「決断主義」なるものの再検討(2)

●精神思想の日本“近代化”史

我が国は二度の近代化を経験した。
一つは明治維新、いま一つは敗戦と復興である。
そして、その両方ともが、
強制と移植によって近代化を達成している。
「近代」が生み出しそれを支えてきた諸概念
――自由主義個人主義、資本主義、民主主義は、
突如として我々の前に現れたものであった。
我が国においては時代の高さが常に意識と乖離しているのである。
なぜなら、それらはすべて移植と模倣に過ぎないからだ。
そういう意味において日本に必然としての「近代」は存在しない。
あるのはただ「近代化」という移植の事実、偶然である。


近代の諸思想、諸権利はヨーロッパにおいて起こった
数世紀にもわたる運動の結果成立したのであって、
突如として現れ付与されたものではない。
しかし、我々はまず知ることでこれらを意識せざるを得なかった。
時代はまだそこまでいっていないのに、
我々はすでに意識の上で成立してしまっている。
この歴史性を欠いた思想、概念、諸権利は
我々に違和感すら覚えさせてきた。
この違和感が明治時代の知識人達を苦しめたものの正体である。


元より「精神」や「思想」は
“内発”的な性質を有しているにも関わらず、
何の批判せずひたすら“外発”的に移植してきた連中、
それが日本の知識人の生態なのだ。
見たこともないものを見、
分かってもいないことを知り、
ないものをあるかの如く語ることが、
精神の退廃や思想の混乱を招かない訳がない。
だが、それは自業自得、単なる自己錯誤に過ぎない。


そして、今日ですら我々を混乱せしめている。
我々が着ているのは、
父祖から譲り受けたものではなく、
他人の衣服の継ぎ接ぎでしかないのだ。
これを意識していない現代の欧化主義者たちは、
江戸時代の上杉鷹山を民主主義者とみなすような
無知を平気で曝すのである。
言うまでもなく鷹山は民主主義など知らない。
それを知り意識しているのは発言者自身に過ぎない。
知っているが故に彼らは斯様な幻想を見出すことが出来るのである。


このような心性は我々が歴史を紐解くとき度々見られる。
我々が過去を顧みるとき、
あたかも山からふもとを見下ろすような気で見ている。
過去を見るものは知らず知らずのうちに、
自分が時代の頂点に思い込んでいるのである。
つまるところ、過去のあらゆる出来事、文化、知性は
自分より劣っていると思い込んでいるのだ。
このような態度は中世を暗黒時代と見なすような形であらわれる。
(その裏返しとして“美化”される過去というのもありうる。
 むしろ昨今はそちらの方が問題であろう)
なるほど、確かに時代はかつてと比較にならないほど高い。
しかし、それは個々人の高さではないのである。
個々人においては自意識過剰と高慢さのみが
際立って現れているのに過ぎない。

●「大衆」――裸の王様たち

この種の高慢な人々、それが「大衆」である。
『大衆の反逆』のオルテガの定義を拝借すれば、
  大衆とは、自分の歴史を持たない人間、
  つまり過去という内蔵欠いた人間であり、
  したがって『国際的』と呼ばれるあらゆる規律に従順な連中である。
  ……大衆はただ欲求のみを持っており、
  自分には権利だけがあると考え、
  義務があるなどと考えもしない
のような人々のことである。
オルテガが見た「大衆」は30年代のヨーロッパ人であるが、
今日の日本ではまさにオルテガの見た「大衆」が
あらゆる知的領域にまで影響力を振るうようになっている。


さて、ここで念のために記しておくが、
「大衆」を庶民と勘違いなされている人々がいるようだが、
まったく異なる。
オルテガの『大衆の反逆』から引用すれば、
  大衆とは、心理的事実として定義しうるものであり、
  個々人が集団となって表れるのを待つ必要はないのである。
  大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、
  自分自身に特殊な価値を認めようとせず、
  自分は「すべての人」と同じであると感じ、
  そのことに苦痛を覚えるどころか、
  他の人々と同一であると感ずることに
  喜びを見出しているすべての人のことである


ところで、先日この文章を引用したところ、
「すべての人」などは存在しないと指摘してくれる方がいたが、
実に当たり前なことである。
無論、オルテガ自身もそのことには気がついている。
再度、オルテガ自身の言葉を借りれば、
  この「すべての人」が
  真に「すべての人」ではないことは明らかである。
  かつては「すべての人」といった場合、
  大衆とその大衆から分離した少数者からなる
  複合的統一体を指すのが普通であった。
  しかし、今日では、すべての人とは、
  ただ大衆を意味するに過ぎないのである
ということになる。

●究極的に台頭する「大衆」

大戦後にヨーロッパにおいてもはや「明日の世界」は、
昨日の世界」(ツヴァイク)の落日に過ぎなかった。
進歩という目標(未来)を喪失した近代後の世界、
それがヨーロッパの30年代である。
かつての貴族主義者たちの黄昏の最中に、
輝ける曙光を迎えた者たちが居る。
それこそが凡庸なる「大衆」たちである。
彼らが社会的頂点に立ち政権を奪取したところに、
決断主義」――ファシズム、ナチズムが誕生したのである。
アナーキスト崩れのイタリー人に、
ボヘミア生まれの伍長殿。
そして、その他諸々の有象無象ども。
奇妙で冷酷な倫理を纏った彼らは
ヨーロッパを駆け抜け殺戮の巷に変えて行った。
歓喜の声は悲鳴に変わり、やがて廃墟だけが残った。
そして、全てを失った彼らの存在意義を与えたのが、
5,60年代の実存主義である。


ところ変わって我らが「美しい国」日本。
ファシズム実存主義もとうに消費された後に、
神も、意味も、目的も失われた世界に
「大衆」が颯爽と現れた。
彼らの特徴はその軽さにある。
歴史性なき彼らは瞬間瞬間を生きているのに過ぎず、
彼らは絶え間ない断層(現在)に生きている。
10年の間も置かず世代論が書かれるのはまこと故あるかな。
彼らにはまさに「今」しかないのだ。
過去も、未来も、“現代”すらも失い、
線を結ぶことなき点として「現在」は描かれる。
「流れ」も「堆積」もなく、
点滅する時間の生を営むばかりだ。
今や個々人が個々人の「現在」を生きるだけであり、
だからこそ「世代」を偽装してやまない。


自由とは所詮何かを生み出すのではなく、
選択において自ずからに由るというだけのことに過ぎない。
その責任を負うものとしての自己があり、
我々はそれが重荷であるかのような感じられる。
選択することに疲れ果てたとき、
「自由からの逃避」(E・フロム)がはじまる。
最近流行の「ポストモダン」というのは、
新しい、「モダン」ではない何かなのではなくて、
「近代」で手札を出し尽くしてしまって、
どうしようと途方に暮れている状態といったところか。


今日の日本では「すべての人」のかわりに
「国民」という言葉が用いられることが多い。
政治家が「国民」という言葉を用いているとき、
実際には「大衆」という意味で用いられているのである。
つまり、今日の政治は、「すべての人」のための政治ではなく、
ただ「大衆」を満足させるためだけの道具と成り下がっている。
また、「大衆」は少数者においても現れる、
彼らはただ大多数者から分離しているというだけで寄り集まっている。
彼らは自分の権利が少数者であるというだけで
得られると思い込んでいる。


実際のところ、少数者にとっての「自由」とは、
多数者の放棄によって、「与えられている」のに過ぎない。
このような自分自身で得たのではなく、
与えられているに過ぎない「自由」に自覚しない者も
数の上では少数であれ、「大衆」である。
このような少数者の大衆はネットに現れている。
ネット上の大衆は匿名性と自由を享楽のように用いている。
彼らは現代の野蛮人である。
与えられたものをただ用いているのに過ぎないという意味で、
さらには飼われているが自覚に乏しいという点で、
もはや「蓄群」(ニーチェ)と評してもよかろう。
そう言えば、「ネットイナゴ」なる通称もあるそうだ。


このような多くの事に飽きた現代人にとって
選挙とは数ある娯楽のひとつに過ぎない。
彼らは自分で物事を考える能力があると感じ、
そうしていると思い込んでいる。
しかし、実際には、彼らの意見は世論なる
不可解な意見によって形成されているのであって、
自分自身の意見ではない。
彼に不足しているのは知性ではない。
彼らは確かにあらゆる時代の人間より上手く
道具を使いこなすことが出来る。
しかし、彼は使うだけであって、
生み出すことをしない人間である。


彼らが使っている発明品に対してなんら感動を覚えず、
それを当然だと思い込んでいる。
彼らを支配しているのは、自由という選択の不安か、
あるいは「飽き」という究極的な虚無である。
そして、彼らには自覚が決定的に不足している。
現代人はあまりに物事に対して無頓着、無感動、無自覚で、
彼らは彷徨える夢遊病者のようですらある。
時として彼らは多くのものを批判し、否定するのだが、
彼らがそうしたものに生かされているという事実を見ようとしない。
「自覚」は思索の前提であり、
あらゆる知的活動の第一歩となる。
さしあたって足元の雑草の名前でも調べては如何かなどと思う。
先帝が仰せられたように名も無き草花など無いのであるから。


しかし……
「救済」も「存在意義」も失われた(Lost)今、
日本の迷子(Lost)たちは何処へ行くのだろう……

 雨ニモアテズ 風ニモアテズ


 雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ


 ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ


 意欲モナク 体力モナク


 イツモブツブツ 不満ヲイッテイル


 毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ 遊バズ


 朝カラ アクビヲシ  集会ガアレバ 貧血ヲオコシ


 アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ


 作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ


 リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ


 東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ


 西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ


 南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ


 北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ


 日照リノトキハ 冷房ヲツケ


 ミンナニ 勉強勉強トイワレ


 叱ラレモセズ コワイモノモシラズ


 コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ


「知ってる?現代っ子雨ニモアテズ』」
7月12日8時8分配信 産経新聞 より引用
via = ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070712-00000047-san-l38

