次第政党政治に戻すつもりであったようであるし、
国民も政党内閣の復活を期待して民政党過半数議席を与え、
無産政党を総選挙のたびに躍進させてきた。
皮肉にもそうした動きを完全に止めを刺してしまったのが、
二・二六事件と当時一般国民にもインテリにも人気があった近衛文麿である。


まったく皮肉な事だが、
二・二六事件をGHQは一種の革命であると捉え、
敗戦に少なからぬ責を負っていた近衛の昭和研究会には
当時の左派知識人が結集しており、
今回の特集でも取り上げられていた「憲法研究会」も
その系譜に連なるか、あるいはその影響下にあった人々である。
我輩が今回の特集を「修正主義」的としたのは、
左派ばかりがクローズ・アップされていたためだ。
右派は強いて言えば、目ぼしいのは芦田均と松本烝治くらいであろうか。
他にも「粛軍演説」や「反軍演説」で知られる斎藤隆夫
敗戦後の憲法改正に関わっていたのだが、
彼が国体護持(君主主権)を強固に主張したのは余り知られていない。
彼は負ける事が分かりきっている戦争などしなければ日本は
世界に冠たる大国の地位を占める事が出来たであろうと残念がり、
九条に関しては自衛権を持たぬような国など独立国ではないと嘆いている。*1
九条では「交戦権」を認めないとあるのだが、
一般に交戦権の中には臨検なども含まれるから、
我輩は海上保安庁すら違憲の疑いがあるのではないかと考えている。*2
アメリカの沿岸警備隊などは戦時には国防省の下に置かれるから、
限りなく戦力や軍隊に近い存在である。


ところで、九条でその元ネタで良く言及されるのは、
パリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)なのだが、
むしろ1941年8月のチャーチルルーズヴェルトとの間に結ばれた
大西洋憲章」の第八項が遥かに重要であろう。

両国は世界の一切の国民は実在論的理由によると精神的理由によるとを問わず強力の使用を放棄するに至ることを要すと信ず。陸、海または空の軍備力自国国境外への侵略の脅威を与えまたは与うることあるべき国により引続き使用せらるるときは将来の平和は維持せらるることを得ざるが故に、両国は一層広範にして永久的なる一般的安全保障制度の確立に至るまではかかる国の武装解除は不可欠のものなりと信ず。両国はまた平和を愛好する国民のために圧倒的軍備負担を軽減すべき他の一切の実行可能の措置を援助し及び助長すべし。


引用元 http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19410814.D1J.html
(多少、読み易いように書き換えた)


現代史の用語などでは「好戦国の武装解除」と呼ばれるもので、
分かり易く言い換えれば、
世界の平和のために好戦的な国々を武装解除して、
二度と戦争が起こせないような状態に貶めるというものだ。
好意的に解釈すれば、建前としては不戦条約、
本音は大西洋憲章に基づいていると言えようか。
実際、東西冷戦が激化するまでは、
GHQの占領統治というのは苛烈を極めた。
良くも悪くも日本の復興というのは冷戦の副産物であったし、
憲法を論じる際には我々が敗戦国であるという
動かしがたい事実を銘記しておくべきであろう。


九条は奇跡のような偶然の結果生まれたものではないし、
また、我が国の平和に貢献したという根拠は何一つとしてない。
そういう主張をする人々はアメリカも
パリ不戦条約の締結国であった事実を思い出されたい。
そもそも平和は手段や目的ですらない。
平和とはただ戦争が無い状態を意味するのであって、
それ自体に何の価値も無いのである。
平和主義が現実と乖離していくのはこのためだ。
つまり、倫理的、道徳的にこの問題を捉え過ぎるのである。
良い戦争などあったためしもない、とはベンジャミン・フランクリンの言葉だが、
独立戦争を戦い抜いた彼は戦争を悪いものとも思ってはいなかっただろう。
戦争に良いも悪いも無いのである。
しかし、現にそういう危険性があり、現に起こっている以上、
我々はその事実を受け止め、現実と戦っていくしかないだろう。
そこに道徳など入り込む余地は無いし、
道徳論的な態度は右派にも左派にも見られるが、
そうした主張のほとんどは理性の顔をした感情の発露に過ぎないのである。