「決断主義」なるものの再検討(1)

●前書

実際の話、諸君が大衆に向かっていかに個人の自我実現を教えようとこころみたところで、彼等は万事が語られ行われたのちにも、所詮は断片的な存在にすぎず、到底全き個人たることはできぬのであるから、畢竟、諸君のなしうることは、彼等を実に嫉妬深い、恨みがましい、妄執の鬼と化するに終わるのである。由来、人間に対して優しいこころねを失わぬものは、かえってそのゆえに大多数の人々の断片性をおもい知らされる。


D・H・ロレンス 『黙示録論』 ちくま学芸文庫


我々は、我々が期待しているほどには、
努力したところで賢くはならない。
天才と凡人の差異を言いたい訳ではない。
少なくとも努力は怠慢による精神の
自滅と堕落からは救ってくれる。
それだけのことかもしれないし、
それで十分なのかもしれない。
「思想」とは単に己が考えたことであり、
「精神」とは単に己に宿っているものである。
「思想」も「精神」も結局その程度のことに過ぎない。
そして、「思想」における努力とは、
「精神」という「特殊」から「普遍」へ
と目指す運動(思索-対話)のことである。


我々は一人一人が異なっている、
そういう当たり前のことを確認しているだけである。
「個性」など教えるまでもないことだ。
他者にどんなに踏み躙られても歯軋りして耐え続け、
自らどんなに消し去ろうとしても消せないもの、
それこそが「個性」というものなのである。
「私」とは「私」と「私ではないもの」からなる。
それをただ「私」であることだけを強調すればどうなるか。
想像するまでもあるまい。
我々は言語に絶する貧しい、
惨めな断片と化さざるを得なくなるのである。
「私」はついに「私」に成り得ないのだ。


はっきり言おう。
「思想」と「精神」とは教えうるものでも、
誰かに教えられるものでもない。
だからこそ、思索者は己を孤独な戦いに身を置くのだ。
思想という営為は常に独りで遣り遂げなければならぬ。
そういう意味で思想は他と争ったりはしない。
論争するのは知性の働きである。
知性とエゴとその他諸々の断片の起こすところである。
諸君らの中には我輩に反撥を抱くものが居よう。
だが、諸君らが衝突しているのは、
彼と此の断片と断片、自我と自我に過ぎない。
「私」の内に在る「私」と「私でないもの」とが、
いがみ合い、憎しみ合い、殺し合っているのだ。
だからこそ、我々は論争に勝利しようが、敗北しようが、
「私」の内に在る大切な何かを失うのである。


我々が他との結び付きを拒絶すれば、
我々の内にある他を殺さねばならない。
そして、現代人というのは“結び付け得ない”、
己の内の愛するものを殺してしまわねばならぬ宿命にある。
現代にもし悲劇というものがあるならば、
このアイロニーと矛盾とにある。
これが『黙示録論』のロレンスと、
「現代人は愛しうるか」と副題を付けた
訳者福田恒存が我々に問うて来るところの「思想」であった。


まったく情けない話であるが、
我輩の思想性というのは、
彼らの思想に「憑依」してかろうじて語り得る、
その程度に過ぎないものなのである。
そういう意味で、我輩の駄文や
世にはこびる思想の解説書などは読むに値しない。
『黙示録論』に興味を持たれたならば、
さっさとウィンドウを閉じて書店に赴かれるがよかろう。
もちろんロレンスと福田は
DEATHNOTE』も『コードギアス』も知らないから、
本題にはあまり関係ないのかもしれない。
しかし、彼らの「眼」を借りたということは
きちんとした形で記しておきたいと思い、
少々長い前書を添えさせて頂いた。

●迷信を信じない迷信

ヘーゲルという哲学者が彼の『法哲学』という本で、
自殺は最高の自由意志」などと言っているが、
ドストエフスキーの『悪霊』の中でも、
自我の最高表現として自殺を選択する登場人物が出てくる。
元から引いてくるのが面倒なのでウィキペディアから引くが、
彼の思想というは大体このようなものだ。
神の意志に従わず我意を完全に貫いたとき、
 神が存在しないこと、自分が神となることが証明される。
 完全な我意とは自殺である


「自己表現」の極北のような思想であり行動であるのだが、
思惟するところの彼が自殺する彼と同一であるのか、
より端的に言えば、彼の自殺は本当に彼自身の意志なのか。
なるほど、神の意志への反逆には確かに成功しているが、
神が存在しないことと彼が神であることの証明は別問題である。
神の意志という迷信を取り払ってはいいが、
別の迷信に憑かれていては独立した自我とは言えますまい。
この迷信はあるものに騙されまいとして、
別の何かに騙されるという自己錯誤に過ぎない。
個人に自律性が存し得ない以上、
彼自身が自己の制御なり操作することは不可能なのだ。


この種のイロニーなり、矛盾なりを
意識的に行ったのが前世紀の実存主義者たち、
特にサルトルである。
何の理由もなければ意味もなく生まれてくる人間は、
生きている以上は何かしらの行為をする。
この限りにおいて人は目標を自ら策定しそれを目指す。
目標を越えればまたその彼方に目標を掲げる。
かくして状況の超越を繰り返していく。
信じて“いない”ことすらそれを目標として“信じ”、
信じて“いない”ことに向かって突き進む。


これはあまりにしんどい。
無限に広がる当て所ない時空を意識させられるからである。
その虚無に怯えるなり、超越を諦めたところに、
例の「セカイ系」とやらがあるのだろう。
そこではもはや誰かに目標を投げかけてもらえないと
それを超越することすら出来ない。
彼らは自意識=世界に陥って引きこもったのではなく、
世界に自分を何処に位置づけたらよいのか、
分からなくなったのである。
権威無き世界に「自分の足で立つ」とか、
自己実現」とかそういう問題ではないのだ。

●我々は本当に何も信じていないのか?

善良な市民の2006年総括」において宇野常寛氏は、
現状を以下のように分析しておられる。


『世の中のしくみが変わってきて何が正しいかわからない』から
 『間違いを犯すくらいなら、何もしないで引きこもる』
 という思想が蔓延した時代です。
 ――中略――
 要するになんでも自分のせいではなく世界のせいにする思想です。
 『世界が複雑で不透明でよくわからないから、
 自分では努力しなくていい』という発想がここには蔓延している」


宇野氏に限らず彼を持ち上げた一部の人たちは
本当にそんなことを信じているのだろうか。
これが連載の「ゼロ年代の想像力」と
この総括を読んだ時の率直な感想である。
世の中のしくみが変わったり」、
何が正しいかわからない」のは、
別に現代特有のことではないだろう。
若い人はかつてのソ連が崩壊するべくして
崩壊したと思い込んでおられることが多いが、
ある朝起きてTVつけたら字幕が飛び込んできて、
唐突な事実を思い知らされたというのが実際のところだ。
ただし、時間が経てばすぐにその驚愕の“気分”は忘れられて、
無味乾燥な歴史の一項目となってしまうのである。


一方、89年のマルタ会談で冷戦が終わり、
これから平和裏に“社会主義”が“発展していく”、
あくまでも知識人たちはそう思い込んでいた。
だからこそ、91年はそういう意味で画期となったし、
丸山真男などは苦し紛れに
これから“新しい”社会主義が始まる
などと言わざるを得なかったのである。
若い人々よ、これが「時代」を生きるということなのだ。
反省もしなければ、賢明でもない、
ただ日常と事件が繰り返されるだけのことである。


世界が複雑で不透明でよくわからない
とは我輩の若い知人からもよく聞くのだが、
我輩などにはいまいち理解できない。
資本主義の前に共産主義社会民主主義ファシズムも、
悉く敗れ去ってきた訳で、
この単線的な社会システムに屈従するしか、
もう選択肢はないという状況である。
民主主義とて今更天皇親政を訴える馬鹿はおりますまい。
このあまりに自明過ぎるシステムにおいて、
自己をどう位置づけるか、それだけのことである。
もちろんその位置付けというのは中々に困難なのであるが、
我々にもはや退避路など存在しない。


ルールが壊れてしまった」とか、
引きこもっていたら殺されるサバイブ感」だとか、
我輩にはちっとも理解できない。
隣の山田さんがいきなり部屋に乱入して我輩を包丁で刺し殺し、
太陽が眩しかったから」などと言ったりする。
そんなことを宇野氏は現実に想像しうるのだろうか。
大体、ヴァージニア工科大学の銃乱射事件を
人々の常識は迷い無く異常として処理したのであって、
ルール(法律)が生きている限り、
その種のアナーキーな世界は想定し得ない。
加えて、何時如何なるどのような社会であろうと、
サバイブしていかないと自滅・堕落・淘汰が待っているのだから、
緊張感という意味での「サバイブ感」は常識であろうし、
不条理としての「サバイブ感」であれば単なる妄想か神経症であろう。


殺さず、盗まず、姦淫せず。
この程度のルールは今でも健在である。
これに嘘をつかないと酒を飲まないで、
仏教では「五戒」と言うのだが、
後者の二つにしても大抵の人は、
「後ろめたさ」くらいは持つだろう。
換言すれば我々の罪悪感とか倫理観とかも
その程度の問題に過ぎない。
要は「後ろめたい」という“気分”である。
「我々自身」もこの種の「倫理」もアプリオリなものなのであって、
まったく「理」的でも「知」的なものではないが、
我々はそれによって生かされている、それは厳然たる事実だ。
「信じられない」という事実があるのではなく、
せいぜい「信じ難くなった」程度の問題に過ぎない。
「虚無」も「孤独」も我らの前にはない、
後ろに潜んで嗤っているのだ。
それを自覚せぬ限り混乱の本当の原因は見えぬであろう。