*1:参照 http://blechmusik.xrea.jp/d/saitou/ 

*2:なお、海上保安庁朝鮮戦争に秘密裏に掃海艇を出し、死者まで出ている

mixiにおける(擬似)社会の観察

昨年はソーシャル・ネットワーキング・サービス(略称SNS)の「mixiミクシィ)」を巡るニュースや事件が相次いだ。それらの多くは世情を騒がすような大ニュースではなかったのだが、世人の大きな関心を買ったと言う意味では重大であった。一種のネズミ講のように成員を増やすこのシステムは無料サービスである事も手伝ってか、加速度的に加入者を増やし、現在では数百万人とも言われる利用者が存在している。現代の都市が過密化によって諸々の問題を発生させたように、一見無限の空間が広がっているかのように思えるインターネットの公共的な空間(コモンズ)でも増え過ぎた事による病症が見られるようになった。


例えば、三洋電機の社員が利用していたパソコンでファイル交換ソフトウィニー」を使用していたところ、ウィルスに感染し、業務資料の他、恋人の猥褻な画像が外部に流出する事件が起こった。ここまではそれまでの情報流出事件と大差が無かったのであるが、この事件においては流出した画像がミクシィにある無数の掲示板に張り付けられた事が大きな問題となった(なお、この社員も被害者である恋人もミクシィの加入者であった)。この事件では「亜門」と名乗る人物が管理側の度重なるアカウント削除にも関わらず、何がしかの脆弱性をついて極短期間の内に再三現われては掲示板にその画像を貼り付ける行為を繰り返し、終息後も大きな余波を残した。この「亜門」と名乗る人物は日本経済新聞朝刊の社説でも取り上げられ、「怪人」と称せられて注目を浴びた。ミクシィをはじめとするSNSに対する安全性の信頼も大きく損なわれてしまった。運営側も事態を重く受け止めているようで、それまでは本名での登録を推奨していたのだが、ヘルプに注意書きが付け加えられる事になった。


幸いにもこれほど大きな事件にはならなかったのだが、学生による事件も起こった。事の発端は学生Aが自分の日記に友人の学生Bに自分の車を貸して練習させた事を無免許運転と記した事だ。詳細まで読めば分かるのだが、運転の練習自体は構内の駐車場で行われたようだから、「無免許運転」というのは事実ではなくて“レトリック”に過ぎなかった。が、どういう経緯で知ったのかは不明だが、あるユーザーによってその日記がキャプチャとして画像化されて、ミクシィ内の大学所在地や大学に関連するコミュニティと呼ばれる一種のサークルの掲示板に多数掲載され、「2ちゃんねる」と呼ばれる掲示板にも転載され、大学と学生Aの内定先の企業に抗議の、あるいは悪意ある電話が寄せられた。この一件で内定が取り消されたり、学校側から処分されるような事はなかったのであるが、この学生の所属する大学の学内誌ではこの一件とSNSを利用する際の注意が載せられたそうだ。


交通量が増えれば増えるほどに交通事故は起こり、如何に啓蒙活動をしようと飲酒運転がなくならないように、この種の事件やインターネットに起因する事件や事故、トラブルは普及の深化に比例して増えると考えられる。一般的には特に匿名性などが大きな問題として扱われ、インターネットの特殊性が強調されがちである。「ゲーム脳」などという流行語や「現実と虚構の区別が付かない」といった類の議論にも見られるように、現実の、生身の社会とは違った異質な社会を想定している。特殊性の強調は負の部分だけではなく、この種の技術を賛美する向きにも散見される。


IT革命やユビキタス社会、「Web2.0」、グーグル革命、アマゾンにおける「ロングテール」。この分野のキーワードは百花繚乱如く次々に生み出されては消費されている。ベストセラーにもなった梅田望夫の『ウェブ進化論』はIT技術の革新が実現するという未来像がバラ色に描かれている。こうした考えは、技術は人や社会を規定する、変化させるという認識に基づくと思われるが、果たして本当にそうだろうか。梅田は「これからはじまる『大変革』は着実な技術革新を伴いながら、長い時間かけて緩やかに起こるものである。短兵急ではない本質的な変化だからこそ逆に、ゆっくりとだが確実に社会を変えていく。『気づいたときには、色々なことがもう大きく変わっていた』といずれ振り返ることになるだろう」と自信満々に予言する。確かに無料のサービスは増え、しかも質は大幅に向上した。ネット上にある技術はどれも便利なものばかりである。だが、そうした便利さが人や社会の本質を変えてしまうほどに「革命」的なのだろうか。表題にもあるように梅田はこうした諸々の技術革新を「進化」に見立てているのだが、そもそもそうした「進化」という見方すら疑義を挟み込む余地がある。