「セカイ系」と「逃避」の本質

●現代の迷信

迷信の時代とは知っている以上のことを
知っていると人々が想像する時代なのです


F・A・ハイエク 『自然・人類・文明』


素敵です、と言われても何だか返事に困るが、
先日の覚書が「セカイ系」を中心に読まれているようなので、
今日は「セカイ系」とその周辺に絞って考察したい。


覚書において指摘しておいたように、
セカイ系」だろうが何であろうが、
その種のキーワードとして提出される類のものは、
ほとんどが意匠(呪い語)に過ぎないのであって、
批評家が向き合うべきなのはそうした上っ面の現象なのではなく、
その根に通底しているものに対してなのである*1
さらに言えば、自己自身にも照らして考えるべきだ。
自己を例外にして考えるから対象を捉え損ねるし、
精神に緊張感を保てないのである。
大体、「現代の病理」などというものが本当にあるとして、
それが自分だけ例外であるかのように考えるのは甘えに過ぎまい。


我々自身は複雑になってもいないし、
ほとんど変化してすらもいない。
変化してきたのは環境であり、
進歩したのは技術なり、物なりであって、
我々自身は何の進展もしていない。
そういう意味で元長柾木氏の
セカイ系は、まだ始まってすらいません*2
という断言には一面の真実がある。


現代の混乱の原因は現象そのものというよりも、
現象を追い回した挙句それに化かされている側にこそある。
全てを視通す眼、完全に迷いの無い視線、
そんなものはありえないのだから、
見えざる領域を自覚していないければならない。
考えるとは見える領域と見えざる領域と区別するのであって、
端から「語りえぬものに対して沈黙」している訳ではあるまい。
語らないことと考えないことは同義ではない。
そして、宗教であろうが、知性や理性であろうが、
その自覚がないからたちまち迷信と化すのである。

●見えるものと見えないもの

各人にはそれぞれの闇がある。
正確に言って、この人の闇とは、
どんな闇だったのか。あの人の闇とは。
本当のところ、 彼が関わった特殊具体的な霧の厚みとは
どのようなものであっただろうか。
その霧の厚みこそが、
彼にとっての見えないものと見えるもの、
聞こえないものと聞こえるもの、
つまりは、ある種、語りうるものと語ることが不可能な、
または困難なものを決定したのだ。


ベルナール=アンリ・レヴィ 『サルトルの世紀』


ロマンティシズムの定義において松本健一氏が、
美しいものを見ようと思ったら目を瞑る
それがロマンティシズムの態度だと仰っておられたが、
なるほどな、と我輩は思った。
以前、我輩が見に行った高島野十郎の絵にも、
目を瞑った時の情景が描かれたものがあった。
瞼の奥から浸み込むように光が揺れている様は、
この画家を特徴付ける態度である。
彼はそれを“見えるもの”として写し取ったのだ。
社会から孤絶し、独り野に死す事を祈って
「野十郎」と号したこの変わり者の画家は、
その実、極めて強烈なリアリズムの徒であった。
彼の残した峻厳な現実の像に、
苛烈なリゴリストの生き様に我々は間誤付いてしまう。
芸術家を気取る多くの輩はここまでの現実を見ただろうか。


リアリズムとロマンティシズム。
一見、対極にあるかのように思えるこの思想には、
底層においてぬぅーっとした棒の如きものが貫いている。
決して相食む蛇のような関係ではない。
二元論的“対立”として見るというのは、
実のところ一元的に“解決”しうると見る一種の楽観論である。
各々が何かを見つめる時、
見開かれた眼を以って実像を掴まんとする者もあれば、
表層に惑わされず奥底にあるものを
目を瞑って見んとせん者も現れる。
そして、見ている「もの」は同じなのである。
彼らは背中合わせに居るのかもしれないし、
お互いを知らずに見詰め合っているのかもしれない。
だからこそ、批評は「見えたもの」を見るのではなく、
時として彼が「見えなかったもの」、
「見なかったもの」を見ようとするのである。

●宗教と思想

マルクスは宗教を阿片と呼んだ。
なるほど言い得て妙である。
19世紀欧州において阿片は「薬」であった。
あの当時において阿片に負の印象は無い。
「苦痛を和らげる薬」が阿片であった。
生の苦痛を和らげる阿片が宗教である
マルクスは言ったのに過ぎない。
これは田川建三が指摘していたことだが、
文献学的には彼の独創という訳でもないようだ。


所変わって我らが現代の日本であるが、
奇妙なことにわが国では思想が阿片として用いられている。
昨今の中国の偽薬騒動ではないが、
薬ならぬものを薬と呼んでその効能を有難がっている。
贋物という自覚が無い点ではより深刻であり、
失敗しても痛痒を感じぬという点では、
精神の堕落を一層進展させるだろう。
これは何も現代にはじまったことではなく、
近代日本の宿命的な自己錯誤である。


西洋において思想は神を失ったところに登場した。
すなわち救われない者が救われない事実を受け入れたところに、
西洋哲学の特に実存主義が生まれたのである。
運命論や主体論が多いことはそうした理由によっているのであろう。
「永生」の循環から「世界」に投げ出され、
彼らは存在理由を求めてあがくのである。
神が生きていた時代において、
存在理由などいったものは必要なかった。
そういう意味において人間は人間自身を得ようとして、
神を失い、人間自身すらも喪失する羽目になったのだ。
この焦りからか、近代から現代にかけて、
奇妙な人間像が数多生み出されてくる。


曰く


人間はおそらく自分固有の本能がなにもない」(ルソー)


最も病的な動物、自分の本能からまことに
 危険なほど足を踏み外してしまった動物」(ニーチェ


自然と調和の烈開」(ラカン


ホモ・デメンス(錯乱類)」(モラン)


字句通り受け取ればこれほど卑屈な人間観はないが、
その実、我々(人間)は蓄群とは違うのだ、
という優越感の裏返しに過ぎないのである。
卑近な例でたとえれば、
おたくの「貶める愛」なるものみたいなものだ。
要するに差異の欲求は劣等感からも優越感からも生じうる。
そして、バタイユの「人間性とは動物性の否認だ
という冷ややかな言が最もリアリティをもってくる。
しかし、いずれにしてもよってくる
論理は破綻しており実に居た堪れない。
何の根拠も無いこれらを信じるところに、
思想というものが生み出されてきたのである。
したがって、少々逆説的に聞こえるかもしれないが、
「孤独」というのは自己に内在するものなのではなくて、
外在するもの中に内在しているものなのである。


自意識過剰も孤独感もこの副作用に過ぎないのであって、
一度「世界」に放り出された以上、
何を解決することが、決断することがあるのだろうか。
結果はもうすでに出ている。
だからこそ、“救われない”のである。
解決や決断などと言っている間は
所詮他人事のようにしか思っていない、
つまりは“気分”に過ぎないのだ。
あるのは「孤独」ではなく、「孤独感」であり、
そんなものはどうせ長続きなどしない。
気分に過ぎぬ以上、放って置けば勝手に雲散霧消する。
根は変わらないが気分だけは移ろい、
やがてそれが気分だという事実すら忘れて、
気分に憑依する気分が生まれてこよう。
本当は問題にすらならぬ問題こそが思想の課題であるというのに。

●個人(自由) と 全体(世界) と 認識

存在するものを想定することは、思考し推論しうるために必要である。論理学は恒常不変のものにあてはまる公式のみを取り扱うからである。このゆえに、こうした想定は実在性を証明する力をまだもってはいない。すなわち、「存在するもの」は私たちの光学に属する。存在するものとしての「自我」(――生成や発展によって触れられることがない)。主観、実体、「理性」などという虚構された世界は必要である――、すなわち、秩序付け、単純化し、偽造し、人為的に分離する権力が私たちの内にはあるのである。「真理」とは、多種多様の感覚を支配しようとの意志に他ならない、――かくして諸現象は一定の範疇にもとづいて配列される。そのさい私たちは事物の「それ自体」を信ずるところから出発する(私たちは諸現象を現実的なものとみなす)。定式化されがたいものとしての、「偽」としての、「自己矛盾する」ものとしての生成の世界の性格。認識と生成とは互いに排除しあう。その結果認識は何か別のものとならなければならない。すなわち、認識しうるものたらしめようとする一つの意志が先行していなければならない、一種の生成自身が存在するものという迷妄をつくりあげなければならないのである。


F・ニーチェ 『権力への意志』 理想社



問題にならぬ問題を見ようということになって、
さしあたってニーチェを引いた。
はてなのキーワードにあるところの
いわゆる「セカイ系」の説明を
より洗練した形で表してくれている。
「意識」と「認識」はイコールではない、
それは至極当たり前のことである。
問題は何故「セカイ系」ではこの混交が見られるのか。
あるいは、「意識」と「認識」が接近するのか。


それはおそらく個人主義の帰結である。
先の説明において述べたように、
宗教においては個人は全体の内部に存在し、
そこにおいて自己という「意識」は存し得ない。
我々は外部に放り出されてはじめて
全体=世界を認識しうるのであり、
同時に「意識」は「外部」に向かうのである。
ところが、自己(個人)を中心として
形作られるこの「認識」は
「意識」を無限大に押し広げる作用がある。
当然である。部分としての自覚を持たず、
ひとりひとりが世界の中心であるなら、
「認識」は「意識」を超えて止め処なく広がって行く。


これこそが我々が知るところの「虚無」である。
セカイ系」における世界=全体は閉ざされているのではない。
むしろ無限の広がりの内に雲散霧消したのであり、
そこに存在するのはもはや断片であり部分に過ぎないものである。
そこでは「透明な自己」が「孤独感」として表現され、
自己が見え難くなるほどに
自意識が過剰になる逆説となってたちあらわれる。
これが「意識」と「認識」の混乱であり、
我々を戸惑わせる原因に繋がるのであろう。