「自生的秩序」など独自の経済学理論を打ち立てたF・A・ハイエクと「棲み分け論」で知られる今西錦司が対談した対談録『自然・人類・文明』に「進化」や「社会」に対する面白い見方が載っている。ハイエクダーウィニズムを批判して「進化論に法則性があるという考え方はまちがいで、そんなものはない」と言い切る。そして、文化や社会は「自然のものでも人工的なものでもなく、また遺伝的に伝達されるのでもないし、合理的に設計されるわけでもない」。人間のはっきりした特徴(本質)は「模倣し、習得したことを伝える能力」であり、「脳は文化を設計することでなく吸収することを私たちに可能にさせる技術」であると言う。ハイエクは優劣があってセレクションがありうると考えたが、今西はそうした見方すら批判的である。「すぐれているから生きのびるのではなく、運が良かったから生き残る」と適者生存や自然淘汰を批判して、進化については「変わるべくして変わるのである」と考える。こうした見方はダーウィニズムだけでなく、経済学などの合理的選択理論とすら真っ向に対立する。


要約すれば、プラスに評価しようが、マイナスに評価しようが、それは同じ意味で過ちを犯していると言える。技術は人の本質を変化させるようなものではない。確かに「産業革命」などの技術革新は人の生活様式を大きく変えてきたが、それが本質的な変化といえるかどうかは疑わしい。「ネットの世界」も「リアルの世界」も人間の本質、社会の断片に過ぎないのであって、それは延長線上に在るものである。「ネットの社会」は抽象的であるが故にかえって諸々の具体的なモデルがあてはまりやすい。しかし、個体差というのは確かにあるが、種なくして個体が存在し得ないように、それによって還元する事はできない。ある島国家が半島や大陸に植民地を得たとしても、その国自体が半島国家や大陸国家になったとは見做されない様に、新しい部分が古い部分や全体を書き換えてしまうような事は少ないのである。あくまでも追加要素は部分的であり、時として連関的に変化を促すのに過ぎない。技術革新が時として齎す飛躍的な性能の向上すらも、効率の良い代替品に過ぎないのであって、我々が期待(想像)するような「進化」と呼べる次元のものではない。そもそも技術というのは補助的な意味合いが強いのである。


インターネットにおけるコミュニティは以上のような理由からとりたて特殊なものではないと考えているが、単純化、抽象化しやすく、コミュニティや集合行為のジレンマ等のモデルが当てはめやすいので、その可能性やあり方について考察する。


まず、いくつかの用語説明をしなければならない。事例として取り上げるのはSNSのミクシィである。これは一種の会員制のコミュニティであるが、その内部に「コミュニティ」と呼ばれる一種のサークルが存在している。公開制限などの機能が搭載されており、参加に管理人の許可を必要とする場合や、参加者しか閲覧できないようにする事が出来る。こうした公開制限は個体にも適応されていて、一種のブログのような日記機能があるのだが、これの公開は三段階に分かれている。「マイミクシィ」という一種の個人別の会員のようなものがあり、先のコミュニティの参加者が組合員と言えるなら、単純に言えば「友人」のようなものである。実際、日記の公開制限は「友人」と表記され、このマイミクという単位を基準に<全体>に公開するもの、<友人のみ>に公開するもの、<友人の友人>にまで公開するものがある。コミュニティにしてもマイミクシィにしても自分のページに一覧が記載されるから、彼を中心にしたネットワークが可視化される。マイミクシィマイミクシィは自分のマイミクシィであるかもしれない、あるいは自分の参加しているコミュニティの参加者かもしれない。つまり、このネットワークは重複や複雑に連関しあっている。先の事件で悪用された掲示板のほか、コミュニティにはアンケートやイベントの告知などの宣伝の機能がある。こうした事から、SNSは一種の口コミのマスコミとして情報入手の手段としても利用されている。人との交流を目的とする者も居れば、単に情報を得るための手段に過ぎない者や、ただ宣伝するための業者なども居り、動機は様々である。マスメディアでも頻繁に採り上げられて流行語にもなった上に、金銭的コストは基本的にゼロだから参加も気楽であったはずだ。パフォーマンスの質が強調されがちだが、人は得るものよりもコストを気にかける。失うものが大きければ、たとえ得るものが大きくても、それ自体がリスクとして抑制の機能を果すからだ。こうした事からコスト高と相互不信は最悪の悪循環をもたらす。我々は本質的に保守的なのであり、あらゆる革新には多くの余剰的な要素や利益を必要としている。


さて、具体的な事例に入りたい。私が注目したのはコミュニティ運営のあり方であった。このコミュニティは欠陥が多く、また、成員や管理者によって著しいパフォーマンスやガヴァナンスの違いが見られた。コミュニティを設立した者が自動的に管理者となるから、一種専主制のような所があり、成員の追放や書き込みを削除する権限も持っているから専横な圧制者と化す管理者も居た。逆に成員を纏め上げる能力が無いために秩序を保てない所や、いくつもの管理者を掛け持ちしている場合や、あるいは無責任さからまったく放置される場合もある。時には管理人権限を委譲せずに退会してしまって、悪意あるアウトサイダーの標的となる場合もあった。パットナムは『哲学する民主主義』で「共同体の指導者は、自分たちの仲間市民に責任を負わねばならないし、自分たちがそうした存在だと自認する必要もある。絶対権力も権力の欠如も、ともに腐敗しうる。というのも、どちらも、無責任の感覚を次第に教え込むからである」と述べているが、これは見事なまでに当てはまる。行き過ぎた統制もまったくの放縦放任もパフォーマンスや秩序を保てないという意味では同様であった。時には運営側に対する激しい抗議すらなされたようだ。もっとも運営する企業の人員には限りがあり、明確な規約違反行為が無い限り放置された。無力感というのは明確に統治(自治)のパフォーマンスを押し下げる作用がある。能力を伴わない責任は常に悲劇的帰結しか齎さない。こうしたコミュニティでは秩序が崩壊(アナーキー)するか、あるいは管理人や運営企業への反発からまったく寂れてしまった。まさしくそこではコモンズの、共有地の悲劇が起こっていたのだ。

市民積極参加型のネットワークの場合どのような取引であれ、個々の取引における裏切り者には潜在的コストが高まる。機会主義は、将来の取引から得られる利益ばかりか、現在関係しているほかの取引から獲得しうる利益までも危険にさらす。


市民的積極参加のネットワークは、互酬性の強靭な規範を促進する。多くの社会的文脈で交流し合う仲間同士は、「多くの相互補強的な出会いのなかで相互に許容しうる行動の強い規範を発達させたり、自分達の相互的な期待を互いに伝え合う傾向にある」。これらの規範は、「約束を守るとか、また地元社会の行動規範の受け入れといった評判の確立に依拠する諸関係のネットワーク」により強化される。


市民的積極参加のネットワークは、コミュニケーションを促進し、また諸個人の信頼性に関する情報の流れをよくする。市民的積極参加のネットワークにより、評判が伝えられ、さらに評判が高まる。既に見たように、信頼と協力は潜在的パートナーの過去の行動と現在の利害に関する確かな情報に依存するが、不確実な情報集合行為のジレンマを広げる。このように、他の条件が同じであれば、当事者間のコミュニケーション(直接、間接)が多いほど、彼らの相互信頼も深まり互いに協力しやすいことに気づくであろう。


市民的積極参加のネットワークは、協力がかつてうまく行ったことの表れである。それは将来の協力に向けて文化的に規定された梁の役割を果しうる。「文化的フィルターは、継続性を与え、過去の交換問題に対するインフォーマルな解を現在にまで持ち越し、そうしたインフォーマルな制約を長期的な社会変化における継続性の重要な要因にする」。


『哲学する民主主義』(ロバート・D・パットナム NTT出版)
216ページより引用

こうしたパットナムの結論や議論の多くはSNSのコミュニティにも当てはまる。私の観察するところ、SNSのコミュニティの運営においても、良い管理者の周りには常に良い協力者が必ず何人か居た。興味深い事に彼らは必ずしも管理者とマイミク(友人)関係にあるわけではなかった。良い管理者は様々な試みを行っている事が多く、その手法は必ずしも類似しないが、概して公的な(暗黙ではない明示的な)ルールを設け、自己に与えられた権限の行使には慎重である事が多い。これは関与に消極的であるという意味ではなく、ルールをあらかじめ示した上で事例を蓄積させ、経験や周囲の意見によって柔軟にルールを変化させる。中にはそういうマニュアルやルールをログとして残して権限行使のログを採る者も居た。関係性や解決策のメモリーがパフォーマンスの向上に寄与しており、その蓄積に比例してそうした向上や秩序の強靭さが見られた。また、時間的経過が長いほどそのコミュニティは強固であった。まるでTVゲームのような卑俗な表現になってしまうが、経験値というものが確かにあるのだ。成員の平等意識は強く、どんなに正当なものであっても理由を示さずに強権を揮うことは概ね忌避される。それ故に限られた少数の人間の能力ではなく、全体(集団)の能力が問題となる。コミュニティにおけるコミュニケーションの量は確かにパフォーマンスを向上させている。というのも、そうしたルールメイキングから挨拶まで程度の差はあれ協力(信頼)関係を強くするからである。また、良い管理者のコミュニティではアウトサイダーの攻撃や危機に強い傾向が見られ、一時的な混乱からの回復の可能性も概して高く、回復の速度も早い。裏返して言えば、一度破綻した国が貧困を脱する事が困難な様に、上手く行った試しがないコミュニティは将来においても上手く行かない算段が大きい。