●「終わりなき日常」=「『歴史の終わり』の終わり」の意味

歴史の終わり=歴史の目的がもはや見いだされなくなったとき、
終わり=目的の相関物である期限もまた見失われる。
そこでパニックに陥った人々は、期限を再発見し、
それによって終わり=目的を再発見しようと絶望的にあがく
……しかるに、私たちは歴史の欠如を生きている。
そう、それは歴史の退歩や反動ですらなく、端的な欠如なのです。
ループを描いて反復される非‐出来事の連鎖。
そのなかでは、民族紛争であれ何であれ、
もはや歴史的な意味を持ち得ない


ジャン・ボードリヤール
浅田彰『「歴史の終わり」を超えて』での発言より


国家が宗教性を帯びやすいのは、
それはおそらく古い教会であったからであろう。
つまり、原始的な共同体の時代から、
今日の非人間的大共同体の時代に至るまで、
集団である以上何かしらの倫理を持たざるを得なかった。
今日、右翼思想家が国家を“媒体”として、
過去の記憶を共有し、未来へ橋渡すものとして現在を位置づけ、
現在過去未来を統一した形として掲示しよう
と欲するのはその残滓の最期の抵抗であろう。
が、所詮は断片の寄せ集めに過ぎない。
引用したボードリヤール風に言えば、
シミュラクル(模像)に過ぎないのである。


歴史の位置付けを失った「現代 modern 」は、
「現在 now 」という断片にならざるをえない。
断片に過ぎぬ我々は、
本来それぞれの「現在」に生きているのに過ぎない。
それを「現代」という言葉によって、
世界があたかも同時代に生きているかのようなに装い、
我々は幻想の同時代を生きてきたのである。
その幻想が覚める時、
それがすなわち「歴史の終わり」の終わりなのだ。
ではなぜ「歴史が終わる」とき、
日常は“終わらなくなる”のか。
ここに先の「いまだ始まってすらいない
という逆説的断言が生じてくる。
つまり、目標も起源も失われてしまった以上、
ある意味では“始まってすらいない”のであり、
解決という意味での“終わり”すらないのである。
まさに命題そのものが雲散霧消してしまったのだ。

●「逃避」の本質

いい加減先延ばしせずに結論を出すとしよう。
本当の問題、つまり、我々は何から逃避しているのか。
「引きこもる」にせよ、
「決断」して“遠ざかる”にせよ、
一体何に怯え、何から逃避しているのか。
それを定めなければ問題そのものすら掴めない。


先に「セカイ系」の錯誤はそれそのものではなく、
個人主義自体の欠陥にあるという指摘をした。
先の覚書で我輩は気分と物に憑依しているのが
日本における思想だとも述べた。
ところが、「孤独」とは本来それそのものなのである。
この矛盾に我々の根本的な問題が秘められている。
我々は「孤独」を「孤独」としては受け取らなかった。
それはあくまでも「孤独“感”」として、
つまりは気分(実感)によって処理されてしまった。
「孤独」も「個人の存在感」も、
「質」ではなく、「量」の問題として認識されたのである。


純粋な「観念」としてではなく、
「気分(実感)」を観念として捉えるのが、
我々の観念論の正体なのだ。
だからこそ、我々の孤独感というのは、
実に不可思議なことに存在感が希薄なのである。
それ故に「透明な自己」なるものを
「孤独感」と見て憚らないのだ。
存在感が無いというのは個人の存在証明を
しくじったということであるにも関わらず。
だから我々はそれを今もって
「質」としてではなく「量」として捉えている。
我々日本人はついぞ「個人」というものを、
確立しえなかったということなのである。


これこそが最も根本的錯誤なのだ。
「挫折」ではなく、「逃避」としたのはそれ故である。
三度目の引用でいい加減くどいが、
セカイ系は、まだ始まってすらいません
という断言にもそういう意味で一面の真実が存する。
無いものは端から「挫折」しようもない。
あったのは問題から「逃避」しようとし、
「安全地帯」を探そうとして
右往左往する「現象」だけである。


精神は容易に物化されてそれに依拠して
「孤独感」は気分(実感)として表れるだけだ。
だからこそ、容易にすべて気分として処理され、
気分の内に救いが得られるのである。
そこに緊迫感とか真剣さなどいったものは存在しない。
知的なスノビストたちが
「観念」を「物」として弄んでいるだけである。
ゼロ年代の想像力」論も
そうした気分の内に処理されよう。


我輩は単に逃げるなとか、
それが悪いのだと言いたい訳ではない。
逃げている意識は忘れるなと言いたいだけだ。
忘れるからこそ本質が見えなくなって、
現象を追い掛け回すようになるのである。
良くも悪くも気分によって救われてきたのは
事実である以上素直に認めるほかどうしようもない。
ただ少なくとも、こうした不毛な
実感に依拠しているのに過ぎない観念論や、
見せ掛けの個人主義はさっさとやめてしまった方がよいだろう。

吾々はつねに《結論》を要求し、終結を欲する。知的操作において、かならず断案、決定、終止符に到達しようとこころみるのである。それによって、吾々は一種の満足感を味わう。吾々の知的な意識はことごとく前進運動であり、段階運動であり、それはあたかも吾々の文章のごとく、あらゆる終止符が《進展》と何処かへの到着とを明示する里程標となる。こうして吾々はあくまで前進して止まないという始末だ。それも、吾々の精神的意識が、何処かへ行かねばならぬ、意識には終点があるのだろいう幻想のもとに、絶えず働いているからだ。ところが、もちろん終点などというものがあるわけのものではない。意識はその本質においてみずから一つの終結なのである。しかも吾々は何処かへ到達せんとしてわれをわが身を苛むのだ。ようやくそこに達したかとおもえば、それは何処でもない、元来が到達すべきところなど何処にもないからである。


D・H・ロレンス 『黙示録論』 ちくま学芸文庫

*1:どうだろう諸君。いっそ「恥ずかしい台詞禁止!」式に「メタって言うの禁止!」とか自身に課してみないか

*2:http://d.hatena.ne.jp/motonaga/20070605

「ゼロ年代の想像力」に寄せて

今日の著作家は長い間研究してきたテーマについて書こうとペンをとる際に、次のようなことを念頭に置いておくべきである。つまり、そうした問題について一度も考えたことのない普通の読者がたとえ彼の著作を読むにしても、それは彼から何か学ぼうとするために読むのではなく、その反対に、その読者が詰め込んでいる凡俗な知識と食い違うところを見つけたら、著者を断罪しようとして読むのであると。……現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。……全ての人と同じでない者、全ての人と同じように考えない者は、締め出される危険にさらされているのだ。……以上が、残酷な姿を隠さずに描いた現代の恐るべき事実である。


オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫


先日、さして大した意図もなく
ゼロ年代の想像力」という言葉を用いたところ、
この侘しきブログにキーワードから
飛んで来た方が思いのほか多く、
昨今のはてな界隈の風潮というものを直に感じた。
そこで、所謂「ゼロ年代の想像力」などの論考を巡って
言葉遊びを繰り広げられている人々に向けて、
一筆書いてみようと思い立った。


複雑な現象を部分的に切り開いて見せようが、
あるいは全体を特定せずに提供したところで、
ものの連関は見えてこない。
我輩は本稿で歴史や先達に導かれつつ、
敢えてあまり関連付けられて
語られてこなかったものについて語りたい。
まとまりに欠いているのはそのためであるが、
その辺はご容赦頂きたい。

●歴史的事実としての「決断主義

まずもって、「決断主義」とは何か。
どうにも宇野常寛氏自身が曖昧なまま用いたためか、
決断主義」という言葉ばかりが独り歩きしている。
ハイデガーとの関連を指摘していた人が居たが、
厳密に言えばナチスの御用学者をやっていた
カール・シュミット公法学者)によるものだ。
まず、辞書的な定義を引いておこう。


法秩序・政治秩序の究極の源泉、
また、その時々の政治的決定は、
政治の世界の当事者すなわち主権的権威者の
決断的意志に存するものであり、
その際、倫理的規範・法的規範による
正当化を何ら必要としないとする考え方


つまりは、法治主義や規範主義に対する反逆の思想であり、
日本の統帥権天皇制の思想に近いものがある。
より端的に言えば、二・二六事件五・一五事件における
青年将校たちの心情といったところであろうか。
思想ではなく“心情”という語を用いたのは、
誤解を恐れずに言えば中身が無いからである。
調書などを見ても、彼らは現在の政府を倒した後、
如何なる新体制を作るか、具体的方策は有していない。
彼らには与えられた条件の下で如何に結果を出すかという、
実際的な精神を欠いていたのである。
だからこそ、彼らは大義名分にすがりついたのであり、
また、それしか彼らには残らなかったのだ。

●心情としての「決断主義

「新しい」とか、「革新」であるとか、
そういった未来を語る言葉をそのまま信じてしまうほど、
素朴な思想的態度は存在しない。
それは作家の自伝や私小説
字句通り真に受けるようなものだ。
自己に照らして考えてみればいい。
自己がただ自己であるだけで成り立っている
というような妄想を抱いている人は少ないだろう。
同様に、彼を見るときは彼の背後までを、
書かれたものであれば紙背を見通さなければならない。


未来を語っている者が本当に未来を語っているとは限らない。
殊、日本においてそれは単に過去を批判し、
否定していただけであった。
裏返された過去物語にとって、
未来は代替のきく意匠に過ぎない。
それ故にこの種の錯誤は無反省に繰り返されてきたのである。


若い人はご存じないであろうが、
60年代に「三無事件」という
旧日本軍将校によるクーデター未遂事件があった。
彼等は安保騒動や左翼進歩主義共産主義の進展を恐れて、
容共的な閣僚や政治家を粛清しようとしたのだが、
彼らが掲げた三無というのは、
ほとんど当時の左翼の主張と大して差の無い、
言うなれば極めて無政府主義的なものであったが、
具体的にそれをどう実現するかという点でまったく無内容であった。


もっと悲惨な事件として人々に記憶されたのが、
70年代の「東アジア反日武装戦線」による
三菱重工業ビル爆破事件」を主とした連続企業爆破テロだ。
わずか三十年ほど前の事件であるのに今日忘れ去られつつあるが、
贖罪思想(いわゆる「自虐史観」)の最も極端な形で噴出したものとして、
今も我々に不吉な影を落としている。
彼らは日本人であるというだけで過去の侵略の罪を負っていると考え、
まったく無関係な無辜の市民を爆殺したのであるが、
その考えたるや実に単純なキリスト教原罪思想であった。
彼らもまた日本人であるという意識が彼らには希薄なのである。
罪深き日本人を裁く彼ら自身が考慮されていないという点で、
決断主義と言うよりも例外主義とでも評した方がよいかもしれない。
彼らが自己を喪失する程度に比例して極端なるものとして噴出する。
この種の自己錯誤を“自己喪失病”とでも呼べようか。


90年代には若い人もご存知であろうが、
例のオウム真理教による一連のテロ事件が起こった。
彼らの思想もまた単純であって、
今の日本のままでは駄目になる、
変えていかねばならない。
世にはこびる悪徳を一掃して、
(我々の)正義を広く布かねばならぬ。
しかしてその結果は皆さんがご存知の通りである。
肝心な事はこれらの事件が
無反省なまま忘れ去られつつあるということと、
これらの事件を引き起こして来たところの要因は
本質的に広く潜在しているということだ*1

●呪(まじな)い語としての「決断主義

歴史から決断主義に話を戻そう。
転叫院のページ』というサイトで、
「『ゼロ年代の想像力』に対する批判者のためのメモ書き」
というエントリがあげられているが、
そのレトリックには少々首を傾げざるを得ない。
特に下記に引用した部分においてである。

自身は「決断主義」を全肯定する者ではない、としながらも、著者の政治的身振りは「決断主義的」ではないか?


「人はそもそも差別的に生きるしかないのだ」的な主張(もちろんそれをストレートには言わないようにしているのは、著者のレトリック能力の高さによるものだが)を政治的に正当化しようとし、また自己のイメージ戦略をパワーゲーム的に操ろうとする著者の身振りは、いかに彼が「自身は「決断主義」を全肯定する者ではない」と担保を取ろうとしたとしても、決断主義的な行動化ではないだろうか?


あなたが決断主義に憤ることそれ自体が、決断主義を正当化してしまう


決断主義的、パワーゲーム的世界観とは、「人は自分の正しさを政治的なパワーゲームによってしか正当化できない」というものである。である以上は、あなたがたが「決断主義が正当化されるのは許せん!」という憤りを公開することこそが、そのような憤りに基づく政治的パワーゲームを行動化しているという点において、決断主義を正当化してしまうのである。


先に辞書的定義を引用したように、
決断主義」というのは正当化を必要としていない。
成功すれば、ちょびひげ総統が生まれ、
失敗すれば、ミュンヘン一揆となるのである。
なるほど、営為としての歴史は理論ではない。
理論を動かし、理論に動かされてきた人間の結果である。
そういう意味において影響を考慮するのは、
ひとつの現実的な態度であるが、
それは説得をしないと自ら言っているようなものだ。
つまり、答えは予め用意されている。
これでは物を考える態度とは言えない。
至極当たり前な事であるが、
「決断」そのものは「結果」でも「行動」でもない。


そもそも、対象が架空のものである以上、
この種の言論は言葉遊びに過ぎない。
それを「パワーゲーム」といった言葉で大仰に虚飾することは、
大多数にとってはどうでもいいことだという常識に欠いている。
この種の理論家は理論が新しいとか、古いとか、
異端であるとか、正統であるとか、
そういう呑気なことは思いついても、
理論などはいくらでも代用が可能だということに気が付かない。
ガリレオ・ガリレイが異端であろうと、
ガリレオにとって「地球はそれでも回っている」のである。

●「おたく」という思考様式

誤解を恐れずに言えば、
「おたく」が思想を語るのは無意味である。
ここで言う「おたく」とはアニメなどのマニアのことではなく、
ある一定の思想様式の持ち主の事を指している*2
つまり、思考様式を分類する際に、
縦の軸を思考の抽象度、横の軸を思考の高次度としたとき、
抽象度が低く、高次度が高い類型のことだ。
学者型と違って情報を並列化して捉えないこの一群は、
畢竟セレクティヴ・インフォーメーションにならざるをえず、
学問的な実証主義に相反するのである。


しかも、個人主義の帰結の一つであるこの類型は、
本質的に差異を目指す傾向にある。
同質的なコミュニケーションを軸に集団を形成するが、
その内容が均一化してくると、
自分の個性を守ろうと分離解散しようとする。
こうしたことは(――我輩は外部で覗いていただけだが)、
ネット上のコミュニティに関与したことのある方ならば、
一度二度は経験したことがあるのではないだろうか。
彼らの主張も論争もそれ自体ではなく、
彼自身を守ろうとするのが目的であろう以上、
彼らとの議論は徹頭徹尾無意味なのである。
説得するつもりのない連中の戯言に
耳を傾ける必要がどこにあろうか。

●気分と物に憑依する日本の思想

日本の、特に知的な人々の
新しいもの好きは今に始まったことではないが、
その水準は年々低下し、幼稚化しているようである。
幼稚化は蓄積されないが故に起こる。
今日、文化と呼ばれるものすらも、
消費されてすぐに消えていく。
あるのは過去の残滓だけであり、
その切り貼り、断片だけである。
だからこそ、過去から遠ざかるほどに、
幼稚化は加速し続けるのだ。


日日ノ日キ』というブログでは、
件の論考がこのように評されている。

私が宇野氏のテキストが魅力的と感じたのは、他で指摘される先鋭的な視点というところではなく、キャラに憑依し、言葉を紡ぐ姿勢である。私はこのテキストは「評論」的なものが読者に対して影響力を及ぼさないという諦念を前提に書かれていることに着目したい。彼の指し示す評論とは読者に影響を及ぼそうと放つものだ。そこには良い影響も悪い影響も及ぼす「覚悟」があると、まさにこのテキストで言う「決断主義」を行う主人公らの行動とぴたり重なるのではないか。というところが実にスリリングでオモシロイのである。破綻覚悟で書いてるのが勇気あるなあと思います。断言する覚悟があるのはカッコイイからな!


2007-05-31■[文化]今すぐチェキ!『ゼロ年代の想像力〜「失われた10年」の向こう側』が死ぬほどオモシロイ!より引用


「カッコイイ」と言ってしまうのは、
それが気分(心情)の問題でしかない
と言ってしまっているのと同じことである。
そこに観念や思想はもちろん、
批評精神などといったものは存在しない。
より重要なのは、架空の人物や物語に憑依しなければ、
思想を語ることが困難なほど時代精神が希薄化し、
思想性が弱化した時代という事実の方であろう。


心情としての「決断主義」や「カッコイイ」という反応に
端的に表れているように、
日本において観念は気分に過ぎず、
言説はたちまち物と化して、
それを眼鏡に物を見ようとしだす。
かつてのマルクス主義者たちを思い起こして欲しい*3
彼らはマルクスの思想(観念)に賭けたのではない、
現実に存在したソ連という見える事実に賭けたのである。
また、そうであったからこそ、
彼らは彼らの見たい現実しか見えなかったのだ。
日本において西洋的な観念論は存在せず、
観念論と唯物論は単なる意匠の違いに過ぎないのである。


こうした思想的態度は復古的な右翼にも見られる。
卑近な例であげれば、
最近の産経新聞の正論欄は
連日のように道徳論が書かれているが、
その内容たるや過去の存在した「徳」を
処世訓風に断章取義して羅列しただけである。
内容それ自体に意味は全くと言っていいほど無いが、
そういうものが多数発表されるという事実は重要である。
そうした状況においてより問われるべきは、
現代において倫理(道徳)は可能か、ということだ。
その厳然たる困難という事実に背を向けていては、
始まるものも始まらないであろう。

●倫理(宗教)化する文学

哲学は自己自身が本質的に未確定なものであることを知っており、善良な神の小鳥としての自由な運命を喜んで受け入れ、誰に対しても自分のことを気にかけてくれるよう頼んだりもしなければ、自分を売り込んだり、弁護したりもしないのである。哲学がもし誰かの役に立ったとすれば、哲学はそれを素直な人間愛から喜びはする。しかし哲学は他人の役に立つために存在しているのではなく、またそれを目指して期待してもいない。哲学は自己自身の存在を疑うところから始まり、その生命は自己自身と戦い、自己の生命をすり減らす度合いにかかっているのであれば、どうして哲学が自分のことを真剣にとりあげてくれるよう要求することがあろうか。


オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫


広い意味での文学、哲学や思想、小説や詩、
アニメや映画なども入れたって構わないが、
そうしたものは元より救済など範疇の外にある。
救いを与えるのは宗教の仕事である。
にもかかわらず、奇怪な現代人は、
文学に救済を求めるという迷妄に取り憑かれている。
「救済」とは永生を教えることによって、
生の意義を保証し、死に意味を与えるものである。
それが宗教の教えるところの人生の意義というものだが、
畢竟、我々は生と死に関して論じようものなら、
思想は宗教じみたものにならざるをえない。