パットナムの示唆は現実生活やこうした趣味に属するような部分にまで教訓を与えてくれるが、一方でインターネットにおけるコミュニティではこれに当てはまらない幾つかの事例が存在した。まず、インターネットにおけるコミュニティでは、パットナムがソーシャルキャピタルの指標として示したようなクラブやサークルはさほど当てにならない。SNSにおけるコミュニティは確かに成員となるのに手続きは踏むものの大抵は簡易であり、社交性を向上させる働きは疑わしい。また、上限が1000までと多く、たとえ100のコミュニティにしか参加していなかったとして、一日に平均して10件のトピックが上がったとしたならば、1000件もの記事を見なければならない事になる。物理的に考えて、積極的な参加は不可能である。また、都市社会学の論者達が言うような、属する準拠集団や中間集団が多ければ多いほど極端な意見を述べなくなるといった類の肯定的評価も当てはまらない。多くのコミュニティに入っていれば入っているほど、むしろ積極的に参加しない傾向があり、一種のプロフィールや看板のように扱う者も居り、こうした無関心は無責任を誘引しやすい。彼らの多くは自分の参加しているコミュニティが問題になっても気が付かないどころか、時には解散していてすらも気づかない。ファシズムや独裁を防ぐとされている中間集団はむしろ悪い意味で機能しているようである。


加えて数の問題も深刻であるように思われた。現在では10万人が参加しているコミュニティは珍しくなく、そのような密集状態においては情報の過密の問題一つをとってもパフォーマンスを押し下げ情報コストを引き上げる要因となっている。このことに関してはモンテスキューの所謂「小共和国論」が大きな示唆を与えてくれる。「共和国が小さな領土しかもたないということは、その本性から出てくる。そうでなければ、それはほとんど存続しえない」この公理はアメリカ連邦の誕生によって否定されるものであるが、今日の共同体においても当てはまるように思われる。積極的な参加は評価される事が多いが、数の多い集団において参加が積極であればあるほどコスト的に負荷をかける。当然の事ながら人間自体の情報処理の能力には限りがあるからだ。また、こうした大集団では権力は余りに分散してしまって、かえって管理者の権限を強めしまう結果を生みがちである。管理人の存在は一人であるから特定的(可視的)だが、全体を把握する事は不可能に近い。この可視的な領域と不可視的領域のギャップが問題の根幹にあり、しかも解決は不可能に近い。この可視的である事というのは生身の姿が見えると言う事ではなく、固定性やそれが特定可能かと言う事が重要である。


いくつかの考察と観察の結果、実際の生活の共同体において当てはまるものが、ネットの共同体においては当てはまらないものがあると同時によく合致するものも見られた。結論として、匿名性は確かに脆弱性の最たるもの一つであるが、コミュニティの存在を許さないほどの脅威ではない。実名と匿名かといった議論は無意味なのであって、アクターが特定でき、その行動のログや諸アクターの関係性のメモリーさえ蓄積されれば、豊かなコミュニティのパフォーマンスを実現する事は出来るのである。技術が変化させるのは人間自身の本質などではなく、人間の環境を変化させる。植物が環境の変化に沿って不可逆的に遷移する(あるまとまった群生が環境に従属して相を形成する)ように、表面的な形態は変わっているように見える。しかし、空を飛ぶ自動車と普通の自動車には大きな概念変更すら迫りうる相違があると言えるが、最高速度100kmの車と200kmの車の間に根本的な差異があるかと言えば無いだろう。人間の生活における利便性は規定性を支配するほどには強くないし、根本的でもない。航空機と車には大きな違いがあるように見えるが、交通手段と言う意味では大差が無い。それが違うと言えるのはそれが支配する、あるいは属する領域の違いによっているのである。つまり、根本的な変化が齎しているのは古い部分や全体の変換ではなく、新しい領域を作る事にあるのだ。そういう意味において、今日多くの分野で「脱領域性」が強調されているが、そうした見方は間違いであり、「領域」の重要性はこれからも不変である。


●参考文献


『哲学する民主主義』(ロバート・D・パットナム NTT出版)
アメリカの民主政治』(A・トクヴィル 講談社学術文庫
ウェブ進化論』(梅田望夫 ちくま新書
『自然・人類・文明』(F・A・ハイエク 今西錦司 NHKブックス)
社会的ジレンマのしくみ』(山岸俊男 サイエンス社
アメリカとは何か』(斎藤眞 平凡社ライブラリー