サルトルなどの実存主義文学は、
キリスト教的な)救いなど無い、
と力強く立ち上がったのであるが、
人間は運命の主人公に成り得なかったという点で、
サルトルは挫折したのである。
個人が自律体であるとか、主体であるとかいった、
この途方も無い目論みはいわゆる
日本の「セカイ系」の諸作品において
装いを新たに(神秘主義を注入して)蘇ったのであった。

●「終わりなき日常」と「歴史の終わり」

「終わりなき日常」というのは宮台真司の言葉であるが、
この元ネタになったのはおそらく、
フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」であろう。
フクヤマの元ネタはコジェーブであり、
 コジェーブはヘーゲル哲学の解釈者に過ぎない)
さらに突っ込んで言えば、
歴史の終わりそのものが終わった」という
ジャン・ボードリヤールの言説に行き着く。


歴史の終わり=歴史の目的がもはや見いだされなくなったとき、
 終わり=目的の相関物である期限もまた見失われる。
 そこでパニックに陥った人々は、期限を再発見し、
 それによって終わり=目的を再発見しようと絶望的にあがく


この絶望的なあがきが「終わりなき日常を生きよ」であり、
昨今の風潮の本質の大部分であろう。
決断主義」であろうが、
セカイ系」であろうが、
その次の何かとやらであろうが、
この絶望的なあがきという根っこに変わりない。
ようやく我々は虚無主義に教わるのではなく、
本当の意味での「虚無」を自ら知ったのである。
そして、知った時にはそれがすでに
ままならぬものとして現れて来たのだ。


宗教が衰退し、生と死の教義が失われてしまった今、
残ったのは時間性の制約を受ける「現存在」(ハイデガー)と、
虚無に嘔吐した「実存」(サルトル)だけだ。
自由はもはや生き方ではなく、生の目的、
あるいは生そのものとなる。
そして、「生」は時間的制約(死)によって
その生き生きとした「力」を失ってしまう。
逆説的ではあるが、「死」を忌避する限り、
「生」というのはその輝きを失っていくのである。
同様に不自由という支えを失った自由というのは、
虚無を宿さざるを得なくなる。
何故か。
外的な権威を一切認めない自由主義は、
自ずから由るのではなく、
何ものからにも由らないということを教え込むからだ。


この自由の秘めてきた虚無を解き放ったのが、
「進歩」という観念の崩壊である。
歴史が進むべき道(進歩=目的)を見失ったとき、
同時に過去の有していた意味も失ってしまったのだ。
進歩という観念を取り払って歴史を見てみよう*4
人間の社会はその根本、本質において
有史以来何一つとして変わってなどいないのではないか。
ファラオの王国と民主主義の共和国に優劣など無い。
シカばかりを食べていたライオンが
シマウマを食べるようになった、
その程度の違いしか無いのではないかと我輩は思っている。


政治学などアリストテレス以来
何一つとして進歩などしていないではないか。
政治学の最大の命題とは何かというと、
それは人は何故支配されるかという権力の問題である。
教壇に立つ教師の言う事を生徒は何故従順と聞くのか、
こんな単純な命題を二千年以上も問い続けているのだ。
マルクスは権力を悪とし国家を破壊する事で、
この問題に立ち向かったが結果は無残なものだった。
しかも、現実に現われた社会主義体制はみな国家社会主義であった。
すなわちレーニンスターリニズム及びナチズム。
自由が貫徹されようとする時、
人々は逆説的に不自由を求めだすのである。


思想史において矛盾や誤りを
見つける事はそう難しくない。
しかし、そういう単純な懐疑論は、
哲学を古代ギリシアの時代にまで遡らせる。
アイロニーソフィストソクラテスは、
何所まで行っても実体の掴めぬ者だったではないか。
相対は常に行き着く所なき水平世界に迷い込む。
ところが現代の俄か不可知論者の多くは
この事に無自覚であるか、
あるいは自覚的な、つまりはソフィストだ。
彼らは問題の解としてではなく
逃避の手段として不可知論を用いる。
逆説的では在るが問いは永遠に解かれぬ故に尊く、
解は矛盾に満ちているが故に意味を持つ。


哲学とて状況に変わりは無い。
20世紀の数学者にして思想家ホワイトヘッド
プラトン以降の哲学者は全てプラトンの解釈に過ぎない
とまで嘯いている。
哲学の最も由緒正しき命題、
「私とは何か」という「存在」の問題は
一向に解決を見い出せないままだ。
結局のところ、解など無いのだ。
事実なるものは無く、あるのは解釈だけだ
と喝破したニーチェは正しかったのである*5
古のブッダも皮肉一杯に述べているではないか、
悟りなどは存在しない。
此岸はおろか彼岸をも思わなくなった時に
真の悟りがあると。

●現代における思想という営為の困難さ

どうにも悲観的な説明ばかりになって、
ここまで読まれた奇特な方は、
疲労感を覚えているのではなかろうか。
知性は疲れるが、生きる意欲は疲れない。
人生は不満と退屈の繰り返しだ
ショーペンハウアーは冷ややかに嘯いたが、
実際考える事は疲れる上に意味があるとは限らない。
だからこそ我々はこの不毛な思想の廃墟の上で、
あがき、疲れ、絶望するのだが、
「救い」だとか、安易な解答などは存在しないのであるから、
この独りぼっちの孤独な戦いを続けていくしかないのである。
我々になお倫理的である力が宿るとしたら、
これをおいてほかはあるまい。


読書は認識であり、批評は理解である。
批評の本質はそのものを語る事ではなく、
そのものについて語る事だ。
批評という営みは二次創作に近い。
あるいは翻訳と評しても良いかも知れない。
物語とは語られる物と語る物がある。
語られる物としての作品があり、
我々が読むというのは物を語る事だ。
同様に語られる物としての小説(作品)があり、
語る物としての批評が存在している。
そして、批評を読むとは語られた事を読むわけだ。


内容は何であれ本を読むというのは、
ただ書かれたのものを読むのではなく、
考えられたものを如何に考えられたかを
読み取らなければならない。
ギリシア人の著作を読むときには
我々はギリシア人のように振舞わなければならない。
我々は対話をしているのだ。
時間を超え、空間を超えて。
そのために私たちは視点を動かさねばならない。
いわゆる「神の視線」などというものは妄想に過ぎない。
外を見渡しつつ、内を視通す眼など想像すら出来まい。
我々は何時如何なる時もそれそのものにはなれないのである。
我々は自分自身に対してすら振りをし、まねをして、
演技することによってあらわしているのだ。
同様に、登場人物に憑依するというのは、
それについて読むときに行われるのである。
これが想像力であり、感性というものなのであって、
それには古いも新しいもあるまい。
そして、普遍性を強調しすぎるあまり、
特殊性を考慮しないのは軽慮である。
結局のところ、我々は特殊性からし
普遍性に至る事が出来ないのであるから。


我々はどうして斯くも文学に倫理を求めるのであろうか。
批評とはただ視点を示すだけであるのに、
どうして良いだとか、悪いだとか、
そういう倫理的な言葉が跋扈するのであろうか。
それは「自由」の教えるところの世界観が、
社会の成員がめいめいの利己心を発揮して、
その欲望が充足される世界に過ぎないからであろう。
ただ面白いというだけの享楽に不満を感じているのだ。
だが、その不満も辿っていけば美意識によっているだけで、
無ければ無いでどうということはない。
おそらく、現代人の差異はこの辺の意識の違いに起因する。
我々はその軽さに耐えられなくなっている一方で、
同時に重さから隙あらば何処までも逃避しようと企んでいる。
だからこそ、我々はしばしば相反する矛盾を自己に宿し、
自由と倫理の間で絶えず揺れ動いているのだろう。
そして、おそらく、それは今後しばらく続くであろう。

確かなことはただ一つ、
重さ―軽さという対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、
もっとも多義的だということである。


ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

*1:日本の近現代思想史に関しては、『国家の品格』を批判した一連のエントリを参照されたい。近代の錯誤の在り様というのは驚くほど似通っているのである

*2:参照:http://kouidou.blog65.fc2.com/blog-entry-8.html

*3:とはいっても若い人は知らないであろうから、稲垣武氏の『悪魔祓いの戦後史』(文春文庫)を参照されたい

*4:進歩の観念を取り払った素晴らしい進化論系統図がある。http://d.hatena.ne.jp/katsumushi/20070615/p1を参照されたい

*5:『権力への意志』参照

「パッチギ!」(04年/日本)

この映画に対する評価は難しい。
いくつかの欠点と事実と異なる描写が含まれているためだ。
それはまず「イムジン河」が発禁されたというくだりである。
イムジン河」が販売自粛及び廃盤になったのは
朝鮮総連の抗議によるところが大きい。
最後の方の場面でもラジオのディレクターが
「歌っちゃいけない法律なんておかしい」と気を吐いていたが、
そもそもそのような法律は戦後に存在しない。
あるのはただ“タブー”だけである。
タブーというものはそれ自体以上に
それを取り扱う人間を醜くする。
タブーに対して反撥しようが、卑屈になろうが、
洗い出されてくるのは劣等感に過ぎないからだ。
過剰に他人の目を気にする人が患い易い病癖である。


イムジン河」はザ・フォーク・クルセダーズのメンバーが
民謡と勘違いして著作権者に無断で翻訳したための問題があり、
さらに原作が一種のプロパガンダであったためか、
原作とは意味が異なる翻訳が後半部でなされており、
その点も総連側に問題視された。
(彼らはあくまでも原作に忠実であることを求めた)
こうした少し調べただけで分かってしまうような、
演出上の嘘はつくべきではなかっただろう。
殊、単なる娯楽作品としてだけではなく、
メッセージ性を込めるなら尚更のことである。


さらには映画全体に言えることだが、
在日朝鮮人には韓国籍を中心とした民団と
朝鮮籍を中心とした総連とがあり、
両者は対立しており交流が乏しかった。
朝鮮人の間の対立を描けなかったのは
この映画の大きな問題であろう。
韓国人として描かれるのは
せいぜい釜山からの密航者金太郎だけであり、
総じて閉ざされた空間の描き方をしている。
鄭大均氏や姜尚中氏らの自伝を読めば分かると思うが、
必ずしも朝鮮人街にまとまって暮らしていた訳ではない。
日本人でもなく、朝鮮人でもなく、
仮面の生をおくっていた人々も少なかったのである。
そういう意味で、本作は
ある種のステレオタイプを脱し得なかった。
この点は非常に残念であった。


本作では恋する日本人少年と朝鮮人少女との間を隔てる
「河」が象徴的に何度も用いられている。
彼女に会うためにずぶ濡れになって渡る主人公のシーン、
日本人と朝鮮人の不良たちが河をはさんで
にらみ合うクライマックスの決闘シーン、
そして何よりも印象的なのは、
友だった朝鮮人の葬式で拒絶された主人公が
自分と彼らとの間にある渡り難い「河」を見つけ、
「悲しくてやりきれない」を背に彼らと別れ、
そして橋の上で彼らと自分を結び付けてくれた
ギターを自らの手で叩き壊すシーンである。


己の無力、現実に対する理想の弱さ、
やり場の無い怒り、理屈を伴わない暴力の噴出、
こうした人間性の負の部分を自覚している分、
井筒監督は彼が反撥する石原都知事よりは、
創作家として一枚も二枚も上手と言わざるを得まい。
自己犠牲のロマンティシズムというのは確かに美しいが、
それが単なる甘えに過ぎぬということがしばしばある。
なぜなら自己犠牲と他人への奉仕は必ずしも結びつかないからだ。
拒絶される“善意”というもの描けたのは、
そういう意味において本作の大きな成果であろう。


一人一人の人間として登場人物を見たとき、
この映画の物語は大変感動的である。
が、しかし、描かれなかったものについて考えるとき、
手放しでは褒められない、
あるいはそれから社会を考えるという行為を
躊躇せずにはいられないのである。


主人公の少年は彼らの文化を学ぼうと、
彼女のことをもっと知りたいと、
本屋に入り、日韓辞典ではなく、
より彼らに近いであろう日朝辞典を迷わず手に取る。
彼の行動も動機も純粋である。
さらには最期で「イムジン河」を歌い終えた主人公を、
「悲しくてやりきれない」を背に彼らと別れ、
それでも別たれたもの同士を結びつける
イムジン河」を歌わずにはいられなかった彼の少年を、
ヒロインは初めて自ら「川(橋)を渡って」迎えに行く。
その行為にはただ無垢な恋心と
彼女の心根の優しさによってのみ裏打ちされている。
こうした純粋さゆえに心を打たれるのであって、
それが日本人と在日朝鮮人の間であるからではないだろう。
もちろん越えがたい壁、渡ることの出来ない河、
そうした意味での象徴としての効果は大きい。
しかし、それゆえに評価することができるのだろうか。
社会的な主張として、映画として。


この映画が優れているからこそ、
そうした見方はすべきではないし、
またそういう考えで作るべきではなかったと思う。
なぜならそうした考えに至ったとき、
登場人物たちは客体化されて
姿輪郭は見やすくなっても、
活き活きとした顔の表情は見えなくなってしまう。
顔を見ないというのは、素顔を認めないというのは、
同時に一人の人間としての個性を消し去ってしまうことになる。
こうした複雑な思いがどうしても
ただ感動にひたるのを静止するのであり、
また結論という停止点にも至ることが出来ず、
もやもやとした感情を抱き続けさせられるのである。

「私の頭の中の消しゴム」(04年/韓国)

若くしてアルツハイマーになり、次第に全てを忘れていくヒロインと
主人公との間の悲劇を描いた話が本作である。
前半部はラテン系の音楽をBGMにしたラブコメ風で、
後半部はうってかわってシリアスなお話になるのだが、
この記憶をめぐる描写がどこまで科学的に
リアリティを持っているのかはよく分からない。
(次いで、こういう作品にああいう暢気で陽気なBGMを使う
 韓人の民族性というのも“感性”として理解し難い)
秒単位の短期記憶が長期記憶に転換されて
(あるいは転換されずに忘れられて)、
我々は色々な記憶を引き出す。
同じ記憶ものの『博士の愛した数式』では、
この転換が出来ないために80分しか記憶が持たない
という風に描かれていたと思う。


ここで疑問に感じるのは
記憶には階層性や時間性があるかということだ。
この映画においては自分を裏切った不倫相手の名前で
主人公に対して「愛している」というシーンがあるが、
記憶は書き換えられることなく単独に
その時間時間に区切って保管されるのだろうか。
あるいは何かしらの階層性があって、
重要度別に分けられているのか。
もちろん混濁という可能性もある。
脳科学の分野はまだまだ発展途上の学問なので詳細な事は分からないが、
少なくともその話の中に描かれる想像としての記憶というのは、
記憶に対する価値観や思想というものを孕んでいる。


たとえば、記憶の死は精神の死なのか、という問題。
記憶がその人の精神を形作り、人格を形成し、
「わたし」という意識を作り出すのか。
これは唯物的な考え方であるが、
唯物論(乃至機械論)はすべてを物質に還元する。
そのため物質論者というのは、魂はもちろん、
精神や意識といったものすらも懐疑の対象として捉える。
つまり、そうしたものはマボロシか、
あるいは物質がもたらす錯覚のようなものとしてみる。
こういう見方はかつて大きな論議となった
脳死は人の死か」という問題にもつながる。
現在において我々は「精神」それ自体を見るのではなく、
肉体や物質に結び付けて捉えている。
たとえ、いくら「精神(性)」を強調してはいても、
実のところそれは裏返された物質主義に他ならない。


しかして人格は何を以って決定されているのか、
「わたし」を規律付けるものは何なのか。
人格を記憶から切り離して考えたとき、継時性の問題が生じる。
過去における「わたし」は現在の「わたし」であるといえるのか、
あるいは未来の「わたし」はなお現在の「わたし」でありうるのか。
記憶はこうしたアイデンティティの問題に関わってくる。


イギリスの経験論者デイヴィッド・ヒューム
「自我」を「知覚の束あるいは集合体」であると捉えた。
「わたし」も環境と同様に絶えず変化し、
いくつもの「わたし」や「印象」が生じ、継起されるのであるが、
それを統合するのがいわゆる「自我」の働きである。
つまり、「わたし」は「わたし」自身や同一性を
「想像」することによって成り立っているとする。
単一な「わたし」、統合体としての「自我」は、
あくまでも想像によって成り立っているのに過ぎない。
そういう意味において、個人に自律性などは存在しない。
とすれば、その想像力の源泉となっているのが、
あるいは繋がり(媒体)として機能しているのが
「記憶」なのではないだろうか。

「最期の同窓会」(93年/日本)

このドラマは過去を振り返ることで、あるいは顧みることで、
現在を見つめなおそうとするドラマである。
同時にこのドラマは過去を克服しようとする。
ヒロインは6年前に離婚して母子家庭にあるが、
彼女は今もってそれを清算出来ていない。
彼女にとってはこの同窓会をめぐるドラマは
現在に至るまでの自分としての過去を払拭しようとするものでもある。
これは克服というよりも、
むしろゼロからリスタートするといった方が正確であろう。
一方で同窓生を探し回る幹事役がそうであるが、
過去において満たされなかった願望、
果たしえなかったことを現在において実現しようとする。
これは過去の時点で起こすことができなかったという意味で
過去に逆行するというより、現在において停滞している。
これは韓人の「ハンプリ」に似ているかもしれない。
つまり、底層にあるしこりや澱みを解くのである。
彼にとっては終わらせることが克服であったのだ。


話は離婚したヒロインが娘との間で再婚
(――それは今後の身の振り方を決断することでもある)
をめぐって葛藤する場面から描かれる。
そんな折に幹事役の長尾君と出会い、
30年ぶりの同窓会の話を聞かされる。
しかし、ヒロインは自分のことで精一杯であり、
話をさっさと切り上げてしまう。
こうしてはじまる前半部は幹事の長尾君が
行く先々で覚えてないと言われ、影の薄さを強調される。
あまつさえ、みんな行きたくない
(――自分のことで精一杯だ)という。


彼が行く先々の人々はすでにそれぞれの道を生きている。
保険外交員のヒロインの女友達は商売熱心、
大企業の社員の上田君は失脚した上に
ガンを告知されて焦燥で苛立ち、
スーパーの店長は挫折した学生運動の闘士で
自分の人生は失敗したと思っている。
幹事の長尾君のことを唯一覚えていた同窓生はヤクザをやっていた。
このドラマは過去と現在をめぐる群像劇でもある。
それぞれに事情があり、過去をめぐるドラマがあり、
最後にはまた現在の自分に帰っていく。


それぞれの事情と揺れる心情が描かれたのち、
それぞれがそれぞれの思いを胸に同窓会へと向かう。
影の薄い幹事はここでも挫折する。
仕切りたがりの政治家志望があっさりと彼を隅に追いやる。
挫折するのは彼だけではない。
新聞部として誇りを持っていたスーパーの店長は
部の顧問で担任の岡田先生が
自分のことを覚えていないことにショックを受ける。
しかも、問題児だったヤクザのことは覚えていて、
その上うれしそうに語り合うのを見て追い討ちをかけられる。
理想家のスーパーの店長にとっては
思うようにならなかった自分を容認すること、
現在を受け入れることが彼にとってのドラマだ。


挫折を受け止めるのがスーパーの店長なら、
ヒロインにとっては社長夫人から交換手勤めの母子家庭への転落
という踏み外しから立ち直るドラマである。
かつて「マドンナ」であった彼女は過去のままの視線を受けることになる。
やがてそれは露呈し、彼女は過去のままではいられない。
この光から影への移行と逆のドラマが描かれているのは
幹事の長尾君であり、彼のドラマはヒロインの裏返されたドラマである。
必死に探し回り計画した同窓会の幹事役を奪われ
鬱屈がたまる彼は地元に残ってみかん農家を営んでいた。
息子は東京に出たいといい、彼と喧嘩になる。
東京に出て行った同窓生たちを地元に呼び戻すことは
彼にとって儚い祈りであり、儀式であった。
同窓生の勝手についに長尾君は
堪忍袋の緒が切れ、一気にまくしたてる。
廃校される中学校について、この同窓会について。
息子が地元から離れていこうとする彼にとって、
学校と地元の結びつきというのは
彼自身のアイデンティティに関わる問題だった。
彼にとって学校は最期に残されたよりどころであったのである。


一同が長尾君の怒りにしゅんとうなだれて、
そこで先生が話しはじめる。
彼にとっての過去に為しえなかったこと、
記憶の克服のドラマである。
当時、ヤクザが少年鑑別所に入っていて、
ヒロインたちは何とか彼を卒業式に出そうと体育館にこもる。
それに対して岡田先生は立ち塞がり、これを拒んでしまった。
ボケかけている岡田先生は記憶を搾り出し、
最期は涙とともに謝罪する。
そして、たてこもるヒロインたちが歌っていた
上を向いて歩こう」を歌う。


同窓会が終り、校舎を見物に行く4人組は
過去のロール・プレイングをはじめる。
過去の自分を憑依させ、バリケードを築き、
上を向いて歩こう」を歌う。
かつてその場に留まりえなかった長尾君にとっては
やっと駒を進めることになったのであり、
かつて留まった他の三人にとっては再出発のためのリセットである。
こうして話はそれぞれの人生に道にわかれ、終演する。
このドラマにおいては過去の役割を現在においても演じるのだが、
長尾君の場合はこれを克服することが彼にとってのドラマの主題である。
「いじめ」や不登校など、
いうならば負の「しるしつき」の問題が目立つ
現代の中学生を照らして観れば、
長尾君の物語が一番現代性を有しているといえよう。
しかし、彼においては影が薄いだけであったが、
「いじめ」など負の役割を負っていたとき、
こうしたドラマは成立しうるであろうか。
やはり、それも「記憶の克服」というかたちを
とらざるをえないのだろうか。


この作品は少々古いTVドラマなので、
おそらく観た方や覚えている方はほとんど皆無であろう。
しかし、別段特別面白いドラマという訳でもなく、
似たような作品はその後いくつも作られており、
あらすじを読むだけで大体想像が付くのではないだろうか。
要はバブル崩壊と冷戦後における諸々の精神的な慰撫の一つだ。
このドラマで描かれているのはいわゆる「団塊の世代」達であるが、
この世代ほど奇異な受け止められ方をしている世代はない。
曰く、敗戦の廃墟から力強く生まれ、
高度成長の原動力をなし、現代日本の繁栄を生み出した。
また曰く、高度成長にただ乗りし、バブルの狂乱を作り出し、
就職氷河期の諸悪の根源である。
こうした見方は「団塊の世代」自身の過剰な自意識の裏返しに過ぎず、
良くも悪くもそれ自体には実のところ何の特色も無い。
ただ、数が多かったのに過ぎない。
彼らを目の敵にする現代の「失われた青春」論者達の意見が迷妄なれば、
彼ら自身の根拠の無い自負もまた迷信である。


ある時代を生きるというのは
その時代という全体の中に生きていることを意味する。
中に居る人間には得てして「井の中の蛙」のように
自らがどういう時代に生きているのか分からないものだ。
だからこそ、我々は未来と過去を想像する。
未来を見通すことはこれから起こる現実の理解を容易にし、
過去を顧みることは即ち現在の成り立ちを理解することである。
「現在」というのは時間の中核でなければ、軸でもない。
それは過去・現在・未来という不断の運動が生み出す
様相なり現象(表象)なのである。
故に一断面を以ってこれらを語ることほど空しいことはない。
それはあたかも常温下のドライアイスのように
切り離してしまえば跡形もなく消えてしまう運命にあるからである。


我輩が「克服」(あるいは「超克」)といった言葉に
冷ややかな視線を送るのはこうした理由による。
つまり、何かを克服するといったとき、
それはもはや完全なる全体(運動体)ではなく、
断片、それも極々一部分に過ぎない。
「私」が「私」を超えようとしたとき、
「私」は「私」の外部に、
つまり「世界」に放り出されてしまうのだ。
本当の意味(心理的な意味)での克服とは
むしろそれを内包していくことにある。
そして、それは「死」と呼ばれている。
日が昇っては沈むように、冬に枯れた木が春に息を吹き返すように、
我々は営みの中で何度も死にまた生き返るのである。


「生」と「死」の営みを“永生化”しようとするところに
宗教(ファシズム)は立ち現れて来る。
(――「終りなき日常」などありはしないというのに)
それはもはや全体などではなく、散漫な集積体に過ぎない。
個を内包しうる全体は外部から移植する訳にはいかないからだ。
内面を視通す視点、全貌を見渡す視線、
そのようなものは虚妄でしかありえないではないか。
前者においては見られるはずの自己は外部に存在し、
後者においては「私」という存在の余地がまったくなくなってしまう。
斯くして「私」は色を失っていき、
迷信によってしか「外」を見ることが出来なくなる。
こうした状況にあって“透明な私”に
色彩を与えるべく全体主義が登場する。


昨今、はてな界隈で話題になった「セカイ系」と「決断主義」を対比する
ゼロ年代の想像力」論などはその局地的な噴出であろう。
さも宇宙の未来の如く、収縮の果てに消滅するか、膨張の果てに霧散するか、
この「個人」を巡る迷路にあってはもはや静止するほか術はあるまい。
なまじ救済など考えようものならば、
たちまち思想(文学)は「神懸り」にならざるをえない。
そうした宗教じみた思想を、繰り返しになるが
現代の思想史家は「宗教ファシズム」と呼んでいる。
しかも、その実相たるや諸思想のガラクタの寄せ集めに過ぎないのである。
(――いうなれば宗教にならぬ宗教の流行である)
セカイ系」にせよ、
(――実存主義と言い換えてもよいが、
 それが誕生の時点ですでに流産であったことを
 念頭においておかなければならない。
 「セカイ」の主人公たる個人はその実存の不安によって
 ついには『嘔吐』(サルトル)したのであるから)
決断主義」的なるものにせよ、
社会や時代状況など外部的な説明で片付けようとするのは
それこそ皮相をなぞるようなものに過ぎまい。
本当の問題は主体の側にある。


それは現代の自由主義社会において「自由」や「個人」が、
私欲の実現の内に見出されているのであるから、
その帰結として当然のことではないか。
DEATH NOTE』の夜神月を思い出してみればいい。
彼は一見善のために悪を為したかのように見える。
しかし、彼の正義や倫理というのは、
単に私欲を悪徳として独断したのに過ぎない。
彼は悪しき者たちの犠牲となっている、
善良なる者のための新世界を熱く論じているが、
彼が前向きであったり、積極的であったことはない。
ただ現実の社会を批判し、否定していただけだった。
彼は自らの意志で「キラ」を名乗ったのではなく、
「貧しきものをして富ませよ」式の蓄群(大衆)の
復讐心(ルサンチマン)に呼応してみせたのに過ぎない。
善人にも悪党にもなれない、
意志薄弱な彼は蓄群の意志(願望)を
おのれの意志と錯覚する錯誤を犯したのだ。
彼の本質は「否定の優先」をイデオロギーとしていた
ナチズムと同様にニヒリストなのである。


エヴァンゲリオン』はいわゆる「セカイ系」(ひきこもり)の
思想(文学)としてばかり見られているが、
しかし、個を否定して単一の統合体(人為的な絶対神)を
作り出そうとしたゼーレの長老たちも
やはり「否定の優先」の徒、虚無の世界の住人なのではないか。
そうした虚無を主人公は拒絶したのではなかったか。
だからこそ、彼とヒロインだけは生き残ったのではないか。
拒絶されてなおその首を絞める手を緩めるだけの余裕が、
彼の少年には備わっていたと言えるのではなかろうか。
確かに彼の決断力の無さに苛立ちを覚えはする。
しかし、空虚なる殺人鬼夜神月に比べれば、
遥かに自らの意志を有した魅力のあるキャラクターと言えはしまいか。


主体がひきこもっているにせよ、決断しているにせよ、
それが単なる主観的な気分に過ぎないということを
我々は銘記しておくべきであろう。
外見は何か信仰や帰依のように見えても、
実際は単なる実感に依拠しているのに過ぎない。
輪郭を失った印象主義の絵画の風景が落ち着きなく、
主観的気分によってころころ容貌を変えてしまうように。
そうした気分と普遍性を目指さない特殊への堕落が
今日の時評や世代論に通底して見られる。
(――本来、自分だけが理解する真理などというものは、
 理解の対象が「全体」である以上存在しえない。
 そのようなものは独断的錯覚か、あるいは主観的気休めである)
そうしたものが大きく一歩を踏み出しているかのように、
あるいは常道から逸脱した極論のようにすら思われているが、
実際のところ真の対象に背を向けているのに過ぎない。
「個人」の「挫折」や「逃避」の原因や責任が
外部において偽装され続ける限り、
そうした議論はどこまでも不毛とならざるをえないだろう。